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にしかたの昔語り

にしかたの人物伝




  大江重次郎
 天正5年、大江備前守廣隆の白岩稲荷城は最上義光に攻められ落城寸前にありました。廣隆は妻子と重臣家老大江重次郎を自室に呼び出し、
 「敵の軍勢はまもなく屋形まで侵入してくるであろう。私は家来たちを見捨てて逃げることはできない。討死の覚悟である。そなたたちは生き延びて死後の弔いとお家の再興をしてほしい。大江殿には幼い子供と妻をよろしくお願いしたい。幸い湯野沢楯には昔から大江と縁の深い熊野三郎がいる。きっとかくまってくれるであろう。」
と自分の覚悟をしめしました。
 大江重次郎は主君とともに戦い討死する覚悟でしたが、廣隆の決意のほどを知り、稲荷城の守護神稲荷神を懐に戴き、白馬にまたがり、泣きくれる幼子を抱きかかえた奥方を抱えるように前に乗せて城の裏口から抜け出しました。そして敵の軍勢を追い散らしながら疾風の如く留場・田代の山道を駆け走り、湯野沢に落ち延びたのでした。
 無事落ち延びた重次郎は、熊野三郎の屋形に入りことの子細を話しますと、熊野三郎は、白岩氏と縁戚であっただけでなく、白鳥十郎の家臣となり最上義光と敵対していたので、白岩氏の再興を期して白岩城主の妻子をかくまうことを快く承諾してくれたのでした。
 こうして大江重次郎は縁のある農家のM家の主人と廣隆の奥方を夫婦ということにして廣隆の子を住まわせ、自分は名を海老名十次郎甚助とかえて、白岩稲荷神を隠し祀りました。
 ところが、湯野沢に隠れ住んで数年の歳月が流れたころ、廣隆の子は疱瘡にかかり目が不自由になってしまいました。
 時は下って天正12年、白鳥十郎は最上義光の謀略によって山形霞ケ城内で殺害され減亡します。この時熊野三郎も滅びて湯野沢は最上義光の領地となりました。最上氏の白鳥一族の残党狩りに会い、廣隆妻子と家老大江重次郎は義光の家来に見つかり捕らえられて山形城に連れていかれました。だが義光は、
 「主君に対する忠誠は敵ながらあっぱれである。その忠誠をこの義光に示し、荒野の開拓に努めよ。」
といって、処刑をやめたといわれています。
 重次郎は白岩から落ち延びてきた一族とともに湯野沢南部の荒野の開拓を続け、稲が八万刈りも稔る下荒田・上荒田を開き、中の目に屋敷を構える豪農になったといわれています。そして周囲に一族を住まわせたのが今の荒敷地区です。慶長年間、荒敷地区の守護神として、家に隠し祀っていた白岩稲荷城の守護神を遷座して建立したのが荒敷稲荷神社であると伝えられています。
荒敷稲荷神社へ
紅花資料館-あらきそば案内図
  大江廣隆の子
 また義光は目が不自由な廣隆の子を見て、
 「いかに敵方の妻子とはいえ不憫な親子である。」
と言って、処刑を取り止めただけでなく、目が不自由な子供を城内座頭市(あんま)として、母を城内の奥女中として30年間仕えさせ、湯野沢に帰したといわれています。
 義光は30年間勤めた恩賞として、廣隆の子に八木沢前田の田地と薪山の中山を御大領山として御朱印を与えたと伝えています。母は仕え終えてまもなく亡くなりましたが、子は米寿過ぎまで長生きしたといわれています。廣隆の子を土葬した場所は座頭壇とよばれています。
  小野小文治
 幕末の不安定な社会情勢の中、大槙村に村人の争いの仲裁役となる人があらわれました。大久保村の直吉・大槙村の大吉・山口村(現村山市西郷)の太吉という人が知られており、三人は情報を寄せ合って仲裁の判断をし、治安の維持に役たっていたのです。吉のついた三人の三吉が集まれば、村の争いは必ず鎮まるという評判でした。大槙の大吉は子分を持たない侠客肌の人で、一声かけると20人余りの子分(同調者)が集まったといわれ、仲裁は公正を旨としその力量は高い評価を受けていました。この大吉が育てた人が小文治です。小文治は反田地区の生まれで、関東で修業し、長じて山形に帰り、後に左沢に移って酒井公(庄内藩主)に認められ、1000石を与えられ武士の待遇を受け、生涯妻を娶らず明治10年ごろ左沢で死亡しました。墓は大江町左沢の称念寺に建立されています。小文治が酒井公に取り立てられ、士分としての取り扱いをうけたのは、世にいう柴橋事件の業績によるものです。庄内藩が江戸市中の取締りと治安の維持を受けた幕末期、幕府は取締りの実績に報いて、柴橋代官所に保管中の米俵(貢納米)23000俵を庄内藩に供与しました。この米俵を船積みして一晩のうちに庄内藩へ搬送しました。このことは戊農戦争の最中の出来事で、庄内藩は大喜びであり、小文治へ1000石を与えてその労に報いたのです。小文治は生涯をとおして酒井公に力を尽くしたことは言うまでもありません。
(管理人注 : ここに取り上げられている人たちは残念ながらいわゆる「かたぎ」の人たちではありません。小文治には低い評価もあります。そういった人達を大槙地区にまつわる人として紹介するのは不適切な事かもしれませんが、原文を尊重し個人名や場所を少し省略した上で紹介しました。)
 以下小野小文治、西郷隆盛の逸話、高橋勝兵衛、佐藤鶴吉は「大槙村史誌」(平成14年夏、市内の郷土史家髙橋欣二先生が、白鳥地区と碁点地区にはさまれた大槙地区についてまとめられた資料)で紹介されている大槙地区の先人たちの記録です。髙橋欣二先生は村山市文化財保護審議会会長を務められた他、長年にわたり郷土史の研究を続け、村山市史の編さん等に尽力されました。また「碁点界隈昔話」「白鳥十郎夜話」「対峙の武将」「夢枕・時流れて」「城舘事始異聞」等多くの著作を残されました。本ページは父が高橋先生からいただいたと思われるこの「大槙村史誌」を、原文を極力活かしながらホームページにまとめてみたものです。よって文責は管理人にあります。


  菊地槃山(林石門、南邸柏倉敏)
 江戸時代の寛政頃、谷地に林石門という儒学者がいました。石門は江戸の人で名を養造といい、はじめ甲州において3000石の禄を食んでいましたが故あって仕官を止めて民間に下り、処士として谷地に来たって塾を開き河西地方の教育に従事して河西地方教育界に重きをなしていました。子弟は何れも後に村役人・医師、或は鉱吏等になって活躍し、それぞれ地域の指導者として教育事業に力を尽しました。老後は甲州に帰って歿した。訃報に接し、この地方で喪に服した者が約200人といわれていますから、余程敬慕された高徳博学の士であったかと思われます。
 菊地槃山は寛政5(1793)年に生まれ、少年の頃は日塔久七に就いて寺子屋教育を受け、18才の時石門の塾に入って漢学の素養を身につけ、石門の駿足として謳われました。文化14(1817)年25才にして江戸に上り、当時の磧学安積艮斎の学僕となって数年間研学に努力しました。その功が成って遂に江戸に独立の塾を構え、子弟の教育に当たっていた所、37才の時父母の不幸に遭遇して止むなく帰郷しました。その後は村に塾を開いて専ら郷党の教育に力を尽しました。当時の主な子弟には、明治初年の神道家で奇行の多かった湯沢の菅原万蔵をはじめ、奥山治郎兵衛、江端忍、槇権蔵、日塔与右衛門、和田駒之助、谷地の堀米四郎兵衛、田原純達といった人等がいました。
 槃山の遺作は少数ですが、その代表作は「池田府君仁政碑文」(天保の大凶饉当時、尾花沢代官池田仙九郎が行なった善政を顕彰したもの。天保6年に書いたものです。)とされています。この碑は日和田村新見堂に建立されました。書は南邱柏倉敏です。南邱は旧豊田村岡の生まれで、米沢において細井平洲に師事すること2年、後に仙台の南山和尚に就いて学びました。漢詩文に長じ、書は草書を最も得意とし、槃山をはじめ地方の文人との交わりも深かった人です。
(河北町の歴史上巻899~900ページより構成しました。)


  西郷隆盛の逸話
 小文治が米を搬送した2~3日後に柴橋代官所の郷倉に来た薩摩・長州の官軍は、空っぽの蔵を見て大変口惜しがった、と記録されています。この官軍は数日後の9月21日谷地に分宿し、隊長西郷隆盛は細谷与左工門方に宿泊しました。そして下谷地郷の村々に西部街道を北進して新庄方面に向かうための人足2000人が割り当てられ、村々の庄屋はその要請に応えるのに精一杯でした。大槙村の彦七と三郎兵衛は、人足徴用以前に志願し、許されて西郷隆盛の駕篭を担ぐことになりました。無事横山村の代官所へ担ぎ終えたところで、彦七は兵隊になることを決意して、西郷隊長に直訴したところ、西郷隊長は「戦争は終ったのだから平和の時がくる。農業に精出すように」と、その労をねぎらって北進していったという逸話が残されています。前年の慶応4(1868)年には、幕府は大政を天皇に奉還し、大きな転機を迎えていたのです。

  佐藤鶴吉
 佐藤鶴吉は教員を志し明治31(1898)年大槙小学校の代用教員となり、稲下・尾花沢・勧進代・高屋小学校を明治36(1903)年に退職し、明治37年に巡査となり、43年に温海警察分署長(30才)となり、大正13(1924)年に退職しました。大正15(1926)年に西置賜郡長となり昭和2年に長井町長に迎えられ昭和10年に退任しました。長井町では「あやめ町長」として知られています。

  菅原遯(菅原万蔵)
 菅原遯は明治初期に村山地方で活躍した神道家で小学校教育の先駆者でもあります。少年時代までの人生は溝辺大熹とよく似ており、江戸時代末、寺に生まれ、幼少時から俊才といわれましたが、幼くして父を、少年時代に母をなくしています。学問に励みつつ明治の世をむかえ、政府の祭政一致・学制発布政策のもと神官へと転じ神道家として活躍するとともに庶民教育に力を尽くしますが、政府の神道に対する政策に翻弄されるなどして成功をみないまま最後には狂人とまで呼ばれて貧困の中にその生涯を閉じました。とはいえ明治初期の村山地方に大きな影響を与えた人物です。父の残した資料の中に河北町西里の和田文山という人が著した「一君二民」という小冊子があります。以下の文章は一君二民を自分なりに抜粋し現代語に置き換えたものです。原文と異なる点や誤った点がありましたらすべて文責は管理人にあります。
                    
                           菅原遯(一君二民より)
 菅原遯は文政8年楯岡の湯沢に生まれました。字は鶏肋、幼名は数馬、後に徳言、道行、万蔵、遯と改名しました。雅号は黒犬子、霜瓦堂主人、木石居主人。
 祖父は笹原雄助といい、長善寺の名主でした。当時長善寺は新庄領で隣村の稲下は幕府領でした。両村境の原野は稲下と長善寺の共同草刈り場でしたが、稲下村民が共同草刈り場に長善寺村民が入ることを拒んだことから両村の間に争いがおきました。雄助は公儀に訴えても無駄だと考え、長善寺から稲下に流れる用水堰を堰止めるという強行手段にでます。当然稲下村民は長善寺に大勢押し寄せて騒ぎとなり、稲下村民は谷地の代官所へ訴え出ます。雄助は代官所にへ呼び出され取り調べを受けましたが雄助は屈服せず、結局投獄されますが脱獄して山形の専称寺に駆込み僧侶となりました。雄助は名を泰心と改め、その後楯岡湯沢の頓証寺の住職となり、長善寺の自宅を湯沢に移して寺とし妻子も湯沢に引き取りました。泰心はもともと学問好きであったため、やがて然るべき学僧として知られるようになりました。泰心は文化2年あきという一人娘をもうけました。泰心はあきに教養を授け、将来は優秀な跡取りを迎えることを考えていました。折から名取の福行寺に美濃から義周という行脚僧が滞在していました。義周は仏典への造詣が深く説教に巧な僧で、福行寺住職は義周こそあきの婿にふさわしいと考え、自ら媒酌して義周をあき子と結婚させました。文政8年、二人の間に子供が産まれました。数馬と名付けられたこの子が後の菅原遯です。祖父母は数馬を大変可愛がりました。ところが父義周は田舎の寺に埋もれることを嫌い頓証寺を出ていき、そのまま音信不通となってしまいます。籔馬が2歳の秋のことでした。数馬は2~3歳の頃からいろは四十八字を自在に書き、仏名なども憶えるなど、頭のよい子でした。3歳の頃近くの湯沢沼に母と遊びに行った時、母に「お父さんは何時お帰りになるのでしょう。お父さんも一緒に遊びに来て欲しい」とせがみ母も祖母も泣いたそうです。徳言は7歳の時剃髪して仏門に入り祖父から阿弥陀経や孝経を教わりました。徳言はまさに一を聞いて十を知るが如く、周りの人は徳言を神童と称えました。折から村山地方は凶作に見舞われ飢饉の到来が予想されていましたが、徳言は村の子供等と共に山の樹の皮をとり蕨の根を堀って凶作に備えると同時にお寺のお勤めも一日も怠らず、夜も燈火の下読書に励み、その行いをほめられました。
数馬は13歳の時には五言・七言絶句を数十篇作るなどして大いにその才能を認められていました。泰心は徳言の学問をさらに進め儒学者にしようと考え、徳言を当時儒学者として名高かった谷地作山の菊池槃山に入門させます。徳言は槃山のもと学問に励み、たちまち頭角を現します。槃山も徳言の才能を認め、後に槃山が西里に仮私塾を開いたときには徳言は都講となり授業をしたといわれています。ところが天保10年2月初め郷里の湯沢から母危篤の知らせが届きました。驚いた徳言は直ちに帰省しましたが、母は「お前よく帰ってくれた学問は少し出来たか」といったきり翌日に亡くなってしまいました。徳言は悲しみに暮れ、十ケ月の喪に服した後槃山の許に帰りました。ところが槃山もまもなく病にかかり亡くなってしまいます。結局塾は閉塾となり徳言は湯沢に帰り独学で勉学を続けました。しかし、中央に出て学問をしたいという思いは次第に強くなりました。
 徳言18歳の頃、友人佐藤信徴のすすめで漆山役所の杉山晋(竹外)の私塾に一年ほど入学しました。その後徳言は杉山晋(竹外)と共に19~33歳頃まで江戸、京都・九州に遊学し儒学・仏学を修めた後、嘉永年間湯沢に帰って頓証寺住職となりました。途中九州大分の広瀬淡窓の塾に学んだとき詩吟を始め、また京都にいたとき父義周の行方を東本願寺に問い合わせ、更に美濃に行って父を探しましたが見つけることはできませんでした。
菅原遯の逸話 その1
 この当時、徳言は真宗の風紀をするといって大小二刀をはさみ馬に乗って闊歩していました。ある時は大小三刀を帯びていたのである人がその理由を聞くと「我は真宗の小地に位するがその身分は10万石大名の格式がある。一朝幕府に事あるときは一刀は杖の端に結び付け槍に代用し戦事に備えるのだ。」と答えた、という話が伝わっています。

 当時柴橋役所に林伊太郎という代官がいました。林伊太郎は幕府の儒官林大学頭の二男でした。ある日代官は佐藤信徴にこの地域に篤学の者はいないかと尋ねられ、信徴は徳言を紹介しました。徳言と会った代官はその才能を知り、徳言は代官と親しくつきあうようになりました。以後代官に会うたびに徳言は時を忘れて代官と語り合い、儒学の真髄を究めたといいます。
徳言はこのころから家塾を開いて近隣の子弟教育を行うようになりました。また頓証寺を再建したのもこのころです。安政年間には東根六田に家を借りて私塾を開き近郷の寺院や豪農の子弟を教育しました。塾には遠方からも教えを請う人が集まったといわれています。文久年間万蔵(このころから菅原万蔵を名乗ったようです。)は代官の命により湯沢に霜瓦塾という塾を開きました。当初10数名だった塾生は1年足らずで100名以上になりました。講義はあたかも講談を聞いているようで学生も喜んで聞いていました。学生に対し徳言は「学問とは本の内容を理解すれば十分で、学業成就後は家業に励んで身分相応の生活をすることが本分である。」と教え、授業の合間に山野を開墾することも行わせていました。他に特徴的なのは学生に詩吟を指導していた点があります。
菅原遯の逸話 その2
 
霜瓦塾時代の逸話として次のような話があります。
 慶応年間柴橋役所代官が万蔵を招き子供に教育を受けさせようとしました。しかし万蔵は「礼記に子は来て学ぶを聞けとも師は往て教ふるを聞かず、とある。」と答えて子供を霜瓦塾に通わせた、という話があります。
菅原遯の逸話 その3
 また楯岡小学校百年史には以下のような話が載っています。
 霜瓦塾 この塾がいつごろまで続いたものか明らかでないが、最後の塾生の一人といわれる人にI氏(明治2年生)がある。
 ある朝、I少年が、たたんだ蒲団を片づけようとして、手をつかわずに膝で押した.それが先生の目にとまってひどく叱られたことがあった。そのような不作法な者には教えられないとっとと帰れとどなられて、すごすご家に帰った。事情をきいた父のC氏がつれだって先生におわびにもどると、先生は、すでにいつもの温顔にかえって、「ほうか、ほうか」と笑って迎えてくれた。
 先生は、中々声のよい方で、唱歌の学習の意味で「吟声」を塾生に教えた。「吟声」の歌訶に、対として選ばれた和歌が、次の二首である。
君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで(古今集)
あまつ神国つやしろをい敗ひてぞわがあしはらの国は治まる(後奈良天皇御製)
 これは、「君が代」が国歌に制定される以前のことである。
 東沢の塾は、その後間もなく湯沢の頓証寺の方へ移したらしい.先生は、I少年たちが休みで帰宅する時は、いつも東沢の堤の所まで見送ってきた.そして別れを惜しむように堤防の上に立って、I少年たちの姿が見えなくなるまで「吟声」をうたっておった.その節まわしを最もよく伝えたひとりがI氏で、この地域の祝事には、今なお必ずこれが唱和される.(以下略)

               
                   
吟声音符 湯沢吟声保存会長作の吟声練習資料(昭和43年)より
 安政から明治にかけて菅原万蔵、本沢八郎(竹雲)、寒河江吉治(市隠)の3人は村山郡の三儒者といわれ、3人は年令順に義兄弟の契りを結んで儒教の難問や詩文の研究で教え会い助け合いました。しかし明治維新により世の中は大きく変化します。明治政府は国民皆教育を進めるとともに政教一致を唱え神道国教化を推進しました。万蔵は明治2年の秋、大に悟るところがあって寺を廃止し還俗して遯と改名しました。明治5年には長善寺羽黒神社の祠官を拝命し長善寺村に四教所という塾を開き村民を教育するとともに神道家としての道を歩んでいきます。
 明治初年菅原遯と本沢竹雲は山形県職員採用の打診を受けましたが断っています。明治5年には祠官兼教導職十級試輔、同年湯野沢熊野神社祠官、中教院講究係を命ぜらました。明治7年中教院講究課長を経て講究係専務、明治9年教部省より熊野神社祠官兼権大講義に任命されました。
菅原遯の逸話 その4
 
当時の逸話としては次のような逸話が伝わっています。
 明治10年遯は布教師として上山で演説していました。その時異教徒が出てきて対抗しようとしましたが遯は堂々と「汝は何者ぞ!我が大道宣布を拒む国賊奴めが!」と一喝したところ、彼は語勢を畏れこそこそと逃げ去ったといわれています。このように遯は雄弁家として県下に知られるようになりました。

 明治11年遯は溝延八幡神社祠官兼務を命ぜられるとともに神道事務局副局長を命ぜられ、山形県内のみならず福島県まで出張して弁舌を振るいました。小学校令が発布されると遯は四教所を廃止し神道の布教に専念するようになります。やがて仏教が勢いを盛り返してくると遯はその状況を憤慨し中教院や郡長に文書で仏教の専横を上言し、また国教同盟演説会を開くなどして仏教に対する攻撃を繰り返しています。遯の排仏心は猛烈なもので時には偏見ともいえるものでした。明治11年遯は神道事務分局大教宣布係、楯岡八幡神社祠官を命ぜられ、明治13年には大講義に補せられました。明治14年東京で開かれた全国教導職集議員大会に遯は大会議の草案掛として参加しています。ところが会議が長引き滞在費が無くなったため山形の門徒に旅費を請求する手紙を送ったりしています。
明治14出雲大社社宮司より出雲大社教会三等教師に推挙され東京で出雲大社宮司に面謁し親しく懇談する栄誉に恵まれました。明治15には年東沢に塾を開き小学校卒業生の希望者に和漢学を教えました。
菅原遯の逸話 その5
 
当時の逸話です。
 明治14年頃東京に書画展覽会が開かれることになり、北村山郡長が遯に揮毫を頼んだことがありました。遯は「吾は書を能くするが、恐らくは国内に吾が書法を識る者はいないだろう。吾が書は特定の展覧会のためにあるのではなくあらゆる人に見てもらいたいと思って書いているのだ。」といって応じませんでした。

 遯は神官としては権大教正まで昇進しましたが神道は独学でした。博学で記憶力がよく読書を怠らず、その知識を利用して神儒仏三道から諸子百家の書に至るまで博識、かつ雄弁で説教でも座談会でも庶民にも分かりやすく神道の教えを説きました。また和魂漢才洋芸を首唱したことでもわかるように決して一つの考え方に偏った偏屈な学者ではありませんでした。歴史談義が好きでまた吟詩を好み塾生にも吟詠を教えました。これは菅原流詩吟といわれています。書は楷行草共に得意で六朝風の書を能くし、山形県内で右に出るものなしといわれました。湯沢に「一君二民」の碑を建てて韓退之の白夷頌を刻んでいます。しかしながらなぜか一冊の著書もなく詩歌もほとんど知られていないことは大変残念です。

         
  
                 一君二民碑(平成27年)                  一君二民碑(大正8年)
 元来豪放磊落な性格で酒を愛し、よく山などに登り弁当を開いて酒を飮むのを楽しみとしていました。酔えば人の意表に出る事をして周りを笑わせ、また「トッチリトン」節の歌を唄つて聞く者を喜ばせて人情本讀みの元祖ともされています。しかしながら神経興奮症の気があり芝居見物の際に感極まって声を上げて泣いたりしました。また奇行も多く、田螺を殻ごと食べたり、中国の神農のまねをするといって山野に生ずる無名の草類を食べて刺激の強さに驚いたりしていました。
 菅原遯は才能に恵まれ、また勉学に励み村山地方で頭角を現しましたが学者として一家を成すこともなく、僧侶の道は自ら放棄し、山形県官になることも拒み、神職としては明治24年権中教正、明治27年権大教正にまで昇進しましたが神道事務局内で成功することもありませんでした。晩年は悶々の情を酒に托し、世を罵倒することによって気を紛らわせていたようです。老後の境遇は不遇で世を愁い弟子の教育も行わなくなり神道の説教も疎くなり、あちこちをさまよい歩く様はさながら狂人のように見えることもありました。
 菅原遯は明治21年頃軽い中風にかかり湯沢の自宅で療養していましたが、困窮の中、明治28年に71歳で没しました。

 菅原遯のご子孫は遯の没後湯沢を離れ現在は東京に在住しています。

  一君二民碑文
(佐藤二郎著「吟声は生きている-菅原遯の生涯-」平成10年より。原文は縦書き。旧漢字は当用漢字に置き換えている、とあります。)
士之特立独行適於義而巳不顧人之是非皆豪傑之士信道篤而自知明者
也一家非之力行而不惑者寡矣至於一国一州非之力行而不惑者蓋天下
一人而已矣若至於挙世非之力行不惑者則千百年乃一人而已耳若伯
夷者窮天地亙万世而不顧者也昭乎日月不足為明?(山に卒)乎泰山不足為高巍
乎天地不足為容也当殷之亡周之興微子賢也抱祭器而去之武王周公聖
也従天下之賢士与天下之諸侯而往攻之未嘗聞有非之者也彼伯夷叔斉
者乃独以為不可殷既滅矣天下宗周彼二子乃独恥食其粟餓死而不顧
由是而言夫豈有求而為哉信道篤而自知明也今世之所謂士者一凡人誉
之則自以為有余一凡人沮之則自以為不足彼独非聖人而自是如此夫聖
人乃万世之標準也余故日若伯夷者特立独行窮天地亙万世而不顧者也
雖然微二子乱臣賊子接跡乎後世矣
 春秋已還三千年間無文章唯有韓氏伯夷頌而已今勒諸貞えん(王へんに炎)以しん(言へんに念)微意
 於後昆 明治廿一年晩夏八月建 少教正菅原遯併書

 これは管理人の考えですが、菅原遯の「のがる」とは、伯夷・叔斉のように山に逃れ入って最後には餓死しようとも己の意志を曲げない、という意味で選んだ名前なのではないかと思います。山野に生ずる無名の草類を食べてみた、山などに登り弁当を開いて酒を飮むのを楽しみとしていたなどの話も伯夷・叔斉を模する行動のように見えますし、一君二民碑に伯夷頌を刻んだのも伯夷・叔斉の生き方・考え方を尊敬していたことの表れだと思います。

 菅原遯の漢文二題(にしかた物語より)
その1
〔原文〕
 祠官僧侶到人家 母使女児出待 蒙説教諷経弄嬌喉 恐情意有罊缾   無題 一闋之一 菅里萬子
〔読み〕
 祠官僧侶人家に到る 母女児をして出待せ使む 説教を蒙り経を諷じて嬌喉に弄す 情意を恐れ缾(へい)の罊(つ)くる有り  無題 一闋の一つ 菅里萬子
〔口訳〕
 神官と僧侶がある人の家に着いた。すると母は少女を出して接待させた。少女は神仏の教えに芽ばえて経文を暗誦して愛らしい声でもてあそんだのである。少女のかしこい心を恐れた私は、準傭された酒樽を飲みほして酔ってしまったのである。少女は「酔っぱらい」と馬鹿にして私の相手にならなかったのである。すなわち「詩経」にある「缾(へい)の罊(つ)くるは罍(らい)の恥。」のたとえの通り、「酒樽の恥」をかいてしまったのである。
                              無題 一休息して作った一文          田舎神道家 菅原萬蔵
[注]
 「祠官」は菅原遯、「僧侶」は溝延大熹であるといわれています。
 「無題 一闋之一」 民家で一休息をした時に無題として創った一番目の漢文という意味。
 「諷経」とは、次の真宗四十二章の経文を暗誦したこと。「人衆(おお)く過ち有りて、自ら悔を示し頓(とみ)に息す。其の心は罪身に赴き来たる。水の如く 海に帰し漸(しだい)に広き済(すくい)と成る。」
 「菅里萬子」の「菅」は菅原の姓の一字、「里」は田舎、「萬」は萬蔵の名の一字で遯が神官になった時の名、「子」は思想家や学者の意味。つまり菅里萬子と は教導職として田舎(当地域)にいた神道学者菅原萬蔵の名。

その2
〔原文〕
 咄哉 鉢一与衣三恒言三界 歩無莽破廉 如渠頑過耳 沿門乞食未曽慙    無題 其頁之一 木石居主人
〔読み〕
 咄哉(とつなるかな) 鉢一つと三衣(さんえ)とは恒(あまね)く三界に言う 莽(もう)無く破廉に歩む 渠(か)れの如く頑(かたくな)に過ぎるのみ
 沿門(えんもん)の乞食(こつじき)いまだ曽(か)って慙(は)じず。   無題 其の頁の一 木石居主人

〔口訳〕
 やあ!僧に代々伝えられる三衣一鉢(さんえいっぱつ)は、欲界・色界・無色界、すなわちこの世に広くゆきわたり伝えられている。雑念なく恥ぢることもなく托鉢(たくはつ)して歩く彼の僧のように、私は神道国教化のため、かたくなに通り過ぎているだけである。沿道の家々の門口にいる乞食同然の私は、いまだかつて恥じたことはない。   無題 その頁の一文木石居主人
[注]
 三衣(さんえ)とは九条の袈裟(けさ)・七条の袈裟・五条の袈裟。一鉢とは僧侶の食器・托鉢椀。
 木石居主人は、菅原遯が還俗し神道家になってからの名。
 この二つの漢文作品は、菅原遯が明治初期に神道国教化と尊皇教化のために苦心する姿と心境が述べられていると思います。当地域の他の教育者達の残した漢文にも同様の心境が述べられています。
 特に二番目の漢文には、徳川三百年の藩制の習慣から脱しきれない地域の人たちを日本国民として認識させ啓蒙するためには、利欲や恥を捨て教化にあたる決意が示されていると思います。
 管理人の感想としても、お酒の好きな人柄と神道の発展に努める強い信念が感じられる漢詩だと思います。


  高橋勝兵衛
                           
                           戸沢小学校内にある高橋勝兵衛の銅像
 幕末期に自宅を開放して地域の子弟に、四書五経の素読を教えた小藤治という人がいます。高橋勝兵衛は小藤治に素読を習い、長瀞の寒河江市隠について学問を修め、若冠26才で政治家を志し、明治19年28才で県会議員に当選、47年間議員として、県会議長として5期17年間尽力し、24年には碁点橋の架橋に力を尽しました。晩年は山形市長となり、昭和7年10月31日74才で病没しました。大正9年11月には銅像が議事堂前に建立されました。

 高山文五郎・高山專蔵・高山冨重
 以下の文章は「彫刻し高山文五郎父子とその作品-高山文五郎展の記録-」河北町郷土史研究会 平成26年 の11~13ページからの紹介です。原文をです・ます調に変更し、プライバシーにかかる部分など少し文章を変えたところもあります。高山文五郎父子は現在は無名に近い彫刻家ですが、作品を見るとまさに超絶技巧の作品ばかりで、郷土の生んだ偉大な彫刻家としてもっと広く知られてもよい人物だと思います。

 高山文五郎は、天保の初期(3年頃?)、現西川町沼山田代のA家の子として誕生しました。青年期に彫刻の技を左沢の彫刻師京最に学びました。京最は慶斎とも書き、左沢原町林家2代文作(1802~68)のことです。林家は治作-文作-治三郎-治郎兵衛と続く仏師の家柄で、2代文作は高山文五郎を育て、4代治郎兵衛も慶最を名乗り、山形が生んだ近代彫刻の先覚者新海竹太郎の少年時代の師として知られています。林家は初代治作から京都七条仏師に師事していました。その後、壮年期には谷地松橋の高山新三郎家の養子となり勝木沢のB家長女くらと結婚、長男專蔵・次男冨重をもうけ、子どもには彫刻の技を直接教えたといわれています。なお、くらは天保元年(1830)11月生まれ、明治41年に79歳で亡くなっています。文五郎については飛騨高山の産との説もありましたが、彼自身が作った父権三郎の位牌には権三郎を越後新潟之産としていることから見て、高山は考えられないとされています。また文五郎の弟子の系譜につながる山辺町の宮大工C氏は、文五郎は江戸で9年間後藤流の彫刻を学んだとの説を唱えられていました。この説は、米沢市田沢大荒沢不動尊の虹梁裏書に「彫刻師、出羽国最上沼山産、後藤豊後正信(花押)」とあることで裏付けられ、高山文五郎は谷地に来る前に江戸に出て後藤豊後正信の名で後藤流を学んでいたことが明らかとなりました。文五郎は若き日は左沢の林家で、その後は江戸の後藤流で彫刻を学んでいたのです。文五郎は明治16(1883)年3月、現河北町谷地松橋の自宅で亡くなっています。行年50余歳、法名瑞龍青雲居士、墓所は慈眼寺にあります。
 高山專蔵は、安政元(1854)年4月、文五郎夫妻の長男として谷地松橋村に生まれました。父文五郎の薫陶を受け幼少から彫刻の技を習得し、父の師京最(慶斎)とも親交があり、その作風の繊細さを得意としたといわれています。号は吟月。專蔵は大正10(1921)年に亡くなっています。專蔵の長男が健蔵(明治19(1886)年~大正10(1921)年で、健蔵は画家春陵を名乗り、京都を拠点に文展・院展で活躍しました。
 高山冨重は、安政3(1856)年3月、文五郎夫妻の次男として谷地松橋村に生まれました。兄專蔵と共に父文五郎に就いて幼少より彫刻の技を修め、長じて地方稀に見る名工と讃えられるに至りました。その作風は、素朴で大胆、龍を最も得意としました。能登総持寺祖院の火災からの復興に際し、門扉の彫刻並びに本堂内部の総持寺開山塋山禅師の一代記14枚の透彫り欄間は、山形の高山冨重作との記録が残っています。祖院の本堂(太祖堂)は明治43年の完成とされています。明治23年、D氏の斡旋により、東京で開催された第一回帝国博覧会の美術展に出品して入選、一躍中央で有名になりました。その作品は大鏡の欅の縁と台座に昇り龍と降り龍とを荒彫りしたものでした(但し冨重と弟子源助との合作)。冨重は大正4(1915)年鶴見の地で亡くなりました。行年60歳。この冨重の最期について『河北町誌編纂資料編、第四十四輯、寺岡日記其の二』は
「(大正4年)六月ニ十三日高山氏の家財整理当地高山富雄氏、今回父富十氏、鶴見総持寺彫刻従事中遂に病死せしため、納骨のため帰郷、一家の始末のため、家財悉皆売払いのため、柱時計一ケを購求す、価二円。」と記しています。
 冨重の長男冨男(明治18(1885)年~昭和25(1950)年)は精華と号した画家で、竹内栖鳳(せいほう)に学びました。

             (以下2点)岩根沢三山神社社務所の龍の彫刻 高山文五郎の代表作といわれています。
             

             

  戸沢氏の家系伝説
 平安時代末におきた保元の乱は、崇徳上皇に源為義、為朝父子、平忠正が味方をし、後白河天皇に為義の長男義朝、忠正の甥の平清盛が味方する、といった父子兄弟叔父甥の血族の争いでした。
 乱の結果は後白河天皇側が勝ち、上皇方は罰せられました。しかし忠正の子平九郎通正の奥方は密かに逃れ、後に生まれた子が平衡盛です。吉正は成人して源義仲に与して平氏を討ちましたが、その後義仲の横暴をいさめて容れられず、樋山弾正吉正という人を頼って奥州に下りました。衡盛は吉正の女を娶って岩手県雫石に落ち着きそこで雫石氏を名乗り、さらに郷名をとって戸沢を名乗ったといわれています。
 戸沢家はその始祖衡盛から19代盛安まで秋田県仙北郡角館城最後の城主でした。
 そして、盛安の父秀盛が織田信長に鷹を献じたことから、信長が本能寺の変で殺害された後も秀盛は信長の家臣である秀吉に仕えたのだといわれています。(新北第9号地歴部より)

  とのむ」さん
 Sさんの先祖は荘内藩主酒井忠勝公の家老でしたが、江戸時代に湯野沢の地に帰農したといわれています。湯野沢の領主であった新庄の殿さまから「主殿というのは武士の使う名前だから名乗るな。」といわれ、その後七兵衛と名乗りました。湯野沢の村役人をつとめてきた家です。
 元和8(1622)年に最上義光の時代が終ると、鶴岡に酒井忠勝公が入りました。鶴岡藩はこの時白岩、左沢にも領地をもっていました。
 Sさんの先祖はこの中の白岩領の中心人物の家老だったので、殿もり→主殿(とのむ、とのもう)と名のっていたのです。
 ところで、慶安元(1648)年に忠勝公の二男忠恒公が酒田の東に松山藩を置き、松嶺城を築くことになりました。その時Sさんの先祖は城を築くための資金千両をどこからか借金するように命令されました。
 Sさんの先祖は、日ごろ親しかった谷地の両所の人で当時「傘千本うるし千両」といわれて繁盛していた豪商に松嶺城を築く話をし、城を築くための資金千両を借りたのだそうです。その返済方法は千両を毎年百両ずつ10年間に渡って返済する条件で、殿さまの名まえで千両を借りたといいます。それから毎年、六十里越街道を5、6頭の馬につんで、家来を5、6名つれて両所の豪商に返済にきていたそうです。
 ところが、最後の10年目の返済の秋に六十里越を通ってくると、周囲の農村は非常な凶作にみまわれて苦しんでいました。Sさんの先祖は、凶作の様子をみかねて、返済金を全部農民にめぐんでしまいました。
 そして、Sさんの先祖は両所の商人家につくと「道中で凶作の村人にあい、せがまれ、かわいそうだから全部農民に与えてしまった。もう1年まってくれ!」といいました。さらに「家老の職にある自分としては、帰ってから百姓にめぐんでやったではすませない。城主さまに証文だけはみせなければならぬ。必ず返済するから、おれの顔にめんじて証文だけは書いてくれ、たのむ!」と脅して、返済証文を取り上げて六十里越えを帰っていきました。
 両所の商人は、すぐ松嶺の殿さまあてに表街道から飛脚をとばし、この一件を知らせ、直接殿さまに訴えたそうです。殿さまは、大名の名誉にかかわることであるといって、豪商に返済金を渡し、Sさんの先祖の一行が帰城したところを捕らえて一行の処刑を命令しました。
 しかし、Sさんの先祖だけは、城代家老として殿さまにこれまで誰よりもつくしたので、処刑だけはやめ、藩から追い出し悌髪させて坊さんにし、葉山の大円院に入れようとしました。ところが、大円院では、理由はどうあれ罪を犯したSさんの先祖が寺に入ることを断ったといわれています。
 大円院の僧になれなかったSさんの先祖は、平家の落人の地区の7軒の地区であった畑地区にいって生活しました。それで、畑は8軒になったのだそうです。その後子孫は畑の顔役となりました。その家は武士の家の間どりだといいます。さらにこの子孫であるのが湯野沢のSさん一族だそうです。ですから、今でもSさん家では、毎年お盆になると先祖の墓がある畑地区に墓まいりにいくのだそうです。
 Sさんの先祖は、百姓たちからは立派な人だったと信頼されてきたそうです。S家は代々とのさまの家がらとして、村人は「とのむ」「とのもう」の家とよばれてきました。

  「とのむ」さんの話
 江戸時代、庄屋さんと村人があることを巡って意見が対立したことがありました。庄屋さんは谷地の新庄藩代官所に訴えに出かけました。それを知った村人のうちの一部は相談して、庄屋さんが谷地の代官所から帰るのを待ち伏せして、庄屋さんを最上川に突き落として殺害してしまおうと計画しました。
 そのことを知った「とのむ」さんは急いで谷地に行き、庄屋さんにことの次第を知らせました。そして自分の大柄な体を利用して、小柄な庄屋さんを引き回しに包み隠して背負い、湯野沢への帰路につきました。
 村人たちが待ち伏せしているところに差しかかると「とのむ」さんは呼び止められましたが、「とのむ」さんは「朝、うちの若い衆が怪我をしたので谷地の医者のところに行って来た帰りだ。」といって通りすぎ、庄屋さんは難を逃れて無事帰宅することができました。

  泥又兵庫守
 富並の西念寺にまつわる人物です。
 富並川上流右岸北方より下流する川を泥又川といいます。その川が富並川に合流する三角地点に本屋敷という地名があります。この地には昔フクベン池があり、淵に西念寺の住職の植えた桂の大木がありました。この池に注ぐ川をナツ川と呼んでいます。葉山参詣をする人は必ずナツ川で水垢離をとったと伝えられています。
 昔、鬼甲城の落浜入道が源頼義に滅された時、落浜入道の重臣泥又兵庫守は桜清水にあった城主の菩提寺をこの地に移し、当地の首長となり、屋敷をかまえ城としました。そしてこの地に永く住んでいましたが、何時の頃かはわかりませんが城は再び落城し、兵庫守は何処へともなく落ちて行き再び帰ることはありませんでした。落城の時、兵庫守は地下のヘノコザ(穴)に黄金を隠し、更に金の鳥を埋めて黄金の番人としました。それで、夜の丑の刻にこの近くを人が通ると、コウの鳥は城主が帰って来たと思い 「金の番厭きたぁー厭きたはぁー(何時まで金の番をするのだ?)」と鳴くのだと伝えられています。
 また桂の大木は西念寺を富並に移転再建する際に使用されたといわれています。屋敷跡のヘノコザをある人たちが発掘したり、林道工事の際にホラ穴が発見されたり、という話がありますが、結局何もなかったということです。穴は敵から攻められるのを防ぐ落し穴だったと伝えています。






  松岡俊三
 松岡俊三は明治13年松岡茂三郎(松岡酒造)の妹リネと村川伊兵衛の長男として生まれました。14~15才頃母の実家の松岡酒造で樽拾い小僧として年季奉公していましたが、向学心旺盛な俊三は16才の時叔父の父母報恩寺松岡白雄上人の仏弟子(養子)となり、仏名を松岡薩雄と名乗りました。当時は田舎の若者が学問を志すには寺に入り和尚の弟子となるのが一番の近道でした。
 俊三はその後上京して芝増上寺道重信教大僧正に弟子入りし、芝高輪中学・浄土宗宗教大学に学びますが、21才の時徴兵されて大学を退学し近衛第三連隊に入隊します。2年後満期除隊しますが、その直後24才の時日露戦争が勃発し再び徴兵され満州を転戦、沙河の戦いで右大腿部貫通の重傷を負い、金鵄勲章を受章後帰還。25才の時都新聞に入社しその後13年間政治記者として活躍しました。39才の時には都新聞の副社長に就任しました。
 都新聞在職中の大正6年に妻の実家である栃木県第四区鹿沼市より第13回総選挙に立候補しますが落選しました。大正9年5月40才の時衆議院に初当選し、ワシントン軍縮会議に立憲政友会代表として出席しました。しかし大正13年の総選挙では再び落選してしまいます。
 そのころ俊三の出身地楯岡では地元の衆議院議員細梅三郎議員が辞職するという事件が発生していました。後継者がなかなか決まらない中、大槙出身の高橋勝兵衛が俊三に目をつけます。そして俊三は勝兵衛の強い支援を受けて大正14年8月16日の総選挙に山形県から立候補して当選を果たします。ところが同年12月「請願令違勧幇助罪」で議員失格となってしまいます。地元の期待に応えられなかった心労からともいわれていますが、俊三は病気にかかり山形市立済生館病院に入院してしまいますが、その時雪害に悩む雪国の人たちの姿を見て今後の目標を雪害救済のために捧げようと決意し再起ことを誓います。その後は衆議院に9回当選し、雪害救済運動に一生を捧げました。
 昭和30年2月13日総選挙の遊説中鶴岡にて倒れ74才で永眠。法号護法院殿雪誉愛山俊三大居士。東奔西走「雪害居士」と呼ばれています。
                    
                                松岡俊三
  松岡俊三の雪害救済運動
昭和2年  雪害運動松岡俊三後援会尾花沢市小作組合結成。
      新庄町雪害対策期成同盟会設立。
      都新聞文士で劇作家の長谷川伸・平山蘆江をして雪害情況を背景にした劇を浅草芝居に上演。
昭和4年  雪害救助対策の政治的方策のパンフレットを作成。国会議員・政治記者を雪害状況視察に招く。
      雪害調査機関設立に関する建議案を衆議院に提出、可決される。
昭和5年  5年間にわたる農作物雪害の地図・図表・統計・分布図を作成。
      雪の日本社を設立、「雪の日本」を発刊。
  4月  3日「雪害建白書」起草、元老・首相・内大臣・議員など4000名に配布。
      山形市で「雪害確認大会」を開催、山形県町村長会で貴族院に「雪害確認書」提出
  5月  義務教育費国庫負担と雪害救助費を可決。最上・庄内・西村山郡雪害救済同盟結成。
昭和6年  山形県雪害救済組織「山形県正道会」を国井門三郎・柏倉九左衛門らと設立。
      雪害地の地租改正・大幅減税運動
      北海道・東北・新潟・長野など1道11県「雪害関係法律改正請願書」(署名40000名)を貴族院・衆議院に提出、可決される。
昭和7年  8月内務省に「雪害対策調査会」設立。
      山形県正道会「雪害地の地租改正国庫補助率増加運動」(署名340000名)を貴・衆両院に提出、採択される。
昭和8年  東北6県と長野・新潟に雪害調査会委員長東園重壽ほか50名を招き雪害状況を視察させる。これにより東北6県全町村の義務教育関係特別町村認定交     付金が増額された。当時の文部大臣は相鳩山一郎
  3月  義務教育国庫負担法が改正され地租税課税率は100分の3.8から100分の2.6に改正された。雪害調査会は経済、土木、交通、通信、教育、衛生、社会     事業、財政、税制、警察、消防、生活改善、移民問題など、損失、生活実態救済と自立更生の活性化を目的としたものであった。600万円の大減税。新     庄積雪地方農村経済調査会設置される。
昭和10年 雪国行脚時の加護と雪害救助運動の成就を記念し雪の観音堂を建立。
昭和12年 拓務政務次官となり、耕地不足の次三男対策として朝鮮開拓・北鮮見届団を結成。18年まで11000haの耕地に800万本の落葉松を植林。
      最上郷満州開拓団(10000名)を結成し満州開拓事業を推進する。
昭和20年 大高根道場(満州開拓の父加藤完治の青年道場)が三枚平雪の観音郷に入る。
   8月 満州引き揚げ者収容と食糧の確保のため、雪の観音郷に北村山郡出身の開拓民引き揚げ者を集め、自ら陣頭にたち開墾。
昭和21年 公職追放。5月、雪の観音郷に64戸70名の団員を引率して入植する。
昭和26年 公職追放解除となり政界に復帰、北海道・東北地方の国有林解放運動に携わる。
昭和28年 日米友好親善訪問団長
昭和30年 2月13日、選挙運動で鶴岡遊説中に倒れ74才で永眠。


信条
「調査なくして発言無し。」その姿勢は朝野の知識教育者に対する情報提供と支援の喚起であり、超党派の政治活動でした。

功績
 「積雪法」「積雪寒冷地道路交通特別措置法」「豪雪地帯対策特別措置法」「義務教育国庫負担法」などを制定するほか、政治、行政、教育、文化に大きな功績を遺した人物です。

溝邊大熹
 北村山郡内における小学校創立事情に取り上げられている大久保願善寺の高僧です。品格・学識ともに優れ明治初め大久保小学校が創立された時初代校長に就任しています。願善寺に師の功績を記した「大喜院壽碑」という石碑が建てられており、それを解説した資料がありますので紹介させていただきます。解説者は篠原幸作という方です。父の知人の方でしょうか?他の資料と合わせて師の功績を紹介させていただきます。諸資料の孫引きとなりますので解釈などに誤りがありましたら笑ってお許しください。
 では初めに大喜院壽碑の銘文を前記資料より紹介させていただきます。

                     
                                 大喜院壽碑

  大喜院壽碑銘、文学博士南篠文雄題字、大助教菊池秀言撰文
 語云。大徳必得壽、又云、孝徳之本也。宣矣。溝邊師之壽徳共、翹翹干東北者。師、名大熹、字大千、号凹邨。於西淨寺、二歳喪父、孤居讀書。解脱院蒼溟師、東北碩学而為雲華院講師髙弟、主願善寺、一見偉之視、猶所生提撕弗懈。廿六歳上京得度、入髙倉寮修宗学。三十七歳、解脱院有疾、命嗣願善寺、既而易簀。師曰、幼而喪父、今與師別、何我業報之薄也。慟哭、不能就事者数月云。維新之始、國家多故、排佛之説乗機而起。師、與我先人發叢院、憤然従破邪事。後数年、教部省擢為権中講議。自是徴命屢至、以養母東谷氏猶在堂、固辞不應、頤養尤勉。事聞縣廰、賜朱杯一具表之、時明治廿三年四月也。廿四年、連枝霊壽院師、代法主、巡仁奥羽、會東谷氏歿。越八日、傳、陞班院家之命。師曰、母而在其喜何如也。廿七年、法主特賜学士號、補大助教。師、性至孝、恭以持己、信以交人。博斈好問、性相之学尤所長云。而識見頗髙、如外典、則非晋唐以上不敢讀焉。晩年、啓迪後進遑、則遊化四方、歸仰之徒甚多。本山嘗設山形学場也、常命師主講莚、蓋以衆所歸也。師娶大谷氏、生四男四女。嗣子玄龍好斈、與余同遊冷香院講師之門、疾肺而殤。因、養、木曽了義為嗣、以三女雎配之。今茲師、七十七、讓職了義讓而將專修淨業。於是門生胥議、建壽碑將傳不朽。索銘于余、銘曰。

月嶺髙聳 藻水遠流 山水之美 競秀東洲
遊心西方 與道東域 維師之功 何以可測

  明治三十年仲秋樹石溝邊了義謹書

背面には賛成人と発起人の名が記されていますがプライバシーなどの点から省略します。)

 次に篠原幸作氏の注釈です。
壽碑、寿(ことほ)ぐ、祝う、碑の意で大喜院の法号を賜った祝いの記念碑でもあると思われる。
南條文雄、(嘉永2年1849~昭和2年1927)大垣の人、髙倉学寮に学び、明治9年~同17年ロンドンのオックスフォード大学で研究、後大谷大学学長。
菊池秀言、洒田市淨福寺。大助教、は文部省の官位か。
語に云う、論詰に有る。のこと、大徳は必ず壽を得。―第6、22章の、「仁者壽」からか、孝は徳之本也。―第1、2章の「孝弟也者其為仁之本與」からか。
名は大熹、この碑文で見る限り、院号は大喜院であるが、名は大熹であるという。「熹」の字は(光る)の意だとの説あり、憙、喜、同字か、否か。
字は大千、字(あざな)は実名とは別につけた名、つけられた名、養父蒼漠は三千、と称した。三千世界というのは、大千世界の千倍にあたる。
号す凹邨と、凹は「くぼ」、邨(そん)は「むら」とも讀む。から邨は村の本字。
西淨寺、村山市冨並、外堀山西淨寺。
解脱院蒼溟、願善寺住職、大熹の養父、(寛政3(1791)~安政4(1857)年)
雲華院、名は大含、髙倉学寮の創設者であるという。
猶所生(しよせい)のごとく提撕弗懈(ていせいおこたらず)、生みの子のごとく、身邊において教え導いた。の意と思う、生れた所での意ではないと思う。
26歳上京得度、弘化3(1846)年にあたる。この年から髙倉学寮に学ぶ。上京、は京都(東本願寺)へ上ったこと。
髙倉寮、髙倉学寮のことと思はれる、髙倉学寮は大谷大学の前身。
37歳、安政4(1857)年
既に而易簀(えきさく)す、(すのこ)を易える、は賢人の死をいう。
國家多故(たこ)、国内に事変や事件が多いこと。
我が先人発叢院、菊池秀言の親か。
教部省、明治5年3月二十4日神祇省を教部省と改訂、同年10月文部省に合併、6年5月また教部省となる、明治10年廃省。教部省は、芝の増上寺に置かれ、排仏の本拠になったのだという。その教部省を去らせ、寺院としての増上寺に、とり戻すのに大いに働いたのが溝邊大熹などであったという。
養母の東谷氏、生家は、天童市奈良沢光輪山徳正寺。
頤養(いよう)に勉むを尤とす、孝養を第一にする。
運枝の霊壽院、法主(厳如)の兄弟か、法主の代理として奥羽に巡化。
會(たまたま)東谷氏歿す、ちょうどその時、養母の東谷氏が歿せられたこと。何歳であったか、大熹の年令も71歳にあたる。
八日を越えて、養母の歿後八日過ぎ。
院家に陞班(しょうはん)するの命を傳う、本山からの命(通知)、履歴書参照。
性相の学、万有のうちに実在する絶対の真理を「性」といい、種々な形、色などをもって現象として現れる姿を「相」という。法相宗はこれを研究する代表的な学派であった。
外典の如きは則ち晋唐以上に非ずんば敢て讀まず、佛教以外の書物を外典という、特に儒教の書物をいう、佛教書を内典という。
後進を啓廸(けいてき)する遑、子弟教育のかたわら(寺子屋も開いていたらしい)。
大谷氏を娶り、生家、新庄市沖の宿、善正寺。県内で東本願寺から大谷氏の姓を許されたのが、山形の專称寺と、新庄の善正寺だけという。
○殤す、(わかじに)と訓む、20歳前後の若者(わかもの)となってからの死をいう。
養木曽了義、生家は福嶋。
三女を以て之に雎配す、(みさご)は、とびに似た大きな鳥(たか科)、雌雄の別が正しく、夫婦のむつましさ、礼儀正しさにたとえる。(雎き、すいは別字)
是(ここ)於門生胥議、建碑以前からの門生有志と思はれるが、碑背に記された人の全部が門生であったかどうか、またこの門生とは、寺子屋の生徒として学んだものとは別に門生となった人達なのか
月嶺、月山。
藻水、最上川。
東洲、束域、東北=奥羽。
西方、佛の國=浄土。
仲秋、陰暦8月。

 次に上記注釈に従ったつもりで碑文を現代語訳してみました。誤りありましたら笑ってお読みください。
 論語には「徳の大きな人には必ずおめでたいことがある。」とある。また「孝行は人徳の基本である。」とも記されている。
 溝邊師は良き行いにおいても人徳においても東北で抜きんでて優れた人である。師は名を大熹、字を大千といい、号を凹邨という。
 西淨寺に生まれ2歳にして父を失い、独り暮らしの中四書五経を学んだ。雲華院講師の髙弟で東北でも碩学の士として知られていた願善寺住職解脱院蒼溟師は一目見て大熹師の才能を見抜き、実の子のようにして育み教え導いた。大熹師は26歳の時京都に上り高倉学寮に入学し教学を修めた。
 37歳の時蒼溟師が病に倒れたため本山の命により願善寺住職を継がれたが、蒼溟師は間もなく亡くなられた。大熹師は「幼いころ父を失い、今また恩師とお別れした。どのような業の報いがあってこのようなことになってしまうのか。」と嘆き悲しみ、数か月間何も手につかない状態であったといわれる。
 明治初めの維新の混乱の中、時代の流れによって廃仏毀釈の説が起きた。師は菊池秀言師の親の發叢院とともに憤然として誤った考えをただすべく活動した。数年後教部省は大熹師を権中講議に抜擢した。しばしば教部省にも召されたが願善寺にいる義母を養うのが第一であると固辞して親孝行に努めた。その孝養ぶりは県庁まで伝わり、朱塗りの杯をいただき表彰された。時に明治234月のことであった。
 明治24年本願寺法主の兄弟霊壽院が法主代理として東北に下られた。ちょうどその頃に義母がお亡くなりになった。養母が亡くなられてから8日目、本山から師を院家とする通知を受けた。師は「母が生きていたらどんなに喜んでくれただろうか。」といった。
 明治27年法主は特別に大熹師に学士号を賜り、大助教に任命された。師は孝養心が殊の外高く謹み深い人で信頼の心を持って人とつきあった。博学にして議論を好み、特に法相の学に長じていた。すこぶる見識が高く、仏教書以外では晋・唐代以降の書物は読むことはなかった。晩年は子弟教育の傍らいろいろなところから招かれ、師の教えを受けたものは多数にのぼる。本山では山形に教室を設けて大熹師が常勤して教育する場を作り民衆を帰依させた。
 大熹師は大谷家の子女と結婚して44女をもうけた。長男玄龍は学問を好み菊池秀言師とともに京都において冷香院の門下生となったが肺を患って若くして亡くなられた。このため木曽了義師を養子に迎え三女と娶せた。
 現在師は喜寿となり、了義師に住職を譲って仏の教えを広めることに専心されている。ここに子弟一同相計り、記念碑を建てて師の功績を永遠に伝えようとするものである。菊池秀言師に銘を依頼した。銘に曰く、

 月山の嶺は高く聳え立ち、最上川は滔々と流れている。ここ大久保の山水の景色の美しさは東北有数のものである。
 師は浄土の教えに通じ、東北に仏の教えの道を開いた。その大熹師の功績は計り知れないほど高く輝いている。

 次に前記資料からの孫引きになりますが大熹師の履歴書と蒼溟師の畧歴を紹介させていただきます。

  溝邊大熹師の履歴(明治31年9月18日現在)
文政4年3月25日北村山郡冨並村西淨寺に生まれる。
2歳 父が亡くなる。
10歳 願善寺寮司蒼溟師の門に入る。井澤穆軒翁に従い論孟及五経を素讀する。
14歳 生母病死。以後蒼溟師に養われる。
19歳 4月天童藩野呂藻川翁に入門し漢籍及び詩作の指南をうける。
26歳 蒼溟師に從い京都髙倉に入り宗学研究。以来度々上京。
37歳 養父蒼溟師病死。新庄藩主より願善寺住職に充てられる。
39歳(安政6年) 髙倉学校寮司(大学教授)となる。
53歳(明治6年) 7月11日教部省より教導職13級試補を申付けられる。8月14日第2中学区第7番小学区大久保学校一等假教師を申付けられる。
54歳(明治7年) 11月25日教部省より権中講義を拝命。
55歳(明治8年) 10月縣廰より大久保学校4等假教師を申付けられる。12月辞職。
63(まま)歳(明治18年) 9月願善寺住職を嗣子玄竜に譲る。
68歳(明治21年) 12月10日眞宗大谷派本山寺務所より5等学師の称号を拝する。
69歳(明治22年) 10月1日本山法主より少助教に補せられる。
70歳(明治23年) 4月14日山形縣知事より養母孝養の賞並びに御紋付の木杯一組を賜わる。
71歳(明治24年) 5月27日本山寺務所より一代限り院家官を賜わる。
73歳(明治26年) 9月11日本山寺務所より権中助教に補せられる。
74歳(明治27年) 7月4日本山法主より学士の称号を賜わる。7月21日法主より権大助教を拝命。
76歳(明治29年) 12月本山寺務所より法號を大熹院と賜う。
82歳(明治35年) 歿
 大久保小学校百年史によれば、養父の蒼溟師は出羽の蒼溟と言われた大学者で、宗旨関係から京都で特に名高い方であったそうです。また養母は薙刀と柔の達人であり、蒼溟師と共に書道にもすぐれ、お二人ともに立派な作品を残しています。この秀れた養父母に育てられた大熹師もまた書道の大家でした。まさに波瀾万丈の人生ですが、大変才能のあった方であったのは確かなようです。ただ師の経歴を見ると教導職としては神道教化を行った他の神道家の人たちとは到底ウマが合いそうにはない気もします。

              
                                願善寺
溝邊蒼溟
 次に、また前記資料よりの孫引きですが溝邊蒼溟師の略歴を紹介させていただきます。自身も優れた人で、幼い大熹師の才能を見抜き大切に育てた蒼溟師は、大熹師にとっては実父同然の人であったのでしょう。

19才 春、京都に遊学する。
26才(文化13年) 雲華院大含諾講師の門に入る。
33才(文政6年)  髙倉学校寮司(大学教授)となり、東本願寺法主嚴如上人から奥羽両國法門取締を命ぜられる。学問に通じ篤実な人柄として知られる。願          善寺に寺小屋を開き子弟の教育を行う。
49才(天保10年) 正月9日領主戸澤大和守より召され褒詞を受ける。
67歳(安政4年) 5月31日病で死去。
 先師が京都に赴き不在中は父に代って大喜師が子弟の教学を司どった。天保元年のことである。大喜師の天才聡明であることに生徒達は感嘆したという。蒼溟師の門弟には菅原遯等の偉才もいた。その後明治初年まで大喜師が寺小屋を継續して專心教学に努め信仰を中心として徳化した。