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にしかたの昔語り

にしかたのお寺さん



にしかたのお寺さん
 当地区の南北朝.室町・戦国時代の土豪領主たちはその時代の高僧を招いて各時代の中央文化や仏教文化を取り入れていました。現在残る土豪領主たちの菩提寺の多くは曹洞禅寺でする。これに対して庶民は時宗や浄土真宗などの阿弥陀如来を信仰していました。庶民の寺院も多くは鎌倉後期から南北朝・室町時代の開山でありますが、面白いのは南北朝時代の開山寺はすべて北朝の年号を用いていることです。この背景には、当時の南北朝の動乱があるのではないでしょうか?当地区のある寺社には「真言聖が伊達氏に味方して寒河江方の動向を密告したために、最上氏に焼かれた。」という言い伝えがあります。また、ひょっとすると「南朝の忠臣白鳥冠者」を祖とする白鳥氏は、真言僧や高野聖と結びつき伊達氏に味方したために最上義光に滅ぼされてしまったのかもしれません。逆に白鳥十郎が織田信長に味方しているのに対して、西浄寺の寺伝には当地区の真宗宗徒が信長と敵対する東本願寺に味方した様子が伝わっています。とにもかくにもこういった背景があって当地区に村山市文化財羽黒堂写経や多くの板碑・写経・六面幢・念仏壇・念仏踊り・鹿ノ子踊り、石仏や念仏講・二十八夜講・二十三講・十八夜講・百万遍講などの石碑が伝えられています。


  耒龍院塩沢山塩常寺
                  昔、最上川の碁点には龍神が住んでおり、水煙を上げ天と川との間を往来していたという。(塩常寺)
                                   塩常寺
 河島地区にある塩常寺は、正しくは耒龍院(らいりゅういん)塩沢山塩常寺といい、正応己丑(1289)年3月15日の開基といわれている由緒のあるお寺です。開山は戒阿弥上人という人で、上人は農夫でしたが、ある日上人が最上川で魚釣りをしているところに葉山へ向かう一向上人が通りかかり、上人のために塩水のでる井戸を掘り、塩水を汲む杓子を与えたことから、上人は得度して弟子となり、やがて戒阿弥上人と名乗って井戸のある地に塩常寺を建立したといわれています。塩常寺には2尺1寸の白金の勢至観音像と白金の塩梅匙(実は柄杓)、龍宮の縫目なしの羽衣が宝物としてあったといわれていますが、昭和23年10月31日に盗難にあって、今は観音の台座だけが残っています。この勢至観音は白金製の立派なもので、その光は夜になると3㎞先の楯岡羽州街道まで明るく照らしたと伝えています。また縫い目なしの羽衣は最上川に舞い上がる天女の残していったものとされています。塩常寺は今は河島山の東側にありますが、昔は西側の最上川近くにあったといわれています。宗派はもともと時宗でしたが昭和17年に浄土宗に改宗したそうです。堂は土蔵つくりで、境内には数百年を経た板碑が数十基のこっています。
 別な由来によれば、「弘安3(1280)年頃、無住の寺があった。毎夕方、主従13人の美女が現れて、漁師の建てた庵室で、念仏の一法を広めていた。漁師が説法を聞いたあと、「何国の者だ」と尋ねると、「我々は杉島の影なる御殿の水底竜宮城の娑偶羅音主後宮のつながりである。」と答えて、縫い目なしの衣と塩梅杓子を置いて去った。その後、碁点の川面に、竜宮城の千角棒という木材が流れ着いた。その木材で塩常寺のお堂を建てた。寺の本尊は、仏界の閻浮樹(エンプジュ)の大森林を流れる河に産する砂金で炎浮壇金(エンプダゴン)という白金で鋳た勢至菩薩であった。」と伝える。本尊と縫い目なしの衣と塩梅杓子は、寺の三宝物としていたが終戦後盗難にあって、現在はなくなっている。」と伝えられています。由来の中の娑偶羅音は、仏界沙竭海の竜神、縫い目なしの衣は羽衣、12人の女性は竜宮の乙姫や天女を想像させます。
 さらに、塩常寺のご住職の話によれば「雨乞いや虫送りの行事で竜神祭を行う。寺裏の塩井戸の塩水を塩梅杓子で汲み、最上川の烏(カラス)貝を煮て竜神に供えていたから、以前はこの地区を貝塩村といった。旱魃や虫おくりの時に竜神祭を行った。河島山西側山裾に祭壇を葉山立石山に向けて設けて、お護摩を焚き請雨経法を諦経して祈祷した。護摩祈祷をすると、葉山に雷雲が起ち、雷鳴・雷光が走り、碁点から二匹の竜が昇天して降雨がある。すぐ降雨はなくとも三日以内に必ず降雨がある。降雨後の晴れた月夜には12人(一説には8人)の天女が、最上川水面から舞い上がり、河島山周辺を舞いながら飛翔する姿を仰ぐことが出来る。葉山の雷神が太鼓を打ち鳴らして、臥竜を昇天させ雨雲をよび寄せることから、この寺を正しくは耒龍院(らいりゅういん)塩沢山塩常寺という。」といわれています。ここにでてくる竜神も葉山立石山とを関連させるもので、「葉山古縁起校定」にいう「過去久遠の誓願に答えて、最上川の水底に和光明々たり」という一文を連想される話で興味深いものがあります。この竜神祭は現在は金樹寺で行っているようですが、本来は、河島の塩常寺の祭りでした。
この記事につきまして塩常寺ご住職よりご連絡をいただきました。記事中の「雷龍院」は「耒龍院(らいりゅういん)」の誤りです。申し訳ありません。早速訂正させていただきました。ご教示ありがとうございました。


  金覚寺
 白鳥宮下地区の鎮守月山神社境内の周囲にはかつて白烏氏の居楯だったと伝えられる平場があります。ここはどんが祭で有名な谷地八幡宮創建の地とされ、八幡池や五輪塔・板碑の残骸・六面幢・阿弥陀堂・念仏壇など中世の遺物が残っています。またここには現在樽石にある金覚寺のあったところとも伝えられています。金覚寺は谷地八幡宮が谷地に移転する際、一夜のうちに樽石へ飛んでいったと伝られています。実際には金覚寺は宮下から白烏氏滅亡後に銀山や石田に移り、江戸末期樽石の現地に移ってきたようです。明治7年には樽石村の小教院が寺内に開設されています。 以下の文章は金覚寺の和尚様から見せていただいたお寺の由来を平成9年に父が読みくだしたものです。
 抑当山の由来を尋るに、当村奥州三春の城主秋田安房守殿ご先祖、秋田城の介定季の三男、当国乱世の砌、頻りに菩提心を発し厭離穢土の望深かりければ、父母の赦命を乞て鬚髪を剃除し、法名寛隆と号す。真言秘密の法を修行し、最上東根の八王子に住持して、真如法性の月を眺むといえとも、末代の悲しさは迷雲是を霞て心證明らかならず。終勤苦捨身せんと欲るの刻、都より願證と云し上人の仏法弘通ため、奥州に下られ、奥より当国開山の険阻を歴て黄昏に及び、東根の里に至る。八王子に来たりて一夜の宿を乞れし由故、左右なく宿し侍りして終夜法義問答し、寛隆易行の深意を受得し。忽自力を捨て他力の門に入(る)。信心歓喜の思いより深く浄土に帰入し、速かに御弟子と成(り)明順順信と改む。
 干時其節の本尊坐像の地蔵尊御丈ケ6尺3寸の尊容、御腹籠りの阿弥陀如来其御丈ケ8寸是は運慶の作なり。
 此寺を弟子に附属して、師の上人諸共に当郡の僧俗を教導し給ふ。上人は高玉(高擶)の辺に草庵をしめさせられ、真宗の法門日を追て繁昌す。御弟子数多の中に、予壱人上京せす。善知識の尊観を得ざりりけるを常々悲しみ、文亀2(1502)年の春の頃、願證上人に縦を乞(い)譲られたる蓮如上人の御名号を首にかけて登られける。
 夫より実如上人へ渇仰し奉り10余年の間、昵近日夜御化導を蒙り、弥々歓喜の色を増し、大永4(1524)年一先帰国を願ふ所、願證倶々有縁の客生を化覚有べきの仰せをうけ、御縦を給はり、御形見として十字御名号ならびに四通の御書を御誠筆被成下、帰国の上白鳥村に居住して遠近の門徒教導、念仏の一行無怠慢終りて、同8年9月28日称名諸とも往生の素懐をとけぬ。
 息男明順坊賢勝二世相続、三世の孫明順坊了勝上洛の節は、御本廟10代目證如上人の御世に被為当来迄3代の間、教化の切を賞せられ、寺号金覚寺と御許容、本尊の御判も此時に御免被成下、4代金覚寺耳其上洛の砌は、教如上人の御代親敷御教示を蒙り、且又御顔見、御名号誠筆被成下、其後迚も代々上洛の度毎、御染筆の御掛物、其外御代々の御影数多奉安置事現然なり。
 然るに貞享(1684~)の頃御領主戸沢能州正誠公御代、寺院新古御改被為在、其砌当坊は尤古得たるの御意を蒙り奉る事、世上普く所知の霊場也。委しくは当持代々の記録に明らか成れば、不遑枚挙、仍て荒増を爰に述(べ)る。穴賢
弘化3(1846)丙午 初冬
白鳥村
金覚寺十三世
釈 敬 順
 この文章によれば金覚寺を創設された和尚様は当初真言宗の僧侶だったようです。しかし、浄土真宗に改宗して東根で修行の後白鳥村に金覚寺を創設されたようです。父の考え方をとれば、白鳥十郎などの領主と対立する宗派の重要な寺院として本山とのつながりも深く、明治時代には小教院がおかれるなど、庶民の信仰の信仰の中心として活躍していた様子がうかがわれます。

  金樹寺
                 金樹寺
                                   金樹寺
 金樹寺は河島地区にある由緒あるお寺です。金樹寺の由来には「正親町天皇の永禄年間までの金樹寺は真言宗金剛寺と称して、凡そ三百有余年を経ていた。・・・河島白山神社は、天正年間当時は、真言宗金剛寺の礼拝所であった。金剛寺は寒河江本楯城主西根氏工藤勘解由の菩提寺で、当時工藤勘解由は長瀞殿と称していた。長瀞殿は最上氏との折り合いが悪く、何かの問題がおきると、西根氏はこの寺に駆け込んだので、金樹寺は最上氏に疑念をかけられ焼き払われた。その後金樹寺は浄土真宗に改宗し、延宝2(1674)年に寺号を金樹寺と改めた。金樹寺の本尊は山辺右エ門守光茂の甲胃に冠置していた仏様で、承応3年(1654)に、山辺専念寺から賜ったと伝えられている。また、寺には(中略)竜神の掛け物が宝物としてある。・・・昔、河島山裏側の最上川水面から、竜が水煙をあげて天と川との間を往来していた。旱魃時に白山境内の沼をかき回すと、夜に竜の飛翔する姿を拝むことができた。翌日には必ず降雨があった。」と伝えられています。村山市史芸術文化編を見ると、河島金樹寺の前身は真言宗金剛寺で、戦乱で焼失した金剛寺跡に文明年間に京都北面の武士藤原忠常が蓮如上人に帰依して本西と名のり、巡錫して開山したと記されています。その後、本西は山辺専念寺の住職となったとあり、両寺ともに前身は真言修験寺院であることを述べています。
 金樹寺の由来にある山辺氏や本楯西根氏の信仰などは、武士の竜神信仰を語るものでしょう。なお、葉山奥ノ院の大黒天の神像は、山辺の葉山講中の寄進です。
                       金樹寺山門
                                 金樹寺山門


  富並西浄寺
               
                                  西浄寺
 縁起には「そもそも当寺の源は、極昔大祖伝導師この寺を領す御大将出羽国鬼甲城主乙浜入道大琳政国殿と号す。御本領37石余り、御内高28石余り、殊二御威容顕耀・・・中略・・・。」とあります。
 また縁起には代々の住職さんの寂年(亡くなった年)として、
一.伝導和尚 天徳年中(957~960年)頃寂すという。年月不明。天台宗也。外堀山台窟寺。
一、覚心和尚 健保元(1213)年月不明、然し正月。
一、法学和尚 文禄2(1593)年巳8月23日寂。
一、学真坊 慶長19(1615)年甲寅7月18日寂。正祖改宗。真宗。(口伝には学真坊は僧兵となり、石山合戦(1570~1580)に参戦し織田信長の軍勢と戦いました。その後京都東本願寺で天台宗より真宗に改宗したといわれています。
 江戸時代に書かれたこの縁起からは、法学和尚の文祿年間まで西浄寺の宗派は天台宗であったことがわかります。住職や古老の話によると、現在の寺は富並にあるが、開基伝導和尚は当時兄の和尚が葉山におった関係で、京都と葉山を行き来しているうちに、鬼甲城主の意向で城の外堀に寺を建立したのであるといわれています。現在も富並鬼甲城趾南外堀には寺屋敷や経塚の名を残しています。
 縁起とともに御詠歌も残っています。
  紀州熊野へ参詣して、奉楽又歌として詠み侍りける歌。
  三熊野の 神の恵の 露深く 故けのたもとに かかる嬉しさ
 この歌は、湯野沢熊野神社の御詠歌と同じです。

  富並伝導山西念寺
              
                                  西念寺
 明治初期、この寺の住職の書いた縁起には、「口伝に一条院の御世正暦元年頃の開基という。その時代は何宗何和尚の開きたるを知れず。伝導山西念寺と称す。三条院の長元年中落浜入道大琳鬼甲城を造りし時は菩提寺として当村字桜清水にありという。其後源頼義公に討伐せられ焼失す。余族山内字泥又沢に引き越し兵庫守首長として住す。寺も又当所に永く住す。暦仁元年中泥又城落す、寺も又有名無実当宇となるも、正元年中富並字楯に甲斐守築城せし時、当寺を泥又沢より移し城主の菩提寺とす・・・以下略。」 とあります。建立の地である桜清水についてですが、何々清水というのは高僧の農地開拓の地名とされています。
西念寺には、次のご詠歌が伝えられています。
 紀州熊野へ参詣シテ奉リ楽、又歌トシテ詠ミ侍リケル歌
  三熊野の神の恵みの露深く故けのたもとに可可流姑しさ 遊行尊

  祥雲寺
 楯岡史略記をご参照ください。

  熊野山證誠院
 湯野沢地区は昔の楯跡となっています。楯はその規模からみて鎌倉時代の地頭屋敷と思われます。江戸時代には年貢を納める郷倉がありました。郷倉西側に新義真言宗弘法寺御料熊野山證誠院というお寺がありました。熊野神社の別当をしていたお寺です。境内は郷蔵東土塁と西側台地をm掘り下げた土手に囲まれ、縦40m、横15mの平場となっています。明治初めの神仏分離令で廃寺となり、本尊の不動尊・大日如来は長松院に遷し安置されています。古くは熊野神社付近の弘法寺山にあったので弘法寺というのだそうです。代々の古老は弘法寺と呼んできています。貞享元年の検地帳には「寺地真言宗證誠院」と記されています。また「新庄藩村鑑」という資料には、弘法寺御料谷地円福寺末寺熊野山證城院、境内六百二十八坪とあります。さらに慶安2年の戸沢藩の戸帳奉納時の記録には、同じく弘法寺御料地円福寺末寺とあります。

  大白山松念寺
                
                                 大白山松念寺
 宝鏡寺建立の約187年前の永仁2(1294)年、長善寺上野地区(現戸沢小学校敷地の南西面)に大白山松念寺が創建されています。松念寺は白鳥宮下地区に居館をもつ白鳥氏の菩提寺といわれています。一説には白鳥氏の女人達の菩提寺といわれ、不文明ですがいずれにしても白鳥氏と深い関わりがあることは確かです。松念寺は元禄元(1688)年本堂が焼失し、享保2(1717)年再建されましたが、昭和39(1964)年再び火災に遭い、貴重な資科・遺物が失われてしまったことは誠に残念でなりません。白鳥氏が白鳥宮下郷の土豪でしたか、あるいは何処からか移り住んだ武将かは判然としません。県史では白鳥の豪族だったと記していますし、谷地町誌では奥州安倍氏の一族行任の末裔でないかと記しています。一説には寒河江の大江一族でないか、あるいは谷地の中条氏の一族とするものもあって、その出自は極めて不明確です。しかし、白鳥宮下郷に居館をもち、居館の南方の舌状台地鍋倉に白鳥城を築き、柏木森・鳥屋森・毛倉森の山城(出城)を作り、更に碁点の楯を造成してから谷地(現河北町)に進出して谷地城を完成し、織田信長と親交を結んで最上義光(山形城主)の逆鱗にふれ、天正12(1584)年山形城において誘殺され滅ぼされた武将である、ということは史実のようです。昭和7(1932)年6月8日の山形新聞の記事に「五月雨煙るきのふ白鳥十郎の供養式」のみだしで、河北町谷地の家臣団が「血染めの桜」の前で武将の霊を弔ったことが出ています。(大槙村史誌 平成14年 髙橋欣二先生資料より)
                       

  龍口山定林寺
                 
                                   定林寺
 谷地にある龍口山定林寺は初め岩手県水沢市にある正法寺の末寺として、沢畑山滝の口に永徳年間(1381年頃)開山されたといわれています。寒河江市史上巻によれば、水沢市にある正法寺は、貞和4(1348)年開山の古刹で、正法寺の二祖、月泉良印は多くの弟子を養成して大きく発展し、永平寺・総持寺と並び東北地方の「第三の本寺」の格式を持った寺とされています。瑚海理元禅師はその正法寺の三祖、道叟道愛禅師の開山された永徳寺に入り、禅師の教えを受けた英才の学僧です。大正時代に書かれた定林小史という本には「禅師の父は、北畠氏と共に南朝の忠臣陸前石巻日和山城主葛西清貞の二子に生まれ、父とともに戦場にあったが、北朝の勢力の増大を嘆き、母方の柏木家の永徳寺の道叟道愛禅師の弟子として仏門に入り、禅師六哲の第二足と調われた。」とあります。また、母のことを、「御母君は陸中胆沢郡永岡村大森(又は大林)の城主柏山伊豆守時員の息女」としています。太祖は平清盛の孫で、平家没落後は秋田に隠れ住み、文治5年に奥州藤原氏滅亡後、源頼朝の武将葛西清重の尽力によって頼朝より領地を賜った。」とあります。釜石地区は葉山鳥居崎坊の霞場(旦那場)で、葉山信仰の深い地域でもあります。瑚海理元を招請した国人は、谷地中条備前守であったと思われ、末寺に垂石林昌寺・湯沢山長松院・上野万松寺があります。定林寺末寺では、南北朝後の室町時代の永享3年日陰地区に開山された垂石山林昌寺が最も古刹です。また定林寺の開山僧瑚海理元の出身地石巻は、江戸時代まで葉山鳥居崎坊の旦那場で、葉山参詣が盛んであったと伝えられています。

  政善寺
                
                                  政善寺
 大正6(1917)年高橋簡策という方が発願して建立しました。この寺は福島市にあったものを、山形市の明善寺住職並びに楯岡浄覚寺住職の勧めにより沖の現地に移築しました。本尊阿弥陀如来像は僧恵心(浄土教の祖源信)の作といわれ、一大事が起こると仏像が濡れるので「濡れ仏」として、地域の人に尊崇されてきました。(大槙村史誌 平成14年 髙橋欣二先生資料より)


  湯沢山長松院

                長松院
                                        湯沢山長松院
 湯沢山長松院は文明3(1471)年に玉叟真通大和尚という高僧が斯波満頼の招請により谷地の定林寺未寺として湯の入地区に開創したといわれています。開山者の法号満相冷月居士に諱の「満」があることから、大久保宝鏡寺と同様に、斯波兼頼の孫、満直の三男大久保満頼の招請により開山したとしています。大正7年書かれた定林寺小史に「当山五世玉叟真通和尚大徳の誉れ高く、長松院殿満相冷月居士の招請に応じ、文明3年湯野沢に長松院を草創す。此長松院殿を谷地の城主白鳥十郎長久に滅ぼされたる熊野三郎なるべしとなす者あり。されど白鳥氏の盛時天正年間は文明以後110余年の後なるに於ては、付会の説たるや明らかなり。案ふに満相冷月とは、最上義光の祖先、斯波兼頼の孫、満直が三男、大久保殿右馬守満頼のことならんか、法号に諱の一字あると、時代の符合するを見れば、或は此の人なるべし。」という記述があります。その後第9世勇順和尚の時代、火災にあい現在地に移転されたといわれています。しかし、満頼の入部は高擶であり、大久保に入部したとしても、それは四男満国が楯岡に入部した応永13(1407)年前後のころでありましょう。長松院の開山は応永13年から65年後の文明3年です。応永13年に大久保に満頼が入部したとなれば10才にもならずの入部となり、その歳で入部したとしても文明3年には75才は過ぎていたと思われ、満頼の長松院開山には疑問があります。当地区にある湯野沢稲荷神社の縁起は湯野沢地区と白岩地区との結びつきを伝えており、文明年間に玉叟真通を招請して長松院を開山した満相冷月居士は定林寺小史で疑問視している熊野三郎満盛(久)か白岩満教である可能性もあります。
 須弥壇に安置してある仏像のうち、大日如来不動尊は明治の初めの神仏分離の時、真言宗證誠院から移転安置したものです。仏像を長松院に納めたために、長松院に入っても、雪おろし、雪囲いなどの労力奉仕、寄付行為などはしなくともよい条件であったといわれています。

  東林寺
                 
                                  東林寺
 白鳥十郎の菩提寺として白鳥十郎の位牌を安置していることで有名な東林寺は、定林寺と同じく水沢市にあるの正法寺の高僧の開基とされています。正法寺年譜住山記という本の中にみえる月泉禅師四十四資(弟子)中の十一番弟子の虎渓良乳という人が応永3(1396)年現在の白鳥宮下地区に開山されました。続太平記という本の中の「出羽の南朝の忠臣自鳥冠者義久」は応永ごろの武士で、この白鳥義久が虎渓良乳を招請したのではないかと思われます。種林寺と東林寺はその後白鳥長久が谷地に入る際、谷地に遷されています。その後種林寺はいったん廃寺になりましたが、尾花沢市芦沢に遷されたと伝えられています。河北町史によれば斎藤氏に伝わる系図に白鳥十郎の子について「男、村山郡東林寺二代目住職」と記載されている、としています。
                      
                               白鳥十郎公供養塔



  鶴寿山万松寺
                岩野万松寺
                                 岩野万松寺
 以下の話は万松寺ご住職のお話を父が拝聴し記録したものです。
 岩野万松寺のお観音様
 鶴寿山万松寺は永禄5(1562)年、定林寺十世庵室能宣の開山した寺です。
 万松寺の後ろに昔から観音山という山があります。この御観音様は三十三身と申して人々の苦しみや悩みごとに応じて一仏が三十三のお姿に変化せられて人々の苦しみや悩みごとを救ってくださる偉い力をお持ちの仏様です。今山に上る途中の両側に立てられている三十二身の石の観音様は、それぞれがそれぞれその人その人の悩みごとや苦しみごとを救うお姿です。
 この御堂は、明治前は馬頭観音を本尊様としていました、明治初年からは聖観世音菩薩の観音様を本尊様としています。最初はいつごろに建てられた御堂か、また観音山という山の名前についても聞かれると詳しいことは私も聞いておりませんし、書いたものも残っておりませんので分かりません。でも、御覧ください。観音様の後ろ脇にある松の木の太いこと。300年か500年前からの大木です。この松が植えられたときから観音様の御堂があり、観音山という名前がついていたのでしょう。
 馬顧毅音様という仏様はどういう御利益があるのかというと・・・。昔、当時80歳になるばあちゃんから聞いた話です。
 明治時代よりも前の時代は、今のように自動車等というものはなかったし、また自転車、リヤカーなんていうものも勿論無かった。そこで人の乗り物も物の運搬はすべて農耕馬に頼っていました。物は馬の背中に積んで運んだし、医者や村の役人などもすべて馬に乗って行ったり来たりしたものです。.交通上重要な役目をつとめたのが馬でした。 その馬に乗って樽石から湯野沢に行く場合は、必ず樽石の今のM商店のところで馬から降りて手網を取って歩き、万松寺馬頭観音様に手を合わせ拝んで前を通り今のG商店のところまで歩いてから馬に乗って湯野沢に行ったそうです。不思議なことに、もしM商店のところで馬から降りないで馬に乗ったままこの馬頭観音様の前を通ろうとすると、何の訳かどうゆう理屈か分からないが馬の背中から3メートルもほうり投げられたといいます。実に霊験あらたかな馬頭観音様でありました。.
 馬も様々で利口な馬、馬鹿な馬、暴れ馬もおったのでしょうし、道路も今のような舗装道路ではなく田んぼのくろの端くらいの道で石ころだらけの道であったでしょう。こうした道を馬の背中に大切な荷物を積んで樽石から谷地あたりまで運んだのでしょう。途中、馬が暴れたり転んだりしないように、また災害や泥棒等にあわないよう、交通安全を祈願し馬と一緒に馬頭観音様の前に手を合わせてから通って行ったのでしょう。
 皆さんも、困ったことや苦しいことがありましたら手を合わせて願いのかなうように観音様を拝みましょう。

  大圓山宝鏡寺
                  
 大久保大圓山宝鏡寺は大石田横山地区にある黒龍山向川寺の末寺、また一説には山形龍門寺の末寺ともいわれています。宝鏡寺は最上満頼の菩提寺とされています。しかし出羽国風土記という本には、満頼が最初に封ぜられたのは山形市漆山楯であるとし、漆山の稲荷神社には、応永21年満頼の奉納といわれる短刀備前兼光や、同じ応永21年の千手観音堂の修復・農地開拓などの事蹟が伝えられており、今後の研究が待たれるところでしょう。
 宝鏡寺は最初向川寺の六世天沖良門(文明15年=1483年没)が、斯波満頼の招請により、最上川碁点開削前に大槙袋町に開山建立されたといわれ、その後北山大圓山(現白山神社付近)の地に移り、さらに後、最上義光が碁点開削をした後に、大久保に移ったと伝えられています。
 (ここからは大槙村史誌 平成14年 髙橋欣二先生資料より引用)
 室町時代の中期文明15(1483)年、この大槙地区袋町を望む一段高い所に宝鏡寺(現村山市大久保)が按察使斯波兼頼の曾孫大久保満頼によって建立されたと言われています。同じ頃楯岡に満国(兼頼の曾孫)が配されたことから、南北朝争乱のあと出羽一円の支配体制を確立するため、南朝の武将小田島長義(東根館主だったが逃亡)の配下だった東根・小田島荘を背面と側面から牽制し、出羽一円の治安維持の一助としたものでしょう。
 この宝鏡寺に銀杏の木が植えられたそうで、宝鏡寺が移築されたあとも残されてありましたが、明治20(1892)年に切倒されたので、大槙地区の人々はいちょのき跡とよんで親しんでいます。宝鏡寺がいつごろ大久保地区北山に移築されたかは明らかでありませんが、袋町の人々は度重なる大洪水の水害により、家屋は流失され生活の拠点を失って離散しどこかへ移り住んでしまったので、宝鏡寺も移築されたのではあるまいか、と古老はつたえています。
 この宝鏡寺の北隣りの敷地に「荷渡灯明仏」が奉祀されていたと伝えられています。最上川を利用する船人たちが、航行の安全を祈願したとおもわれます。此の時期、碁点が掘削されていなかったため、川を遡ってきた船は上流には上れなかったのでしょう。
 袋町は船荷の積み卸しの場所として賑ったのではないでしょうか。また最上川は航路(交通路)としても重要な役割を果たしていたと考えられ、極めて興味深いものがあります。
 (ここからは昭和44年宝鏡寺再建時の資料より引用。文語体を口語体に改めています。)
一、開創の縁起(年代は昭和42年当時を基準としています。)
大槇袋町時代
 当寺の開創は再度に亘る火災にて、過去帳及諸記録一切を焼失したので、詳細は不明です。開山は本寺黒滝山向川寺六世天仲良誾大和尚で、向川寺過去帳によると、文明15年3月26日示寂とありますから、今より486年前です。従って開創はそれ以前ですから約500年前と推定されます。最初の開創は、最上川三難所の一である碁点より約2キロ下った沿岸で、大槇の袋と称する地点に建立されたと伝えられています。戸沢風土記によると、このところに「宝鏡寺銀杏」と云った大木があり、明治初年に開田のため伐採しましたが、当時年輪を数えたら400位まで数えられたが、あとは空洞のため数えられなかったと記されています。現在この附近の地名を「銀杏の木」と称し、今尚その根が残っており、巨木亭々として天を摩し、枝葉繁茂した往昔の面影が偲ばれます。この歴然たる事実の発見を尊び、今度有縁の士と相計り「宝鏡寺銀杏の跡」と云う記念碑を建て、この聖地をして後世に伝え得ることは欣幸これに堪えません。元来この地域は最上川舟航の要路で、人文物資の交易の地として大いに繁昌しました。これを証するものの一として、宝鏡寺跡の地に続いて現在白山神社がありますが、本来は「荷渡し燈明仏」と称して、日月燈明仏を本尊とし、舟航の安全を祈願した堂宇で現にこの仏体が一隅に安置ざれています。現在の白山神社は明治維新当時の排仏毅釈の時に、「み田中」にあった白山神社をこの堂宇に移遷合祀し、燈明仏に代って白山神社となったものです。袋町として繁昌したこの地が、天正8年最上義光公が、最上州舟航を妨げている碁点の岩石を開さくし(北村山郡史)上流山形船町迄舟航し、最上川の全面的利用を実現したので、舟航の要所袋町は衰微し、あまつさえ天正年間に最上川大洪水の災を受けたので、宝鏡寺は大久保に移遷したと伝えられています。従って宝鏡寺が大槇袋町にあったのは、文明のはじめより天正の末期頃まで、凡そ130~140年間位と推定されます。凡そ一山の開創には、開山和尚の徳力と開基家の人々の財力が、不可欠の要素ですが、大損の宝鏡寺創立の開基大檀越は果して何人であったか、之を証する資料に乏しいのですが、凡らく大窪初代城主最上満頼公であったことに間違いないと思われます。資料の最上家天童系図によると、最上満頼公は応永5年(568年前)漆山殿より大窪殿となり、宝鏡寺殿と云う(天童仏向寺蔵)とあります。更に大久保城主佐藤出羽守藤原昌充(天正18年卒す)16代の孫、大久保友春家(現在宮城県白石市居住)の系図書によると、大先祖最上満頼大久保左京輔佐渡守は、1万石にして将軍源義政に仕え文明15年7月18日卒し、宝鏡寺殿天徳青公大禅定門と称すとあります。当時1万石と云えば、大久保を中心にして、白鳥、大槇、湯の沢、或は谷地辺までも含めな領域であったとも考えられるので、最上満頼公は、当時人文経済の要地として繁栄を誇った大槇袋町に、向川寺六世天仲良誾大和尚を請して宝鏡寺を建て、人心の帰趨を仏法に求めたものでしょう。尚この満頼公は文明3年定林寺五世玉窓真通大和尚を請して、湯の入に長松院を建立し、長松院殿満相月公大禅定門と称したことも、文献上明らかにされているので、満頼公は北に宝鏡寺を建て、西に長松院を創立したものと思われます。
大久保北山時代
 宝鏡寺が大槇より大久保に移ったのは、前述の通り天正の末期と推定されますが、最初に移ったのが北山で、後に現在の場所に遷ったと云われています。之を証拠立てる文献はありませんが、現在の学校グラウンドの東下に、今尚「堂の浦」と云う地名あり、そのところに昭和の初年頃迄「宝鏡寺井戸」と称する井戸があったと、古老の云い伝えがあるからこの地が寺跡であったのでしょう。亦この地後方の山を「大まる山」と称し、宝鏡寺の山号が大円山であることも、当時のゆかりを物語るものでしょうか。
現在の地
 北山から現在の地に何時移ったか、何らの交献もなくこれ又全く不明です。只現在の場所が武家豪族の居城であったことは、境内の戌亥の方向に武の神八幡神社があり、現在当山の鎮守であり、地区の村社として祀られていることからして明らかです。亦境内の地形にしても、東西南北と周囲空濠を以ってめぐらされ、惣門の入口にも堤塘が突き出て、小規模ながら築城法の構えです。只この跡処が誰の居城であったか、断定を下すには、いささか資料不足と思われますが、川崎浩良著「山形の歴史」には大久保初代城主最上満頼の居城跡であると記してあるところから見ても、満頼の居城と見るのが妥当でしょう。この由緒ある地に、宝鏡寺を移遷し建立したのは何時の時代か、何代目の住職か、之を明らかする何ものもありませんが、文禄或は慶長の年間かと思われます。その事を証するものとして、当寺三世量山存樹大和尚の事ですが、この大和尚は岩木岩松院の開祖であり、慶安元年示寂(岩松院過去帳)とありますから、宝鏡寺開山大和尚示寂の年より、僅かに中一代をおくだけで、165年の開きがあります。この事は宝鏡寺が大久保に移遷したのは、二世昌山良大和尚の時だと云うことを物語るもので、この二世大和尚が現在の地に宝鏡寺を建て、遠く大槇時代の開山天仲良誾大和尚を開祖と仰ぎ、大槇時代の歴住諸大和尚を世代とせず、自ら二世として新寺を建立し、寺統を継承したものでしょう。従って移転中興の祖は二世昌山大和尚と思われますが、この移転の大業を授け、堂々たる伽藍を整えた開基檀越は誰であったかは不明です。古老の言によると、移転の開基檀越は、最上義光公の家臣にして、最上四十八館の一であり、大久保3000石の領主大久保主馬之介公であるとされています。そして主馬之介公は大久保落城後、仙台にのがれたが現在の五輪の塔2基は、主馬之介公父子のものと云われています。然し大久保主馬之介が、大久保に居城していたのは割合短い期間のようです。即ち義光公は、政策上5000石以下の城主を山形城下に集めたので、当然大久保主馬之介も山形に居住し、その屋敷も文献にはっきり示されていることからも確かでしょう。従って大久保主馬之介が、落城して仙台にのがれた事も、現在の五輪塔2基も、主馬之介父子のものと見ることには大きな疑問があります。更にここに新しく問題となるのは、前記大久保友春家所蔵の系図書によると、先祖大久保城主佐藤出羽守藤原昌充は天正18年7月18日卒し、二代目佐藤昌愛は、慶長7年2月15日大久保郷落城の後兄弟2人妻子共5人にて仙台に遁れ、慶長19年8月18日卒すと記されています。そして大久保落城後の5ヶ月を経て、7月23日大久保主馬丞が、大久保に封ぜられています(義光史蹟)。これら綜合して考えるに、大久保落城して仙台に遁れたと云う云い伝えは大久保主馬之介でなく、佐藤昌愛兄弟であり、現在の五輪の塔二基も、或は之に関連していると見るべきであるかもしれません。何れにしても、移転中興の大檀越が誰であったかを確実に立証する資料がないので、今後の研究にまつより外ありません。ただ移遷当時の伽藍はもちろん焼失しましたが、前記五輪の塔及歴住和尚の墓は移転当時のまま現存していますが、何れも立派でことに供養の灯篭、石段の珠星など精巧をきわめています。特に歴住墓地の入口が左右七三に分れて階段があり、真面より入らないところなど、墓相学にぴったりだと今日墓相学者が驚いています。これを要するに、当募宝鏡寺は広大な境内に、堂々たる輪奐の美を誇ったであろうことが想像されます。そして之をなし遂げたと思われる、二世昌豊大和尚は、法力徳力兼備の大智識で、まさに中興の祖と仰ぐべきでしょうし、之を援けて見事移遷の大業を完成した人は、何人であるか不明ですが、財力、権力共に勝れた時の人として、この地に君臨した大檀越でこれ又移転中興の開基と尊ぶベきでしょう。まこと移転の建立と云う大事業は、常人のよくするところでなく、非凡の力量底の人でなければなりません。そして大久保初代城主最上満頼公の城跡を記念し、聖地としてこの地に宝鏡寺を建て信心を確立し人心を収拾し、政りごとに仏法の真髄を以てなしたる等、その見識の偉大なるに今更景仰の念を禁じえません。
二、当寺世代と事蹟
開山 天仲良誾大和尚 約500年前大警宝鏡寺を開創、向川寺6世にして、文明15年3月26日示寂。
二世 昌山口良大和尚 現地に移遷建立した中興の祖と思はれる、大愼時代約130~140年の歴住は欠けていると思はれる。
三世 量山存樹大和尚 岩木、岩松院の開山、慶安元年6月8日寂。
四世 天室口流大和尚 不詳
五世 天素口孫大和尚 不詳
六世 一芙口発大和尚 不詳
七世 忽外口鉄大和尚 不詳
八世 歇山口英大和尚 弥陀本願の碑、宝永6年7月15日、宝鏡現住元英叟敬白とあり、八世建立のものか。
九世 白巌梁樹大和尚 梵鐘を新添せる記録あり、焼失して現在なし。
十世 随嶺口全大和尚 不詳
十一世 月深瑞岳大和尚 延享五年馨子新添の記録あるも、現在焼失してない。
十二世 月仙口雲大和尚
十三世 大円良智大和尚
十四世 逆流耕順大和尚 本寺向川寺に昇住し、向川寺現本堂を建立、天保7年9月1日寂。
十五世 寂峰太円大和尚 天保10年8月8日焼失、安政3年石像三十三観音を自ら刻し建立。
十六世 祖雲耕道大和尚 文久2年7月大般若経600巻新添。慶応元年春より再建着工、明治3年再び落雷にて焼失、明治5年11月17日寂。
欠世 田嶋耕禅大和尚 明治5年住職となり、全6年仮本堂を建立、明治17年12月23日依額免職。
十七世 応物祖明大和尚 明治18年新庄瑞雲院より特命住職、全19年7月旧本堂増築し、現本尊観世音菩薩を新添、全22年位牌堂増築、山形県曹洞宗務支局取締を           勤め、明治36年5月24日寂。
十八世 天祐道海大和尚 明治37年7月曹洞宗大学林を卒え、即日宝鏡寺に特選住職、法憧開闢中興、明治44年大本山総持寺移転後初代副寺、副監院、監院を歴任           。大正13年甲府市大泉寺、昭和3年大雄山最乗寺に昇住、全10年3月曹洞宗管長に当選、仝年5月28日大本山総持寺独住第9世の猊座に陞り           、無辺光照禅師の勅賜号を賜る。昭和15年7月16日示寂。
十九世 大基興道    大正15年4月18日伊藤道海の室に入って嗣法。昭和4年3月法政大学卒業、全年11月18日住職任命を受く。昭和11年大本山総持寺侍者を           命ぜらる。全16年9月大久保村長、全22年10月山形県曹洞宗第一宗務所長を経て、曹洞宗々会議員、曹洞宗教育部長を歴任。全29年より           2期村山市長をつとむ。現在大本山総持寺副監院、本寺黒滝山向川寺兼務住職。昭和39年本堂再建着工し、仝44年5月完工。

  諏訪山菩提院父母報恩寺(見生庵、雪の観音堂)
                 
 明治36(1904)年9月21日、元奥州総本山名越派福島県磐城市専称寺管長の松岡白雄上人が、盛岡市字加賀野の退廃した寺、菩提院の寺号移転の許可を受け、諸国より浄財を募り、亡父母への報恩と祖先の追善供養のため開山した寺です。明治39年父母報恩寺と改称しました。また明治23年創設された宗派を問わぬ共同墓地である諏訪山霊園の守護寺として諏訪山山麓に開山された寺でもあります。松岡白雄上人は楯岡五日町にある松岡酒屋の出身で浄土宗名越派を再興した傑僧です。上人は福島県磐城の専称寺67世住職で、明治16年から大正12年まで40年間楯岡本覚寺24世住職を兼務していました。本飯田常照院を開山し、栃木県鹿沼の清林寺の再興するほか朝鮮従軍布教師としても活躍しました。松岡俊三は白雄上人の弟子です 御本尊は金銅造りの丈六阿弥陀如来坐像(通称濡れ仏さま)。もとは鷲峰山麓(現在の東沢公園バラ園)にあった本覚寺末寺見生庵念仏堂(別名鷲峰山念仏堂)近くにあった露座仏です。見生庵念仏堂は山居学翁上人によって中興されました。その際、上人は一万五千回向念仏のため近在の人々から浄財を募り、正徳5(1715)年京都の仏師釜座和田信濃掾の指導のもと山形市銅町の鋳造職人が鋳造して阿弥陀如来坐像を造像されたといわれています。文化8(1811)年補修の記録があり、光背は大正時代の作とあります(村山市の文化財(昭和48年市教育委員会発行)より)。明治維新の廃仏毀釈と東沢溜め池築造のため明治11年に本覚寺に、さらに大正年間に父母報恩寺に安置されています。その後、本尊仏3体、大猷院殿(徳川家光)位牌学翁上人とその弟子則入上人の肖像、木像阿弥陀如来が安置されました。

  見生庵(別名鷲峰山念仏堂)
  父母報恩寺伝によれば、天正元(1573)年に楯岡本覚寺を開基した良空上人が、天正10年に鷲峰山ふもとに念仏道場として建てたのが始まりといわれています。正保年間一時廃絶 しましたが、延宝3年4月本覚寺十世良円学翁上人が再興して自称山居と号して隠遁しました。貞享3年4月検地奉行松平清左衛門より境内地と山林を賜り、東照台徳大猷三公の位牌を 安置して領主の参列を仰ぎ47日昼夜礼賛の大回向念仏会を行ったといわれています。 享保5年5月、福島県いわき市平山崎の浄土宗名越派奥州本山梅福山専称寺二十四世良音上人より見生庵の号を賜り、鷲峰山念仏堂と称して十六世続いたといわれています。 当地方幕領地検地奉行松平清兵衛の子が本覚寺十世山居良円学翁上人であるといわれています。
                
  雪の観音堂
  昭和10年10月10日「雪害の松岡」と言われた衆議院議員松岡俊三によって建立された観音堂です。縁起には「御本尊は、恵心僧都自作の立像で、御丈1寸8分の正観音菩薩なり。浄土宗名越派再興の傑僧松岡伯雄僧正の御持仏なりしが、昭和5年5月16日実に宿縁あって雪害問題提唱者の予に帰す。予は昭和5年秋、総ての繋縛を断って唯御仏の本体を奉持し、東北6県及び越後国の各町村落を雪中行脚し、遊説に努むること3ケ年、しばしば危難苦境に遭いしも、不思議に加護を垂れさせ給ひ、今日の如く大目的を貫徹せり。諸願成就の名に因めり。御宮殿は、第一第二建白書は雪害運動史上真精神を成すものなり。予は謹みてこれを自書し 御仏の御供願上度くこれを納め、御宮殿に奉るものなり。 御堂天平勝宝8年聖武天皇の孝謙天皇勅願により建立されたる奈良の唐招提寺金堂を模倣縮型したるものなり。御堂下地中には大聖釈尊ご誕生地の土塊を甕中に納めて埋没す。 昭和十年乙亥十月十日松岡俊三」とあります。
 松岡俊三は、ともに山形県雪害対策運動「山形県正道会」を設立した柏倉九左衛門(山辺)と国井経崇(寒河江市八鍬)、また青森県黒石市の衆議院議員鳴海文四郎(青森県松岡後援会会長)と諮り、白雄僧正の眠る父母報恩寺の境内に雪の観音堂を建立しました。堂内には国井経崇邸内にあった観音様を一緒にまつり、御堂前には八鍬観音銘記の石灯篭が建っています。また境内には村岡久作作の松岡俊三の立像、国井経崇と鳴海文四郎の胸像が建っています。

本覚寺
-白竜の伝説をご参考ください-