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にしかたの昔語り

にしかたのお宮さん



 鎮守の杜と寺院
 にしかた地区の村里には白山・熊野・月山神社が多く祀られています。遊行上人と月山・高野聖と呼ばれる僧たちが熊野信仰と結びついた形で語り伝えられています。八幡様は城楯を伝える村にあります。一村独自な杜としては湯野沢に天満神社、長善寺と大淀に羽黒神社、白烏に不動尊、大槙に白山神社、宮下に松倉と伊豆権現、深沢に山王社、山の内に山神が見られます。これらの神は山中の岩倉にます神で、水神・竜神に関連する神です。伝承や縁起を見ると白山神・八幡神は平安時代の勧請、熊野神は平安後期から鎌倉にかけての勧請を伝えています。鎌倉初期を境に白山信仰から熊野信仰への移行が見られます。
 また寺院に目を移すと、平安・鎌倉時代に開山されたと伝えられる寺院は天台宗が多く、これらの寺院は後に浄土教に改宗して阿弥陀信仰を広め現在に至っています。平安末期頃には湯野沢と宮下に真言宗が入ってきたと伝えられています。
 その後、南北朝時代の延文年間(1356~1360)に斬波兼頼が山形に入部すると、文明年間前後には曹洞宗がにしかた地区に入ってきます。


  稲荷神社(村山市湯野沢)
               湯野沢稲荷神社
  荒敷稲荷神社は、縁起によれば、慶長年間に自岩城主大江備前守広隆が最上義光に攻め滅ぼされた際、家老であった大江重次郎という人が湯野沢に落ちのびてきて、白岩城の守護神である稲荷神を荒敷に鎮座したと伝えています。
 大井重次郎は一族の家来と、城主大江備前守の奥方と子供をつれて白岩の稲荷城をぬけだして、湯野沢へ白馬にのってやってきたそうです。稲荷神社もこの時、持ってきたと伝えています。
 そして、現在の湯野沢公民館のところに大きな屋敷をかまえ、名まえを海老名重次郎とかえて最上義光の目を逃れて住んだそうです。
 さらに重次郎は、当時まだ広い荒野だった今の荒敷地区に下荒田、上荒田を開拓して、稲が8万刈も稔る田んぼを開きました。そして、白岩からつれてきた一族の人々を近くに住みつかせました。この一族の人たちの氏神が荒敷稲荷神社だったといわれています。
 大江重次郎の家は明治20年頃まで続いていましたが、その後賭博で貧乏になり行方不明になりました。当時の村長海老名徳太郎氏が探し出して、その屋敷を買いとり、小学校の敷地として村に寄付しました。その敷地に明治27年、最初の本小学校を建築したのです。
 境内には、明治初期に薬師堂から移転した供養塔、寛政七卯(1795)年の西国・坂東・秩父・四国の巡礼供養塔がのこっています。



  熊野神社(村山市岩野)
               岩野熊野神社(建替え前)
                            岩野熊野神社(建て替え前)
 昔、ある時、岩野と湯野沢地区との間に永い年月にわたる争いが発生し、ある年、湯野沢勢が岩野の南端の挑戦原(ママ)まで攻め込んできて、岩野勢は不利になり、全滅の状態となりました。その時、.昼にもかかわらず一天俄かにかき曇り、獄山から大きな火の玉が決戦中の再軍の頭上に飛んできて破裂しました。両軍はこれは神の崇りと信じ、火の玉の落ちた所を境として永久に和睦しました。その地を岩野村では境明神として崇拝していましたが、後明治になって熊野神社と改称し、大正年間に現村社の地に遷座したといわれています。神社に残る記録に「大正4年11月29日、岩野村新田鎮座熊野神社村社として認可さる。承和13年3月3日乙寅(きのととら)明神を祀る。安政元年8月再建、明治6年8月15日村社熊野神社と改称、村社に列せらる。大正15年9月1月現地に遷座し奉る。祭神、大山津海神、伊在那邪神。」とあります。

  大照院の熊野神社(村山市湯野沢)
               大照院熊野神社
  この熊野神社は、初代新庄藩主戸沢政盛公と2代藩主正誠公にかけて家老職をつとめた井関内蔵助という人が、寛文8(1668)年9月に建立した神社です。当時の神仏は一緒であるという考えから、熊野権現(ごんげん)といいます。
 新庄初代の殿さまが新庄に移った時、最上義光の家来であった高橋勘解由という人が、新庄の萩野村にいました。殿様は、高橋勘解由を萩野村の庄屋にして150石を与えて武士としての待遇をしていました。そのころ、上谷地郷の村々(北口、吉田、工藤小路、岩木、湯野沢、岩野)では、藩に年貢をおさめなかったので、谷地郷の事情に詳しかった高橋勘解由を上谷地郷の代官としました。高橋勘解由が代官となってから、上谷地郷の村々は年貢を納めるようになりました。高橋勘解由は、3年間代官をつとめてやめ、家督を子供に譲って名を三明院と改名して湯野沢に隠居し、殿様から一代限り50石を与えられました。
 家老井関内蔵助の父は井関大学といい、井関大学が高橋勘解由と親しかったことから、井関内蔵助も隠居した三明院と親交がありました。
 また、初代新庄藩主戸沢政盛公のとき、政盛公が江戸で病気中の間に奥方の天慶院が新庄藩の行政、財政の実権をにぎり、天慶院は尼将軍といわれていました。天慶院という人は、高野山参詣(紀州・和歌山県熊野山)などもしており、熊野信仰が強い人でした。この天慶院は2代目の殿さまのまま母でもありました。このころ井関内蔵助は家老になったのですが、万治2(1658)年、殿さまのお世つぎのことで、戸沢藩にお家騒動がおきました。井関内蔵助は後の2代藩主となる正誠側につきました。お家騒動の結果、2代の藩主戸沢正誠公が政権をにぎり、反対派の家老片岡理兵衛の一族郎党は処刑され、天慶院は隠居し寛文4(1664)年世をさりました。このお家騒動で、一緒に家老をしていた片岡理兵衛一族の残酷な処刑を見た井関内蔵助が、片岡一族のようにならぬよう祈願し、三明院と相談して建立したのが矢木沢の熊野神社です。別当は大照院が代々つとめましたが、江戸後期にからは本城院がつとめました。



  天満神社(村山市湯野沢)
               湯野沢天満神社
  天満神社は学間と農業の神菅原道真公を祀っています。4月25日が祭日、昔は旧の3月25日でした。また農業に大切な雨を降らせる農業の神様ともいわれます。
 平安時代のころ、湯野沢の村落は現在の天神堂地区にあり、京都の藤原師実、藤実という貴族の荘園になっていたそうです。そのころに、天神様をお祀りしたといわれています。社伝によれば、昔、蝦夷征伐にきていた源義家の家来で源親季という人が湯野沢に軍陣をはり、富並の鬼甲城にこもる落浜入道という賊と戦っていました。その時親季が天の神に戦勝を祈ったところ、空は暗く曇り雨が降りだすと稲妻が光り、雷が天神堂に落ちました。そして親季は神力を得て戦いに勝つことができました。そこで親季は「この神は京都の北野天神様で、私たちを守ってくれたのだ。力をあたえてくれたのだ。」といって、寛治年間(1087年ごろ)に京都の北野天満神社の御分霊をお祀りしたのです。このことから天満神社を雨天神と呼ぶようになったのです。また、お祭りの日はよく雨が降るので「あま天神」と呼ばれてきたのだとか、本当は神仏混合の時代に、阿摩(あま)観音さまをお祀りしていたので「あま天神」と呼ばれたとか、いろいろな説があります。
 ところが鎌倉時代になり、熊野三郎という武士が湯野沢の領主になりました。熊野三郎は熊野神社を建立し、人々を今の湯野沢地区に移して生活させ、自分の信仰する熊野神社をお参りするように命令しました。そしていつの間にか人々は熊野神杜ばかりお参りするようになり、天神様にお参りに行く人は少くなりました。村の人たちは「村の神様をお参りしないで、熊野三郎の神様だけをお参りするのはよくない。」といって相談して、熊野神社の手前の現在の天神地区地に天神様を遷座したのです。本殿は江戸時代の寛保2年(1742年)に現在の最上町の小国東宝田村の大工さんが建てました。
 現在の本殿は大雪のため倒壊したものを昭和49年に再建したものです。再建の際には本殿の鼠、大根、龍の彫刻は寛保時代のものを使用しています。一説には天満神社が現在地に遷座したのは文禄8年3月(1571年)だともいわれています。この時の棟札が太平洋戦争前までありましたが、現在は亡失しています。


白山神社(村山市大槙)
              
 明治9(1876)年に山形県参事宛に大槙村差出した文書には2つの神社に関する記載があります。
  一 村社の儀ハ、大槙村ニ於いては白山神社壱社と相定申度奉存候、・・・
  一 十二神社 祭神 大山祇命(オオヤマツミノミコト) 当村字北原十二林と申地名へ山神社を奉祭し、十二神と地名を奉称まかりあり候処、・・・
  一 合祀の儀は当村白山神社へ当村荷渡灯明仏を相合せ候様仕度奉存候。
 同じ時期、長善寺住民はことごとく神徒に明治5年に宗旨替えしています。大槙村では同年大田中にある白山神社を北原に移しています。
(大槙村史誌 平成14年 髙橋欣二先生資料より)

 祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)。日本書紀の中で、有名ないざなぎといざなみの神の物語で、いざなぎの神が黄泉の国から逃げる途中、黄泉平坂(よもつひらさか)という所でいざなみの神と言い争ったとき、菊理媛神が助言をしたのでいざなぎの神は無事黄泉の国から脱出することができたという記述があります。くくりとは聞入る、と説く人もいます。またの名を白山媛命ともいいます。菊理媛神を祀る神社が石川県の白山比咩神社をはじめとする全国各地の白山神社です。
                
                               白山神社由緒書
 石鳥居は1755(宝暦4)年建立で貴重な建造物と言えます。神社はそれ以前に建立されたものと思われます。最上川での交流盛んな時代に荷渡神社として安全祈願所の役割を果たしたものと考えられます。(「白山神社境内 大槙の石仏」 松井照頴師 平成9年 より抜粋) 
            
                             白山神社石鳥居
 白山神社境内の石仏
 ここからは前記「白山神社境内 大槙の石仏」松井照頴師平成9年より紹介させていただきます。石仏なのでにしかたのお宮さんの項目ではないかと思いますが、白山神社境内の石仏なので白山神社の項で紹介させていただきます。原文の文章をです・ます調に変更し、少し省略したり文章をまとめさせていただいた部分があります。左記部分について誤りがあれば管理人の責任です。
 地蔵菩薩(石仏としては見つけられませんでした。お堂の中にあったのでしょうか)
 お地蔵さんが子どもと結びつくようになったのは江戸時代からです。旅行安全・疫病防止・子育て・縁結びともつながって村境や辻などに広くこの地蔵さんが祭られるようになりました。さて、お地蔵さんの本当の名まえは地蔵菩薩といい、お釈迦様がなくなられた後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの56億7000万年の間、迷える衆生を正しく導くように、お釈迦様から頼まれた仏様です。坊主頭で雨風に打たれながら、右手に錫杖、左の手の平に如意宝珠(思うままに宝や衣服、食物を出し、病苦を除くという宝の玉)をのせておられるのが普通の姿です。杖をつき魔法の玉をもつ姿は山奥でも地獄にでも出かけて、苦しみを負いながら逃れられないでいる人々を助けて、その苦しみを引受けてくださるという、大きな慈悲の心を表わしたものであるといわれています。偉大なる救済者、菩薩としての地蔵尊は私たちの身近く、野ざらしのまま、いとも気軽に立っておられる路傍の仏です。
 馬頭観音(下写真の他にもたくさんいらっしゃいました。他の石仏も同じ。)
           
 夏草が生いしげる頃になるとそのありかさえ分らなくなる馬頭観音、正しくは馬頭観世 音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)は、大きい石にまつられて坂の登り口に立っています。馬頭観音を語るには観世音菩薩の系譜をたどらなければならないが、少し長くなるので大切なことがらだけ記してみます。
 菩薩とはどういう意味をもっているのでしょうか。菩薩とは仏の前生の呼び名で、悟りを求めて自ら修行し、一切の衆生をして、悟りに安立せしめようとする修行者のことです。 観世音菩薩は苦難の現実から衆生を救おうとして、仏の位を下りてこの世へこられまし た。いかに罪深き人であってもその苦難をとり除き、その心を安楽ならしめようとなさる仏の慈悲そのものの存在です。人々のあらゆる苦しみをすくい、人々の一切の願いをかなえるために、三十三種の姿、形であらわれるといわれています。菩薩はさまざまに形を変えて人を導くとき、柔和にほめたり、人の心になってなぐさめたり、時には恐ろしい顔になって叱ったりする、ということでしょうか。この経典による説が発展して三十三所霊場となり巡礼となりました。西国三十三所霊場が最も早く、秩父、坂東、忍、最上などと増えていきました。庄内、北村山中部、置賜にもあります。
 馬頭観音は本来ビシュヌというインドのバラモン教の神で、仏教に採り入れられて馬頭明王となりました。その後、観世音菩薩が武人の乗馬を守り、武人の働きを助けるために馬頭観音として現れるという信仰が成立しました。室町時代以後になると馬を守る仏という性格が強くなり、馬が怪我をしたり病で倒れた所や馬を葬った場所に馬頭観音の名号や姿を刻んだ石碑をたてその霊をなぐさめるようになりました。馬が農耕にあるいは乗馬として便役されるようになると農民や馬商人が馬頭講を組織して、その無病息災を祈りました。
 十八夜、二十三夜(供養)塔
             
 日待ち・月待ち(まち)の起源については明確ではありません。原始から日(太陽)と月は崇拝の対象でした。江戸時代から「待」は「祭」となったとする説もあります。人々が決められた日(夜)に決めちれた場所に集まり夜もすがら忌みごもりしなどして日の出(月の出)を拝した行事でした。月への崇拝は古くから行われ祈願も行われたに違いありません。講を行う日も七夜・十三夜・十五夜・十六夜・二十夜・二十一夜・二十三夜・二十六夜と多彩です。十八夜塔は東北地方に多く、餅を供える若者の集まりです。二十三夜にも講中があり勤行・飲食をともにして月の出を待つのです。その供養の対象として石仏が建てられたのです。
 太神宮
                    
 天保年間建立のものもみられ、信仰の深さが思いやられます。
 古峯(峰) こほう こぶ神社
             
 栃木県古峰ケ原に鎮座する古峯神社が有名です。祭神は日本武尊で火防・盗難除け・海上安全・五穀豊穣の利益を授ける神として庶民の信仰を受けています。
 稲荷
                    
 稲の豊作を守護し食糧や食物を司る神として祀られる狐を対象とした民間信仰に稲荷があります。日本書紀神代巻にみられる神話やその他の説話から稲荷は「稲生」からぎたとされていますが、古くからウカノミタマノ神、トヨウケヒメノ神、ウケモチノ神、オオゲツヒメノ神、ミケツ神などと同神といわれ、その信仰は平安時代頃から全国的に行なわれています。その信仰の本源である京都府伏見の稲荷神社は泰氏の氏神ですが、稲荷信仰が一層盛んになったのは江戸時代、時の老甲田沼意次が深くこれを信仰して評判となり、武家でもこれにならって屋敷神として祀り、さらに民間でも授福開運の神として町家人が勧請するようになったといわれます。稲荷信仰には伏見の稲荷神社を中心とする屋敷神の観念による信仰とは別に、農民の狐信仰による民間信仰の稲荷がありますが、この二つに直接の関係があるかどうかは疑問です。現在でも会社の敷地や個人の敷屋内の一角に社祠が作られて祭られているのは前者であり、狐を使者とする田の神信仰として野辺に狐塚や田の神祭りの場とみられるところにある祠が後者です。この二つが結びついて現在の稲荷信仰となっているのですが、稲荷とは別に狐そのものを農耕神の使者として祀る風習が中国地方や東北地方にみられ、さらに人々に神秘的な印象を与える狐のさまざまな習性と、シャーマンによって霊界との交通を媒介する民間信仰の存在が稲荷信仰の本体を一層複雑にしています。狐の霊が人間に憑依し神語を口ばしる現象は「みさき狐」の名で現在も実在しており、古くは「専女(とうめ)」とも呼ばれたことが文献にも見られ、霊が乗り移るのは女性による場合が多いとされます。今日では東日本の多くでは同族の神として稲荷をまつり、また関東の一部の漁村では漁の神としていますが、西日本の一部では狐憑きなどといって狐の霊が特定の家筋にとりついているという迷信があります。また豊川稲荷のように仏教(曹洞宗)と習合したものもあります。
 三宝荒神
                       
 荒神ともいわれ、激しい性格の祟りやすい神として知られていますが、仏法僧を守護する神とされ、粉争をしずめるところから火の神、かまどの神とされています。本来三宝とは仏法僧を指しますがが、後世下級僧や陰陽師のたぐいが財産を持たない出家者の生活の援助をうけやすくするため、无障礙経という仏典に基き、三宝荒神に帰依するように説いてまわったことが信仰の由来とされています。しかしこの仏典は偽経(偽経とは中国において創作され、インド伝来の経典として仮託されたもの)です。中国地方以西では火の神と別に屋外に祭る荒神があり、外荒神とか一族荒神と呼んでいます。屋外の荒神は森や大木を中心に祭られ、一族の部落の神として信仰され、地神や山の神などの民間信仰と習合しています。関西では兵庫県宝塚市の清荒神(真言三宝宗、清澄寺)が有名です。
 庚申待供養塔(写真は庚申塔(左)、巳待塔(右))
               
 庚申の夜眠ってしまうと、その隙に腹から虫が抜け出して天に上りその人間の悪い所を残さず神様に告げ口する。神様の罰を受けては生涯うかびあがることができないので、虫が抜け出せないよう何としても眼を開いていなければならない、という伝承があります。道教に「人間の身体には三尸(さんし)がいる。三尸に形はないけれども、実は霊魂や鬼神と同じ類であり、人間の生命を奪うことを目的としている霊的存在である。人間が死ぬと三尸は鬼となって勝手に遊び歩いたり、祭りを受けたりすることができるので、人間が早く死ぬことを望み庚申の日毎に天へ昇っていっては人間の過失を司命の神に告げる。」という三尸説があります。この思想と日本古来の地と土の神の信仰が結びついたものと思われます。「かのえさる」は世の中・家庭の幸、不幸の分岐点と考えられ、人生の影を払う信仰でもありました。平安時代初期から宮廷や貴族の間では庚申を守ることが恒例の行事になっていたとされます。一般には江戸の中期からこの信仰が普及し地域毎「講」をつくり、講中で会食を共にしながら徹夜するレクリエーション的な様相を持つようになったように思われます。今となっては講がどのように行われていたのかを知る由もありませんが、どんな人々が集まって夜半まで酒食を共にしていのか、想像するさえ想いが広がります。境内の庚申供養塔は蓮華の台座におわす立派な石仏で当時の信仰の深さが忍ばれます。
 更に庚申の話を続けますと、三尸は小児か馬の形をしており、庚申一回目の晩に徹夜をしていれば三尸は天に昇ることは出来ない。もし連続三回庚申の日に徹夜すれば三尸は震えおののき、七回庚申の日に徹夜すれば三尸は永久に絶えて心は安定し天地とともに長生きすることが出来る・・・とされています。この晩は夫婦の交わりや肉食・五辛などは禁じられています。庚申講は作神様として、あるいは商売繁盛または健康長命の神として仏教とも結びついて日本的庚申となり全国津々浦々に広まりました。
 巳待塔(みまちとう)
 年代不詳。一番上の字は判読出来ませんが多分梵字と思われます。この塔もそちこちに建てられています。日本人の古い考えによれば、大切な神々の祭りを行うには厳しい物忌みをしなければならない、特に祭の前夜はお堂に閉じこもって精進潔斎し神仏の降臨を待たなければなりません。このような考えに道教の思想が入り、特定の日に村人が講を作って集まり日や月をまつる行事が現れたと考えられます。このような月待講の一つに二十六夜講があります。旧一月二十六夜の夕方人々が宿に集まり、ご馳走を食べて夜を過ごし明け方に外に出て東の山に登る月を拝む、という行事です。この夜の月は明けの明星と並んで山の端にかかる阿弥陀三尊の姿になるといいます。この夜は愛染明王像を掛けて拝みます。愛染明王は恋愛の神であり女人の神であります。巳待講は若衆の講であったとされています。ご神体は七福神の一つである弁財天で、音楽、弁舌、財福、智恵を司る神、白蛇の神とも狐の神、稲の神とも称されています。もともとはインドのガンジス河の女神として信仰されていました。巳の日の夜に弁財天をまつるので巳待講といいます。

管理人
 あとがきによると平成9年に白山神社が再建されており、その時に地域にあって忘れかけられていた石仏が可能な限りここに集められたようです。「白山神社境内 大槙の石仏」は、その際松井師が招かれて石仏の解説をしたときの資料のようです。日付は平成9年12月16日となっています。

  八幡神社(村山市湯野沢)
              湯野沢八幡神社
 源義家が蝦夷征伐にやってきたとき、湯野入地区の八幡森に祀ったといわれています。この八幡森にあった神様を、熊野三郎が領主となり湯野沢に人々がまとまって住むようになってから、八郎兵沢とよぱれていた現在の所に移して祀ったのだそうです。神社の扁額は藤原朝宗という人の書いたものです。
 8月15日が祭日で夜祭りでした。夜店が立ちならびにぎやかでした。夜にみんなが集まって、「びんぞろます」といって、芋汁をなべに煮て、酒をのみ歌い踊ったそうです。この祭りは八幡講の人たちが当番しました。別当は大照院で、ほら貝をふきました。
 境内では太将軍さまを祀り、その前に土俵を作って、子供達や青年団、もっと昔は若い衆組の人たちが相撲をとりました。その時の軍配がGさんの家にに今も残っています。