本文へスキップ
 


にしかたの昔語り

村の信仰
村の神様仏様



  嶽山の龍神(千坐川の白磐神)
 村山市岩野地区の西背後、千座川左岸の湯野沢・岩野両村にまたがる地域に嶽山という白く岩膚を剥き出した里山があります。別名白石山・松尾山とも呼ばれています。馬蹄形の山容はすり鉢状で、着物の襟を着合わせたように流れ落ちています。中は急峻な崖で、白い岩膚をむき出して沢に落ちているところは湯殿山の聖地に似ています。この山あいは夕日が没すところで、雲がかかると必ず雷が来る山です。山上には松尾明神・白石山神が祀られ、山頂には天狗の相撲場と呼ばれる場所があるなど聖なる山とされてきた山です。その裾野の明神原の地には、昔、白山堂と別当の雷雲院がありましたが、後に岩野村内に遷座されたといわれていますが、今はなくなり忘れさられています。嶽山北の沢には千座川一の滝があり、滝壷には三日月不動を祀り、春に両岸のブナの大木にしめ縄を掛け渡して葉山神を迎える慣わしが残っています。千座川上流の二の滝に観音、三の滝には地蔵尊が祭られています。嶽山(松尾山)下の千座川には田野に水を引く一ノ堰があり、この堰は岩野だけでなく湯野沢・大久保・樽石・長善寺の田野を潤す堰となっています。
 岩野から葉山に向かう参道脇の通称三の滝には三日月不動尊、滝の下流には荒沢観音が祀られています。さらに下流、千座川の一関付近には人が入れる程の大きさの洞穴があり、この洞穴は最上川の碁殿の川底まで続いているといわれています。葉山の大龍がこの洞穴を下り碁点から飛び上がってにしかたの地に雨をもたらすといわれています。そして、雨上がりの晴天の月夜には大龍は八人の天女に変わって最上川の川面から舞い上がり、川島山上空を旋回しながら葉山へと帰っていくのだそうです。この伝えを見ると、嶽山は岩野の里近い山で神の降臨する端山とみることができます。その山容は、白い岩膚をむき出した松山で、白・黒・茶の毛が混じった葦毛馬の神馬の腹ばう姿を連想させます。剥き出した白岩に神霊が宿る嶽山は白石山で、白石山の石は岩・磐に通じるもので、正に嶽山は東の小田島庄から見た千座川の白磐神なのです。
  白山信仰から熊野信仰へ
 岩野白山堂から峰山北の裾野にかけて白山道と呼ばれる古道があります。また白石山から白山道を東へ下ると白鳥城があり、その城下の反田地区には太白山松念寺、白山堂、雷車田があります。さらにその東の最上川川岸の船橋には反田から遷座された白山神社があります。その川向かいの河島山にも白山神社、さらに東の林崎に白山堂(居合神社)、湯沢の白山神社と続いていきます。さらには尾花沢軽井沢を越えて宮城県岩手山から雌鹿半島まで至り、北上川を逆上って平泉まで白山信仰が続いているように思われます。また、富並、大久保、西里にも白山神社があり、葉山山麓に白山信仰が広がっていたことを思わせます。この白山信仰コースというべき道のりは、葉山参詣だけでなく、大久保市の町で農産物を金・布・馬などと交換して、平泉政府に納税に向かう保司・庄司たちや商人たちが山越えした道であったと思われます。
 ところが鎌倉時代に入ると白山神信仰は衰退し、代わって熊野信仰が登場てきます。例えば平泉藤原氏滅亡後の文治2年に、寒河江の慈恩寺は寺の鎮守である白山権現を熊野権現に変えたことが寒河江市史に述べられています。
 これから紹介する松尾山明神縁起は、熊野大神を信仰する、鎌倉政権の地頭湯野沢の熊野三郎が、松尾明神すなわち奥州藤原政権の白山信仰(奥州藤原氏は、平泉中尊寺の守護神として天台宗白山神を祀り、加賀の白山信仰が篤かったと言われています。)を持つ岩野村を押領したことを伝える鎌倉初期の話であったと思われ、平安庄園時代の奥州平泉政権から鎌倉政権への移行と、にしかた地域における白山信仰から熊野信仰への転換を伝えるものと思われます。
  上野松尾山縁起と葉山三山五獄縁起
 岩野の庄屋を祖とするA家に、白鳥十郎が滅亡した翌年の天正13年3月に別当明覚院芳伝の書いた「松尾山縁起」があります。その縁起は次のように伝えています。
 「松尾大明神とは、大昔、ヤマトタケルの尊という強く偉い立派な神様が蝦夷を征伐に来た時に、乱れた世の中をなおし、蝦夷という野蛮な種族を服従させるために、自分で自分のお姿を白石山の峯の松の根元に彫刻して残されたものと言い伝えられています。
 そして、平安時代の承和13(846)年の3月3日、慈覚大師様が、逢か遠くから白石山の峯に紫雲がたなびいているのをごらんになりました。大師は霊験あらたかな神様がいらっしゃる山であると思い、この山を訪ねていらっしゃったのですが、太陽が山に隠れてしまい道に迷ってしまいました。そこで大師様は、近くの粗末な家の前にたたずんで、一夜の宿をお願いしたのです。この家の主は、お泊めしてあげようと快く承知してそのまま家に招き入れ、夜を明かして松尾明神の伝えをお話したのでした。すると、大師は松尾明神の霊験に大変感動されたので、主は東の空が白々と明けてきた頃に、師を白石山上の古跡に案内しました。
 すると、たちまち紫雲が降りてきて、千丈の大龍が現れて飛翔したのです。大師はこの不可思議な龍の出現を神さまの降臨とお考えになり、秘文のお経を唱えなさると、大龍は不動明王となって姿を現されました。大師は「松尾大明神すなわちヤマトタケルの尊の神霊は、不動明王が人々を救うために仮に神の姿になって現れた、三日月の夜に出現する、三日月不動くりから大明王という神様である。」とおっしゃられました。そこで、家の主は出家して、その場で大帥の戒律を請け、剃髪して名前を永傳と改め、慈覚大師を招いて道場を建てて、百余日間、不動大法を修行したのでした。」
 「その後、湯野沢の剛力無双の者たちが、上野の村を攻めとろうと、大勢で攻めてきました。上野の村人達は小勢なので、皆この土地を奪われてしまうだろうと思い、この上もなく悲しみました。そして皆で「松尾大明神さまお救いください。ナムキミョウチョウライ」と唱え、手を合わせ地面に頭を付けて明神さまを拝むと、晴れていた空に黒雲がみるみるうち湧き起こり、一天かき曇り大雨と大風が吹きあれ、大きな龍がいくつも飛翔してきて、湯野沢の軍勢に襲いかかり、敵たちは恐れ慄いて逃げ去りました。それからは、湯野沢の者たちが上野を二度と攻めることはなくなったので、上野の村人たちはこの上もなく喜んだのです。」
 明神さまは村人に「早く一社を建てて私をお祀りしなさい。そうすれば、天下は平穏に治まり、人々は喜び楽しむことができるようにお守りしよう。」御告げになりました。
 そこで、永傳は一社を建てて、山号を松尾山と名づけ、跡山を白石山と呼びました。
 その後、平安時代の仁寿2年(852年)に、荒沢千手観音の霊験御利益が現れ、お恵みを戴いて、この地に観音さまの尊像をおうつししてお祭り申し上げ、永傳の建てた一社を観音寺と呼んだのです。
 この神の威光はますます霊験あらたかで、信仰者が多く、忙しくて暇がないのです。」
                               出羽国村山郡楯岡里上野邑
                                    松尾大明神別當
  天正13乙酉年3月吉日
                                           明覚院芳傳敬白(黒印)
 この天正13年の縁起を書いた松尾山明神の別当明覚院芳伝の祖は明覚院永伝とされています。江戸時代の文化3(1807)年に松尾明神別当雷雲院が別当相続の件で相手方の一乗院を江戸寺社奉行に訴えたことがあることなどから、明覚院は代々松尾山雷雲院の別当を勤めていたことが分かります。この松尾大明神の勧請話は次の葉山三山五嶽縁起にある行玄の入峯の様子と似かよったものが見られます。
 縁起の松尾山の戦いは、隣村との些細な争いですが、小村の岩野を押領するということは、地頭熊野三郎の領土湯野沢以下の村々の田野を潤す水を確保することであり、大きな意味を持っています。

  夜なきどめ地蔵橋
                夜泣き止め地蔵橋 
 昔のお母さんは、赤ちゃんが夜泣きして泣きやめさせることができないと、お姑さんや隣り近所から叱られたりして大変困ったそうです。
 下小路地区の沢から久保の田村商店前にぬける道の沢に、最近(昭和57年当時)まで2本の丸太木で橋がかけられていました。この2本の橋に、夜になると、旧農協富本支所の近くにある地蔵さまがやってくるそうです。それで地蔵橋とで言っております。

                       
 この橋の丸太を削りとり、煎じて夜泣きする子供に飲ませると夜泣きをしなくなるそうです。それで夜なきどめ地蔵橋というのだそうです。また橋を削る前につぎのように祈りを3回となえたそうです。
 葦原や 河原の前の夜地蔵 昼は泣いても夜泣かすなや

  桂木の不動尊
 太平洋戦争終戦の頃まで、冨本小学校グランド横の通称ねんど山頂上に不動尊がありました。不動尊とは不動明王という仏様で、大日如来が悪魔を降伏するために剣を持ち、怒っている姿です。不動尊の近くには桂の大木がありました。湯野沢では古い不動尊で、Aさんの先祖が江戸時代に北遅の沢地区のカツラ滝に祀られていたのを移して祀ったのだそうです。戦後に学校裏のスキー場の南側の所に移し祀ってあります。
 縁日は6月28日の夜祭りで、護摩をたいて魔物退散の祈祷したのだそうです。夜店も立ちにぎやかだったそうです。
 この不動尊は、子供たちが夜遊びや悪いことをしたりすると、自い着物をきた6尺あまりの天狗のような姿で追いかけてきて、悪いことをした子供たちをつかまえていくそうです。実際、不動尊の境内近くへ柴栗をとりに行った時、このお不動さまに追っかけられてつかまりそうになった人がいるそうです。

  富並森の馬頭観音
                     北部三十三観音第十四番札所 森馬頭観音
                                富並森の馬頭観音
                    御詠歌  深山路や 桧原松原 我ゆけば 森の里にも 駒ぞいさめる
 富並の森地区には氏神として馬頭観音がまつられています。深沢の鬼甲城主の姫の愛馬を祀っています。昔、富並村は駒居村ともいい良馬の産地でした。当時この馬頭観音の境内で馬市が開かれていました。また富並の西町では市が開かれ、肘折、松橋、次年子方面からの買物客で賑わっていたといわれています。嘉永4年10月の富並の庄屋が作成した馬市の調書によれば、5月と7月の10日から15日の間に開催され、近郷はもとより秋田・南部・仙台・米沢・会津・越後・伊達・関東・上州の馬喰達の売人や買人で賑わっていた、と記されています。富並村は昔、駒居村とよばれていました。
  村内の神まいり
 湯野沢では旧2月16日に神参り行事があります。むかしは神社に観音さまを祭り、御詠歌をあげて一年の無事を祈ったのです。
 熊野山、水神、不動尊、仁王堂、八幡様、月山、お伊勢様、天神様、観音様、春日様、地蔵様、矢木沢熊野堂、湯殿山、金神さま、琴平さま、みろく院、薬師さま、稲荷さまと湯野沢ではまわっています。しかし回る順番や回る場所が全部で何ケ所あったかはわからなくなっています。
 ご詠歌もわずかにしかわからなくなっています。

熊野神社
 み熊野の 神の恵みの露深く 苔のたもとに かかるうれしさ 南無熊野大明神(3回)
 熊野路や 雲も新たな観世音 導き給え のりのいでかな 南無熊野観世音(3回)

                            春日神社(かすがさま)
                春日神社(かすがさま)
                千早ふる 玉すしだれを 巻き上げて 念仏の声 聞くぞうれしき 南無春日大明神(3回)

                                  天満神社
                おてんじんさま(天満神社)
                ふか緑 変わらぬ色に 幾歳か たのむの杜の 松のことのは 南無天神観世音(3回)
              われたのむ 人はむなしく なすなれば あまが下にして 名おや流さん 南無天神観世音(3回)

地蔵さま(久保)
 暗きよに 暗き道にまよいなく 導きたまへ 地蔵大菩薩 ナムダイシジゾウソン(3回)
 ひとりきて ひとりでかえる 死出のたび はなのじょうどへ かえるうれしさ ナムダイシジゾウソン(3回)
 もろともに もらさですくう 地蔵尊 さいのかわらで すくうおさなご ナムダイシジゾウソン(3回)

こぶ原虚空蔵さま
 山坂を いとわずまいる 人々に よろずの宝を さずけたまふ ナムダイシコクゾウソン(3回)

桂木滝不動尊
 みな人は 参る心は いそがだき いかなるがんを すくいなりけり ナムカツラギフドウソン(3回)

                                 稲荷神社
                
              ももやその くにをのこらず 食い物を くばりあたえる うけもちの神 南無稲荷大明神(3回)
  講中塔と参詣講
 昔、村内には「講」という神様や仏様を崇敬するグループがありました。
 講に属する人たちは、一定の日に寺や神社に集まって神仏の教えを坊さんや神主さんから聞いたあと、ごちそうを作って歌ったり踊ったりして楽しみました。また、お金を出し合って神社や寺に寄付をしたり道具などを奉納したりしていました。また旅費をつみ立てて、毎年代表の人が信仰する神仏の社寺に参詣をしたりしていました。お金がなくて遠くまでお参りに行けない人や、お参りにいけない年には、お寺や神社の境内に石塔を建てて、お参りに行った人たちが無事で帰ってくるように祈ったりしたのです。
 講に属する人の集まる場所は寺や神社だけではなく、当番をきめて、順番に開く家をきめて集まりました。
 この講は現在(昭和57年当時)でも大師講地蔵講など形だけが残っています。また、神まいりや最上三十三観音のお札打ち講の旅行を目的とした講でもありました。
   観音様まいり
 観音さまのお札うちは、昔は遠く四国、秩父までいっていたようです。最上三十三蟹音参りもありました。
 しかし、毎年の巡礼はお金もかかるし、体も丈夫でないとむりです。このため村の中に三十三観音をまつってお参りするようになりました。
 湯野沢では観音堂を建てましたが今は御堂だけが残っています。また長松院境内に土蔵を建て西国三十三観音像を安置していましたが、現在は本堂に安置しております。
 岩野では三十三観音の石仏をお観音山に建てておまいりしております。

  庚申塔
 干支(かのえさる)の夜に眠ると、人の体についている三尸という虫が体からぬけだして、その人の悪いところを天帝に教え、天帝はその人の命を短かくしたり奪ったりするので、人々は夜明しして酒を飲んだり祈願をしたりして徹夜する習慣がありました。祈願するときは仏教では鶏を祭り、神道では猿田彦を祭りました。
  月待ち講と日待ち講
 月の13日、18日、23日に、月の出を待って月に供えものをして飲食する行事があり、これを月待ちといいました。夜半月の出を待って月を拝むと月光に阿弥陀仏・観世音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊が現れ、人々の願いを聞いてくれるといわれています。日待ち講はお日待ちさまといって、前の夜から身を清め、寝ないで日の出を待ってご来光を拝む行事で、1月、5月、9月の吉日に行います。農村では田植や稲刈の終ったとき、さなぶりや刈り上げの時におこないました。月待ち講は夜篭もり行事で徹夜で行われますから早朝には日の出を拝むことにもなり、日待ち講にもなります。このためか日待ちの供養塔は数が多くありません。月待ち行事は、衰えた太陽や生命のよみがえりの信仰です。
  湯殿山講の石碑
 湯殿山まいりは出羽三山(羽黒・月山・湯殿山)まいりの中心で、特に男子15才の初詣は最も大切で、昔の成人式にあたるものでした。男子15才の参拝する日は家族一同が礼装して、村内の神社に一人前の男に無事なれるようお参りに行きました。
 参詣人は行者と呼ばれ、出発する一週間前から毎朝水ごりをとり、精進料理を食べ、燈明を1本1本みんながともし、神さまをたくさんお参りをして身を清めてから、白衣、わらじをつけて出発しました。
 出発の日は朝早く村の神社をお参りしてから出発しました。初日は本導寺(白岩)まで歩き1泊し、翌日湯殿山参りをして本導寺にもう1泊して帰るという2泊3日の旅が普通でした。
 三山参りは普通湯殿山参りだけでしたが、羽黒山、月山まで行くこともありました。
  矢木沢の湯殿山碑建立ばなし
 Iさんのご先祖に、農業をきらい酒田の松嶺(旧松山町)にある総光寺に入りお坊さんの修業をした人がいました。後に新庄に来て戸沢藩主の菩提寺である会林寺のお坊さんとなっていました。
 そのころ、湯の入り道の山神の前の川原から大石が発見され、神の宿る石だと話題になっていました。当時湯野沢では湯殿山参りの講が盛んでしたので、矢木沢の湯殿山講の人々は、この大石で湯殿山の碑を建てようと考えました。この噂は会林寺のお坊さんにも伝わりました。
 ちょうどそのころ、新庄の殿さまの元を亀田鵬斎という書道家が訪れていました。これを知った会林寺のお坊さんは、新庄の殿さまに願いあげ、新庄の御殿の中で亀田鵬斎に湯殿山碑の字を染筆してもらいました。そして、湯殿山講に入っていたMさんの分家の人が自分からすすんで石に文字を刻んだそうです。Mさんの分家の人は石工で、大石の話を聞いた時から、何か字を自分の手で刻んでみたいと思っていたのだそうです。庄屋さんが施主になり建立しました。
 亀田鵬斎はこのほか楯岡の切り通しの湯殿山碑も染筆しています。
                       矢木沢の湯殿山碑
                              台座名

施主 海老名権左衛門
         権吉
         七五郎
         清八
場浄中     三四
  文政三庚午八月吉日

  忠魂碑
                
                                湯野沢の忠魂碑
 忠魂碑とは国のために勇敢に戦い戦病死した人の魂をおまつりした碑です。別に招魂碑・招魂社とも呼んでいます。
 忠魂碑のはじめは、明治の戊辰戦役でなくなった人を慰霊するために各地に創建した招魂社です。山形県では薩摩藩士16名の人々をまつるために山形県招魂杜を建立しました。この社が昭和14年に山形護国神社となったのです。
 さらに、日清・日露戦争中には各村々に地元出身の戦没者を慰霊する忠魂碑や招魂碑が建立されました。
   忠魂碑建立のこと
 湯野沢の忠魂碑の建立は明治41年1月に村長海老名千歳・在郷軍人会長大沼潔・杉原惣肋らが忠魂碑建立を発案し、有志から寄付金を募金して建立されました。当時の村人は戦争に行くときや戦争から帰ったときには必ず天満神杜に参拝したので、天満神社の境内に建立されました。このころは日露戦争の勝利に人々は心酔していました。明治27年から38年まで日清・日露戦争に出征した湯野沢出身の人は45名で、戦死者は5名の方々です。
 寄付金総額は151円50銭でした。
 碑の寸法は縦5尺、横2尺の山寺石です。台座石は岩野石で大ゾリで運搬しました。
 その後、昭和54年9月に地元遺族会の人々が第二次大戦・戦没者の英霊の姓名を銅板に彫刻し、碑の裏にとりつけました。
  湯野沢の慰霊祭
 忠魂碑祭(慰霊祭)は、忠魂碑の建立時に村長が主催し、在郷軍人・遺族らが後援し若衆組(青年団)・学校教員生徒・武徳会・村役人、賛同者・工事関係者・愛国婦人会なとの人が参列、英霊鎮座祭を行ったのが最初です。その日は9月1日の天満神社風祭の日でした。
 その後、例祭日を9月1日と決めて今日まで毎年忠魂碑祭を行ってきています。終戦までは村長・在郷軍人会・青友会の主催でお祀りしてきましたが、戦後は青友会・在郷軍人会・心友会が中心となり、村や市の福祉課の遺族後援会などの後援でお祀リしてきました。現在は心友会、遺族会が中心になりお祀りしております。
 戦中は小学校高等科生、青年団、戦後は、小・中学校の生徒・葉山剣道振興会の小・中・高校の生徒有志による奉納剣道大会を行っていましたが、55年度から中止されています。
  岩野の萬歳石
                
                                 岩野の萬歳石
 湯野沢地区から進んで岩野地区の旧道入り口に萬歳石があります。戦後生まれの私が解説するよりは石碑の説明文をそのまま紹介した方がよろしいかと思いますので紹介します。なお「萬歳石」の揮毫は当時の佐藤栄作首相です。
 萬歳石由来(原文縦書き漢数字使用、句読点はなし)
 われわれは体験した。戦争は不幸を生み、平和は繁栄をもたらすことを。
 この石は現在地の東方約100mの路傍にあった。出征者はこの石の上に立って、送ってきたむら人のばんざいの声に応え、最後の挨拶をするのを例とした。これが萬歳石の由来である。
 太平洋戦争中には岩野183戸の中から123名の出征者があったが、戰沒者は24名に達した。
 これら戰沒者の霊を弔らうため帰還者一同で奉友会を結成し、年々慰霊祭をおこなってきたが、これら戰沒者と我々の平和への誓を後世に伝えるため、終戦記念日を期し賛同者多数の浄財により、その象徴として萬歳石を永久に保存する。
                                                   昭和46年8月15日 奉友会建立
(参考)冨本青年団歌
1、葉山のふもと 緑濃(こ)く 田の面(もう)豊に 日を受けて 黄金波打(う)つ 里はこそ これぞ我が里 冨本村  
2、見よ輝かし 自然の美 思ひ日に増す 村の栄(えい) あゝ若人よ もろ共に 我等が村を たゝえなん  
3、天神山の さくら花 大和(やまと)心の しるしなり 我等が国の 花なるぞ 起(た)てよ 冨本の健(けん)男子