にしかたの昔語り
熊野神社にまつわる話
熊野神社(湯野沢)
にしかたのお宮にはそれぞれ由緒がありますが、湯野沢と湯野沢の熊野神社には多くの伝説が伝えられており、別項を設けて紹介したいと思います。
熊野神社の霊験
熊野神杜は須佐之男(スサノオ)命を主体として,伊邪那岐(イザナギ),伊邪那美(イザナミ)の両神を合杷しています。クマ野とは暗く茂った野に鎮まった神の意味です。
ふつう,オクマン様と呼ばれています。山の奥まった所の意味です。山上には,南奥の院,中奥の院,北奥の院と三山からなっており,南には愛宕神,中には熊野神,北には熊野三郎のつぽ松があり,戦前まではそれぞれ祠堂がありました。境内山中には湯殿山,月山,稲荷,春日さま,鹿島明神,水神さまのお堂があります。本殿には,八幡神,天満神,稲荷神,春日神の四神が合祀されています。平安時代後期に紀伊の人三郎という人が,紀州の熊野から分祀したといわれています。
江戸時代には新庄の殿様の祈願神社でした。慶安2年,寛文5年,亨保19年などの藩主参拝の伝えがあります。明治の初期までは,横山,富並,田沢,戸沢,岩野,大久保,北谷地,谷地町のうち北口,工藤小路と,本村の総鎮守でした。特に防火の霊験のあらたかな神とされてきました。
神号額は有栖川熾仁公の書いたものです。江戸時代までは神仏として,薬師,大日如来,観音像を安置してありましたが,山そのものがご神体です。
熊野神の禁忌
湯野沢では最近まで,菅蓑を着ること,修験草履をはくこと,土蔵を建てること,馬を飼うことは,熊野神の祟りがあると信じられてきました。また,熊野山中の杉の葉や,樹木を切ったりしても祟りがあるといっています。
なぜかというと,何時のことか,何代目のことなのかはわかりませんが,湯野沢の領主の熊野三郎が殺された時,管笠,管蓑を着せられ,修験草履をはかせられて,土中に逆さまにして埋められたからだといわれています。
また,このために熊野山に行って寝ると必ず,目ざめた時には逆枕・北枕・逆さまになっているといわれています。
湯野沢熊野神社の禁忌(してはいけないこと)に、菅蓑、ボッコ草履を使用すること。土蔵土壁を用いないこと。葦毛馬を飼うことを禁じています。その理由は、何代の熊野三郎かは伝えていませんが、熊野三郎は、裸身に菅蓑を着け、菅笠をかぶり、ボッコ草履をはき、頭から逆さまにして土中に埋められたからだと伝えています。だから熊野神社で眠って目を覚ますと必ず北枕になっていると伝えられています。また、土塀・土蔵は建てず板塀・板蔵を立てるのだといわれています。土蔵を建てると崇りが強く、急死するという迷信は今でも信じられています。しかし、何時、何処で、どんな事件があり、誰に埋められたのか、埋葬場所も、位碑も伝わっていません。熊野三郎の崇りを恐れて隠滅したのだと伝えられています。明徳2年に再建したということは、当時南北朝時代に何らかの戦いがあって神社の建物が失われた可能性があります。ひょっとするとこの時の熊野三郎が上記の言い伝えの時の熊野三郎なのかもしれません。しかし、その遺跡遺物や遺骨・合戦の伝えは伝わっていません。
享保19年、谷地高谷長四郎が、大原開田のため、塔の沢溜池を構築する際、湯野沢や隣村の領民は、熊野神の崇りを恐れて、構築に猛反対しました。藩主正誠公が自ら参拝し、神位を授け、構築しましたが、数年後溜池は破れ、湯野沢の田を流したことがありました。溜池構築の際の祝詞と神階証は今でも残っています。
新庄戸沢藩主と熊野神社
新庄戸沢藩の初代の藩主戸沢上総介政盛公は,常州(茨城県)の松岡4万石から,亀ケ崎城(酒田)に移る予定でした。ところが,その辞令を渡される日を忘れて,箱根の塔の沢温泉に無断で湯治に行っていたため,徳川家康の怒りにふれ,加増が半分にへらされ,最上郡新庄の藩主となったのだそうです。当初,新庄の城は安全でなかったので,真室川の鮭延城にはいりました。鮭延城に入った夜,寝ている初代藩主政盛公の枕もとに,熊野神が枕神となって立ち,政盛公を呼びおこしました。政盛公が目をさますと,白装東の神様が,「われは熊野大神である。聞け,最上家の残党どもがお前を殺そうとして,小国の殿と相談して,明朝,鮭延城を攻めようと準備している。今すぐにお前の方から先手をうって,小国城を攻め滅ぼすがよい。」と告げて消えました。
そこで,政盛公はその夜のうちに小国の城を攻めたので,小国の残党たちは滅び,小国8干石は戸沢藩の領地になりました。政盛公は,熊野神のおかげで命拾いをし,領地も増えたので,熊野神社を戸沢藩の祈願神社として朱印状を与え,米5石を奉納したといわれています。
その後戸沢上総介政盛公は,寛永2年(1625年)新庄に城を築きました。湯野沢村,岩野村も戸沢藩の村山郡谷地郷の領地となりました。戸沢藩は谷地の北口に代官所をおき,谷地郷の検地を行うことになりました。
政盛公は家来をつれて,谷地の代官所を出発,大久保村の検地を終えて湯野沢に向かいました。その日は湯野沢から代官所に貸した馬に乗って来たそうです。道中,大久保の大原橋まで来た時,橋の上で馬が突然転倒したので,政盛公は落馬しました。
あまりに突然の出来事だったので政盛公は不思議に思い,起きあがって西のほうを見ると,こんもりとおい茂った山がみえました。それを見た政盛公は,「馬が転倒したのは,西の方に神さまがいるためだ。」といって,干座川をさかのぼってくると,そこには杉の大木の中に熊野神社がしんかんと祀られていました。熊野神社から東の方を見ると,大原橋が正面に面していました。政盛公は「鮭延城に入った時,身の危険を枕神に立って守ってくれた神さまだ。霊験あらたかな神さまだ。戸沢家の守り神さまだと言って,熊野神社を戸沢家の代々の祈願神社としたといわれています。
熊野山の3つの宝物
昔,伊勢参りがさかんだったころ,湯野沢の村人が伊勢参りをしました。その伊勢参りの宿で,他村の人々と湯野沢村の人たちは,村の名所を自漫しあいました。 湯野沢の人は,「私の村には3つの宝がある。1つは腐らずの橋,2つは弁慶の踏み跡だ。そして3つめは,三川の一橋(みかわのひとばし)だ。とくに,腐らずの橋は五十鈴川の橋より立派な橋で,宝の橋だ。」と自慢しました。
伊勢参りから帰ると,他村の人は湯野沢の人について来て,湯野沢の宝の橋を見学に行きました。湯野沢の人は他村の人を案内して,腐らずの宝の橋を紹介しました。
熊野神社のお池の前につれていって,「五十鈴川の橋は20年に1回かけかえて新しくするが,この橋は石橋で永久に腐らない宝の橋だといいました。その橋はあまりに小さい橋だったので,見学に来た他村の人は,「どれやあー?」といって大きく口を開きました。その大きな声で地面に穴があきました。その穴が永久にうまらなくなりました。その跡を弁慶の踏み跡といっています。
また,岩木村と湯野沢の境を流れる法師川にかげられたガンジャ橋のところにつれて行き,この橋はむかし,義経の家来の弁慶が,大石を肩にかついできて法師川が三筋になって流れている所に一つに渡した橋だ。それで三川の一橋というのだといって案内しました。
三川の一橋も,腐らずの橋も,日照りの時にはこの橋の上に立って,川のどろ水をくみあげたり,棒でかましたり,石を投げたりすると雨が降るといわれています。ありがたい宝の橋だと説明して,紹介したそうです。
熊野山一の鳥居
一の鳥居
江戸時代,湯野沢では寛政の火事をふくめて3回の火事があったといわれていますが,火事がおきる度に熊野神社の垂木が1本ずつ黒く焦げて大火にならなかったのだそうです。熊野神社の神は,防火の霊験あらたかな神様です。
寛政2年(1790年)の秋,村に火事がおきました。火の手は収穫した五穀や米を納めたばかりの郷倉に燃えうつりました。村人たちはわれを忘れて消火にあたりましたが,風は強く,杉の大木に囲まれた郷倉は板倉で,火は燃え広がるばかりでした。村人たちはただ呆然とするだけでした。村内は大火になろうとしていました。
ちょうどその時,周囲の杉林の間から夜霧がわき出てきました。夜空から雨雲が流れてきて雨を降らしました。霧雨は火を包んだので,火の勢いは急におとろえを見せました。これを見た村人は元気づいて,完全に消火することができました。結局倉は表面を焦がしただけのボヤで終り,蔵に納めた米は一粒も焼けませんでした。
村人たちは,霧や雨雲が熊野山の空から流れて来たので,「これは,きっとおくまんさまが守ってくれたのに違いない。」といって,急いで熊野神社行ってみると,案の定,社殿から煙がでているのが見えました。さらに一目散に走って社殿に飛びこんでみると,社殿の北側の垂木が1本新しくこげていました。村人たちは,「やっばり,おくまんさまが村民の身がわりとなって,大火をふせいでくれたのだ。」と思ったそうです。
この事を感謝して,村役人の秋場茂エ門という人が米15俵と小豆3斗を奉納して,熊野神社にお礼をしたのが通称一の鳥居です。鳥居を建立した時,村人は奉納米で餅をついてお礼参りをしたそうです。
熊野山一の鳥居は,宝地区石井商店の前の,天神地区に上る道の入口に建てられていました。天神地区から葬式がでると,葬式の行列や,死者の枢は必ず鳥居をよけて,鳥居のわきを通り,忌みきらって鳥居をくぐりませんでした。
昭和の30年頃まではそこにありましたが,自動車の往来が激しくなり,道が狭くなるというので,院内溜池の所に移転しました。その後平成8年院内ため池の改修工事に伴い現在地に移転しました。
鳥居の銘
寛政9丁己年9月吉日
山形肴町石工鏡門兵衛
谷地布宮と熊野山の神馬
新庄の二代目の殿さまである香雲寺さまが家督を継がれた時,武運を祈願され家臣に代拝を命じて熊野神社に戸帳を奉納されました。その時まで,神社には谷地布宮という祠があって村の人たちは魔所といっていました。そこは,神霊を納めたところで,祟りがあると恐れられていました。近づいた人々は必ず死んだり,病気になったり,頭が狂ったりしたそうです。
香雲寺さまはこの話を聞いて,「この祠を土中に埋めなさい。」と命令して埋めてしまいました。この祠は熊野三郎を祀ったものだとも伝えています。
ところで,境内の南側に駒太屋敷がありました。そこに住んでいた熊野山の神馬2頭が,宮下の湯野沢の地区に来て暴れ回り,土蔵や家の土壁をみると壊してまわりました。また,農作物の植えてある田畑にでては,めちゃめちゃに荒しまわったそうです。
それからというものは,土壁をぬったり,土蔵を造ったりすることを湯野沢ではしなくなったそうです。
また,馬を飼うことをしなくなり,牛だけを飼うようになったそうです。
熊野山の神馬と天満神社の土俵
熊野神社の神馬は,熊野三郎の馬で2頭ともあばれ馬で力の強い名馬でした。絵馬は、駒沢屋敷で飼われていた二頭の神馬が畑に出て、麦を食う姿を描いたものです。この馬の勇姿を,狩野芳元という絵師が絵馬に描いて熊野神社に奉納しました。あまりの名画なので、実物の馬が死んでもこの絵馬の中の馬が時々飛び出て村の田畑に出て農作物を荒し食いまわったそうです。そこで,村人たちは相談して,絵馬から馬が飛び出さないようにと,絵馬の足の部分を切りとってしまいました。
そのころ,谷地八幡のどんが祭りの時に各村の若者があつまって毎年奉納相撲をしていました。湯野沢村は高砂衆という団体名で参加,岩野村は熊の森という団体名で参加していました。相撲に勝つと豊作になるという占いの意味がありましたので,村をあげて応援したのです。
そこで,この神馬の力足にあやかろうと,絵馬から切りとった足の部分を,天満神社の境内の土俵下にうめたそうです。そして,風祭りの日に,どんが祭りの相撲大会の練習をかねて,奉納相撲をするようになったそうです。これが風祭りの時の恒例になったのだそうです。
この荒馬神馬にあやかったために,どんが祭りではたびたび優勝したため,湯野沢相撲は有名だったそうです。特に寛政年間(1790年代)に,当時湯野沢で一番カ持の家柄といわれた家の人は特に強かった。荒馬にあやかって,荒瀬川と名のり江戸相撲に出て勝ちました。江戸からの帰り道,長瀞野田の松林のところで,待ぶせをかけられ百人講の人たちに殺されたそうです。あまり強かったので,恨まれたのだそうです。
絵馬は,駒沢屋敷の熊野三郎の2頭の神馬が畑に出て,麦を食う姿と伝えています。
絵馬には奉納・慶長4年5月・右京の介と書かれています。 慶長4年は、関が原の戦い(1600年)の前の年です。関ヶ原の戦いの時,西軍の上杉景勝は米沢の直江兼続に、家康方の最上義光を攻撃させました。この時,直江兼続方の庄内の志田義秀の軍勢3000は、六十里越街道と最上川沿い街道の二道に分かれて最上領の寒河江・谷地を襲った。当時湯野沢は白鳥氏の滅亡後最上領となっていましたので,この時も戦乱に巻き込まれたのでしょう。戦いを前に武運長久を祈願奉納したのが、この絵馬であったのではないでしょうかる。右京の介は,溝延の狩野派の大江家の絵師,江目右京進繁貞のことであると伝えています。 江目右京進の絵馬は,慈恩寺や若松観音堂に奉納されています。
飛びつき杉
昔,熊野神社の境内に,元回り10尺もある飛びつき杉という老杉がありました。熊野三郎が幼いころ,弘法寺の僧侶からお経や漢文を習いながら,この老杉で山伏たちと剣術の稽古をしたのだそうです。それで,飛びつき杉といっています。その秘剣の免許までだしていたそうです。免許の巻物を白鳥村の人がもっていたといわれています。