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にしかたの昔語り

白龍の伝説

 一杯清水の由来
 以下の話にでてくる引龍提は、現在の河北町の引龍提よりもさら法師川上流に入った一杯清水の向い山の引龍にある古い提のことです。一杯清水は弘法大師が錫杖で大地をついて、水を湧き出させた清水であるといわれています。弘法大師は水の霊である竜神を錫杖で目覚めさせて、水を湧せたのだそうです。このためか、ここから葉山に入山する時には、必ずお碗一杯の水を汲んで飲んでいったことから一杯すず(清水)の名になったといわれています。近くには蛇穴という地名もあります。
 引龍というのは水を引く龍のことで、引竜の山中には葉山三山の立石山から竜神が飛来する聖地とされています。 引龍提の山中は今でも白蛇が多く、この白蛇は引竜の池に棲む竜神の化身とされ、殺すと祟りがあるといわれています。
                
                                一杯清水
 昔、引龍付近を流れる法師川上流に白蛇が出て、祟りがあると村の人たちは噂しあっていました。ある日、一杯清水で農夫が昼休みをしていると、白蛇が2匹、木の枝から枝へと、引龍に帰っていくのを見たそうです。恐しがっているところに、葉山に行く山伏が通りかかったので、白蛇のことを話すと、山伏は「白蛇め、また遊びまわり悪戯しはじめたか。よし、俺がおとなしくさせてあげよう。しかし、引龍の池をかえらないとだめだ。人夫をたくさん連れてきてほしい。」と言ったので、農夫は村に帰って30人ほどの人夫を連れてきました。当時の引龍の池は提ではなく山中の小さな池でした。農夫たちが池に行くと、山伏は池の水を全部汲み出すようにいいました。はじめ、農夫たちは祟りを恐れて、1人も水を汲もうとするものはありませんでした。しかし、山伏が池の前にすわり、お経と呪文をとなえはじめると、農夫たちは1人、2人と池の水をかえはじめました。かけ声を合わせ全員の農夫が水を汲みはじめると、池の水が少くなくなるのが見えました。
 ちょうどその時、空が急に曇り、大雨が降り出し、雷が光り鳴り出してきました。農夫たちは「白蛇の祟りだあ!」といって、気を失ってしまったり逃げ出したりしました。すると、山伏は峯にかかった雲の方をにらみつけ、「ウンケンソカワ、アヒランケン」とか意味のわからぬ呪文をとなえ、数珠を手に握りしめては振り握りしめてはふって、何回か雲にむかって話をしました。「よし、わかった、池をかえるのはやめさせる。」と言うと、雨や雷はやんで、うそのように空は晴れ上がったということです。それからは、白蛇は悪いことをされないかぎり、おどしたり、祟ったりしなくなり、やがて村人からは忘れさられたということです。
 この池に住んでいたのは龍で、山伏はこの池の主の龍と話をしたのだそうです。この池の龍は雨を降らせる龍で、この水の霊ともいえる竜神を自由に操れるのが山伏(修験僧)でありました。実はこの山伏は不動尊の権現さまで、白蛇は竜神の使いだったのだそうです。この龍をここで山伏が引きよせたので、引き龍という地名になったのだそうです。
類似の話 引竜の白蛇



  龍ロ山夜話
               
                 某神社本殿の竜の彫刻(これもにしかた郷の神社ではありません。あしからず。)

 河北町定林寺の高僧が大正7年に書かれた定林寺小史という書物にある話です。まずは原文を紹介します。かな漢字は現在の字体にしてあります。

 元定林寺境内沢畑杉山というところに、龍ノロとて巌窟より水湧き出つるところあり、古へは大木数多生ひ繁りて、絶えて近付く者もなかりし程、寂しき場所なりしとか、今も猶俚人の耳に残る一場の物語あり。
 そは当寺御開山瑚海理元禅師の此寺を開かせ給ひける折のことなりとか、或夜何処より迷い来りけん、世にも稀なる佳人現われて、禅師の経机の前に侍り、禅師に申さく
『我が姿を描き仏になして給はれかし』と、禅師の仰せらるるは、『人間はおしなべて本心に立ち遷りてこそ仏なれ、そもじには未だ仮相あり、なお仏といふべからず、正体を現わしてこそ、吾も之を描き仏となさん』と、懇ろに諭しければ、件の女いと恥入りたる面持なりしが、忽にして一疋の龍と化し、禅師の前に現われ、雲を起こし蟠るさま、描き給われという風情に見えければ、禅師は『優しき汝が心根かな』と、厳かに筆を執り正しく其体を描き終り、龍には別に仏祖正伝菩薩大戒の血脉を与えけるに、件の龍は再三禅師に謝して、『今は世間に思ひ残すこともなし』とて、杉山の麓なる岩谷に身を隠くされぬ、是れ言うところの龍ノ口にして、それより常に水流れ出で、如何なる炎天にも涸れたることなしとか、定林寺の山号、是より起りたるものなりという。
 其御開山御揮毫の龍の絵巻物、軸仕立となし、二間に九尺ばかりありしが、此慶応の火災まで伝わりたり、此一軸雨なき年、杉山の元の山門の片ほとりなる大杉に懸けて、雨を請えば必ず降り来るとて、古えより旱歳には供養せらるる習いなりしとて、不審なるは三日も措かずに、屹度雨降り来る験にこそあれ。
 貞容御老母の国言葉に
 降りしきる雨や仏の我為に注がせ給う涙ならずや

続いて父の意訳です。
 河北町沢畑地区の杉山というところに、龍の口といって、岩窟から水が湧き出ている所があります。この場所には昔、というお寺があった場所です。境内であったところには杉の大木が沢山生い茂っていて、誰も人が近づく人もいない程、寂しい場所であったと伝えています。
 昔、瑚海理元という禅師が、まだこの寺をお開きになられたばかりの頃のある夜のこと、何処から迷い来たのであろうか、世にも希な美しい女が現れて、写経をしている禅師の経机の前に座って禅師に言うには
「私の姿を描いて、仏にして下さい。」すると禅師のおっしゃられるには「人間はだいたい一般に本心に立ち帰り本当の姿を現してこそ、仏というもの。そなたにはまだ化身の姿が見られる。やはり仏というにはほど遠い。正体を現して初めて、私もそなたを描いて、仏とすることができよう。」と、親しくよく分かるように言い聞かせなさったので、例の美女は、大変恥ずかしい表情をしていましたが、突然一匹の龍に姿を変えて、禅師の前に現われ、雲を起こし飛翔する様子は、「これが私の正体です。描いて下さい。」といっている様子に見えましたので、禅師は、「そなたは、気立てのやさしい心の持ち主よ。」といって、厳かに筆を執って正しくその龍の姿を描き終わり、龍には別に「仏祖正仁伝菩薩大戒」の血脉を与えましたところ、例の龍は何度も何度も禅師にお礼を言ってから、「今はもうこの世に思い残すことは何もありません。」といって、杉山の麓にある岩谷に身を隠してしまいました。ここが龍口で、その口からは常に水が流れ出て、どんな炎天旱魃の時にも枯れたことがないと伝えられています。
 この時瑚海理元禅師がご揮毫された龍の絵巻物は、長さ2間に幅9尺ぐらいの大きな掛け軸に仕立てられて、慶応年間に定林寺が火災にあうまで伝わっていたといわれています。この掛け軸を杉山の元の山門のほとりにある大杉に懸けて雨乞いをすると、不思議なことに3日もたたない内に必ず雨が降ってきたと伝えられています。
 降りしきる 雨や仏の 我がために 注がせ給ふ 涙ならずや


  碁点の龍神
 村山市河島山白山神社境内に白山池があります。干魃の時に雨乞いを修して、池をかきまわすと三日以内に二匹の竜が昇天して、降雨をもたらすといいます。この竜は雌雄の二匹で最上川の碁点に棲んでいて、水煙をあげて天と川の間を往来している竜神だといわれています。
                     
                               白山神社
 また月夜の晩には、碁点の水面から8人の天女が昇天し、河島山を飛翔する姿が見られるといわれています。現在は金樹寺で竜神祭を毎年行っているようです。
 この竜神祭は本来は、河島の塩常寺の祭りでした。塩常寺は雲竜院塩沢山塩常寺といって、開山は戒阿弥上人という人です。戒阿弥上人は農夫でしたが、ある日、最上川で魚釣りをしていた所へ、葉山へいく一向上人が通りかかり、塩水のでる井戸を堀り、塩水を汲む柄杓を与えたので、農夫は得度して弟子になって、戒阿弥上人と名乗り、井戸のある地に塩常寺を建立したといわれています。
 この寺には勢至観音がまつられていましたが、戦後盗難にあい、今は台座だけが残っています。この勢至観音は白金の立派なもので、その光は、夜になると3q先の楯岡の羽州街道まで明るく照らしたと伝えています。
 住職の話によると、旱魃や虫おくりの時に竜神祭を行ったそうです。河島山西側の川畔に祭壇を葉山に向けて設け、護摩を焚き祈祷したのだそうです。すると葉山に雷雲が立ち、雷鳴、雷光が起こり、2匹の竜が碁点の水面から昇天して降雨があったそうです。すぐ降雨がなくとも、3日以内には必ず降雨があって、その後晴れ上がった月夜には8人の天女が碁点や河島山周辺を舞いながら飛翔する姿が見られるのだそうです。

 碁点の竜神様
 この項は村山文学会報「村山文学」昭和61年9月1日号掲載のものです。作者は宮本孝会員(?)という方です。碁点の龍神様近くの最上川河岸に川底までの石段が続いているという話の他、碁点の龍神に関わる興味深い話が書かれておりますので紹介させていただきます。ただし例によってプライバシーにかかる部分を一部削除させていただき、漢数字を算用数字にしたうえ、ごく一部の文字などを手直しした部分があります。またもし碁点の川床探検を思い立ったとしても、それは大変危険な面がありますので、十分安全に配慮した上で自己責任で行ってください。

 碁点の竜神様が最上川から直接参道がついているという話をAさんから聞き、彼と神官を務めるBさんに案内していただいて竜神神社に詣でた。
 碁点の橋から北に300m位行った最上川右岸にある。昔は陸路はなく近寄ることができなかったそうである。地形からみて行けない筈がなく信仰上の理由から道を作らず藪の繁るに任せていたのだろうか。今は立派に開田されたあぜ道を200mほど進むと、こんもりした杉林に入る。神社の境内に植えられた杉の木立である。昇殿してB神官につづいて礼拝する。神官が祝詞を誦する。折りもおり真夏日が20日も続いて喉から手が出るほど雨がほしい。祭神の八大竜王の中の娑伽羅王は雨を降らす竜王である。私も胸のうちで雨を乞うたが、雨乞いの祝詞だったのだろうか、帰宅後やや間をおいて沛然として降る雨に見舞われた。霊験あらたかである。
 拝殿を出ると、やはり参道は最上川に向けてやや急に下りながらひらけている。最上川は連日の旱で狭いところでは巾5、6間きりしか流れていなかった。川巾は狭くとも、ここは魔の淵と恐れられた碁点である。牙を剥く激流と隣合せに底しれぬ深淵が渦巻いている。流れの10数倍の巾がある川底は岩盤が真っ白に乾いて重なり合い視界いっぱいにひろがる。川底から竜神神社の参道を見上げて思わず目をみ張った。なんと川底から4、5間巾のきざはしが岩盤にはっきり刻みこまれているのである。縦に無数にひび割れて古代のものと思いたいが、ここは何しろ激流逆巻く川中である。あるいは最上義光が開削した時に作られたものかもしれない。目で見て100年、200年などのものでないことは確かだ。
 ここの竜神様は雨乞いのために建てられたものなのだろうか。陸からの参道のない竜神様は最上川に水を湛えている時には行けず、川底が現われ雨のほしい時にだけ行くことができる。お詣りすると雨が降る。最上川が川巾いっぱい流れているときは雨はいらないからお詣りに行けないようにしたのだろうか。
 ここから東に3qほど行くと、かつての羽州街道が最上川と大筋で並行して南北に走っている。そこに宿場町として栄えた楯岡がある。その中ほどに浄土宗本覚寺があるが、古くから伝えられている開山由来にこう書かれている。

               
                                 本覚寺
 −浮牛(うぎゅう)山感応(かんのう)院本覚寺は元亀年間良穏(りょうおん)上人によって開かれたものであります。
 元亀4年6月、当地方は大旱越におそわれ、住民はあらゆる神仏にお祈りしましたが更に感応がなく困り果てていました。その時ひとりの男が、最上川の五天(碁点)の底に竜宮があって、それに生きた牛を供えれば必ず雨が降るといいふらしました。旱魃で殺気だっていた住民は群をなして、町に薪を売りにいく牛を見つけ、大勢の力を借りて奪ってしまいました。哀れにも牛は五天の淵に沈められてしまったのです。するとたちまち物凄い豪雨が三日三晩も降り続き住民たちの喜びはたいへんなものでした。雨で農作物も生きかえり、気をとり直した住民たちは今更のように牛のたたりが恐ろしくなりました。銭3貫を持って飼い主を訪れ詫びをいったが、飼い主は「あなた方は近く地獄に堕ちて悪の報いをうけるでしょう」といって、銭は町なかに捨ててしまいました。五天の竜神の徳で雨が降ったのか、牛のたたりで降雨があったのか噂はさまざまでした。この時一人の行脚僧が通りかかり牛の菩堤を弔って「徳真善畜男」と法号を授け、七日七夜別時念仏を修しました。住民たちは合掌して溺死した牛の魂を回向し善根を施し檀施(だんせーお布施)しました。この檀施によって立派な道場が建立されました。これが現在に至る犠徳山感応院本覚寺であります。−以下略−
にしかたのお寺さん 楯岡史略記
                         
                                牛の供養碑
 これをみると元亀年間に、すでに竜神様があったと思われる。元亀といえば今(昭和60年当時)から410余年前であり、信長の比叡山延暦寺の焼打ちなど、仏難の時代でもあり室町幕府が滅亡する戦国のただ中である。ここで五天という地名がでてくる。仏教にいう五天は五天竺の略である。天竺(インド)を東・西・南・北・中と分けた総称である。しかしこれと結びつけるには地形その他からみて無理がある。渇水期に碁石を散らしたように見えるから碁点というのは近世に入ってからの浅い智恵なのではあるまいか。中世には数えきれないほど舟が沈んでいる。かぶたれ餅の風習がそれを物語っている。人も多勢水死しているのであろう。溺死体があがらなかったこともあったかもしれない。今でもそうだが当時は限りない神秘に怖れをこめて五天と呼んだのかもしれない。あるいは溺死体があがらないから底に竜宮があると信じられたのかもしれない。竜宮は浄土のもので、浄土といえば天竺と、考えを昇華させたのかもしれない。
 Bさんが川の中ほどに立っている岩を指し、元はこの処に竜神様があったのだという。ここを開削したとき名残りをとどめるために残したのだともいう。満水時には頂だけが島になる。杉があり杉島といったというがこれは違う。この島は岩盤でできており大水になると水を冠ぶる。杉は育つ筈がない。近くに杉島という地名があるが、その謂れと混同しているのであろう。
 碁点は幾多の伝説と謎に包まれている。むかし村山盆地の東根、村山南部辺りは一大湖沼で藻が湖といった。7世紀始め僧行基が碁点を開削した。水が流れだし大きな平野がひろがり、今の最上川ができあがったとする説がある。碁点に立って遠望するに今から1300年前にそんな湖沼があったとは地形からみてとうてい信ずることができない。ではもっと前では、といっても最底部に当る長瀞からごく最近縄文土器が見つかっている。村山市史の原始・古代編では古藻ケ湖は2万年前頃で、その後水位が下り再び水位の上った時期で新藻ケ湖としている。1万年前頃に消滅し最上の流れが出来あがったとしている。1万年前といえば縄文の始まりである。河島山から原始石器がでてくるが、これは水位の下った時に住んでいたものなのだろうか。県総合学術調査会刊「最上川」の中で未開拓の分野であるが「古山形湖」(今の上山南端から土生田まで)があったのは80万年前から100万年前と推定している。また後尾の「最上川調査をふり返っての座談会」の中でC氏は200万年前頃から出羽丘陵が隆起するが、その以前300万年前頃から村山盆地は湖になった。という意味のことを話されている。地球上の人類誕生の年代であり気の遠くなるような大昔である。読売新聞社刊「最上川」によると「最上川舟運の重要性をまず自覚したのは山形城主最上義光であった。−中略−古い記録には天正8年(1580)ごろから「当国に石切りなかりし故に他国より石切工匠を雇い下し、最上川の岩石を3、4夏(夏の間3、4年)切らせ大石田と中野・舟町を、舟往還のため村立てした−後略−」と書かれている。また真蔦栄著、最上川物語「義光無残」の中に、当時最上川舟運は大石田から下流に限っていた。義光は最上川の航路を大石田から約10里遡行させて支流の須川に導入し、中野(舟町)に川舟の発着場を設けようとした。この成否は碁点、三ケ瀬、隼の三難所の川底を開削できるかどうかにかかっていた。「屈強な石工を一人でも多く探し出せ」と布告した。しかし出羽、庄内の最上領内から一人も見つからなかったという。「なれば江戸といわず京、大阪にまでも家来をつかわして、腕の優る石切りを募らせよ」と重役に厳命した。江戸から京、大阪まで足を伸ばした家臣たちは賃金に糸目をつけず石切工探しに狂奔した。これらの石工によって慶長11年(1606)に工事が始まり5年の歳月を費やして開削したことが物語風に書かれている。出羽国の石工たちは"竜神の住む碁点の淵"と怖れおののいたであろうし、またどのような方法にせよ全国から、といってもおそらく熊野灘、瀬戸内あたりの水練の達者な、戦場をくぐりぬけた石工が集ったのだろう。当時の最上家は57万石の大名である。それだから当然このような大がかりなことが出来たと考えられる。
 ご神体は(この間の記述は防犯上略します。普段はこの社にはなく、あるお寺に安置されている、相当に古く立派なものである、と書かれています。)
 弁財天は音楽、弁才、財福を司る天であるが水とか蛇にも関わりをもつ天でもある。竜神竜王は仏教界のものである。仏法を守護し雨、海を支配する。この社の掲額に竜神神社と刻まれているが、明治初期の神仏分離の際に掲げたものであろう。勿論神仏混淆の思想であれば神であり仏であることは一向に差支えないことである。根本は本地垂迹(釈迦が神仏の全てを支配し、神は仏法の守護神とする説)であろうが、はっきりした宗派を持たないこれらのものは時の思想に国家主義的なものが色濃くでれば神社になり、民衆の間に根強く仏教が浸透した時代は寺院の様相を持ったであろうことは容易に考えられる。雨乞いの時に神社でありながらお坊さんが司祭するのはなんとも不思議だと地元民がいっているが、これは当り前のことなのである。538年(541年説もある)に百済を通じて仏教が入ってくるが、貴族階級のものであって民衆が帰依するのははるか後のことになる。武家が台頭するのは9世紀に入ってからである。1191年僧栄西が宋より帰って臨済禅を伝える。これが武家社会に受け入れられて隆盛を極める。その僅か後、法然、親鶯、道元、一遍、日蓮などの公武の権威を嫌った名僧たちの教えが殺伐な武家横暴に泣く民衆の心に暗夜の光芒のように突きささる。中世の武士は農業経営者で後にいう大地主でもあった。農民は権力階級の隷属として牛馬のごとく酷使された時代である。それに1230年(寛喜2年)に大飢謹が襲う。外にあっては1274年(文永11年)4万の兵を、1281年(弘安4年)には10万の大軍で元が攻めてくる。蒙古襲来である。自分を律することもできない時代であり、当然親鷺や一遍の他力本願に来世の生を信じ唯一の救いにしたことであろう。心を温める静かな教えが念仏踊りになって鬱積を発散させ、やがて一揆となって燃えたぎる。
 出羽国は初め蝦夷の地であったが658年(斉明4年)に阿部比羅夫の遠征を経て708年(和銅元年)に越後出羽郡を設置したとある。あおによし奈良平城京遷都の2年前である、まぶしいまでに輝き始める天平文化の開花期である。当時は、農民にとって仏教は無縁のものであったに違いない。
 竜神神社はいつ頃建立されたのか、どうにかして手掛りを掴みたいものだ。竜神様の参道を見上げ川底から続く石のきざはしを見て、我が目を疑うほどびっくりしたのであるが、その夜は興奮でなかなか寝つかれなかった。縦にたくさんひび割れていたのはひびではなくて石を並べて作ったのではなかっただろうか。果して5、6間もあっただろうか。すぐ様もう一度飛んで行きたいほどであったが、あの豪雨である。川底は水の中である。河島山の遺跡に詳しいDさんに確めてみたら知らないという。しかし川底に竜が彫られているという言伝えを耳にしたことがあるという。この一言でまた心が躍る。あの篠つく雨の後、地球も焦げるのではないかと思われる旱が続く。間もなく底が現われた。早朝から昼まで岩盤を歩き廻る。碁点は最上川中流では狭いところ、といっても7、80間の川巾である。5、6間の水の流れは左岸に片寄り、右岸の川底は野球ができるほど広大である。
竜神様のきざはしはやはり岩盤に掘ったものであった。いくら見ても2、300年前のものでないことも確信した。川底に彫られた竜は、と血まなこになって探した。それらしきものは確かにあった。驚きのあまり長い間凝視していた。悠久の流れが凝縮した一時にも思われた。涙が一すじ二すじ流れ出していた。現在建っている竜神神社の建物は200年位経つという。直感でいえば明治年間に建てられたようにも思う。杉はみな100年足らずの杉である。切り株の跡のようなものがあったが定かでない。Dさんの話によれば河島橋(大旦川に架かる)を作る時に用材として切ってしまったという。今の河島橋はコンクリート橋である、その前の橋は昭和7、8年頃に架け替えられている。当時製材業を営んでおられたEさんの言によれば、その時の用材は湯野沢辺りの葉山の杉丸太を使ったという。その前はおそらく明治初・中期で、証言する人はいないのかもしれない。ご神体の年代も非常に興味深い。これからもおおよそ建立の時期が知れると思う。滅多に拝することが出来ないのが残念である。(この間の記述は防犯上略します。)仏教説話の変想図からくるものなのだろうか、浅学にしてわからない。今の時点ではやはり川底に掘られた岩盤のきざはしから推定するしかない。詳しい方にぜひ見てもらいたいものである。