本文へスキップ
 


にしかたの昔語り

白蛇の伝説



 当ホームページの主な舞台である村山市湯野沢地区では、蛇を殺すことはよくないことだ、という風習があります。大きな蛇が家の敷地内に棲んでいるのは縁起がよいことで、お金がたまるという人もいます。大きく成長した蛇はいわゆる主(ぬし)であり、小さな蛇が平穏無事に長年成長して大蛇になれたということ自体が縁起のよいことであり、それを殺すことは縁起がよくない、という意識があるようです。また山で蛇を見かけたときも殺してはならないといわれています。山に棲む蛇はこのホームページ内で紹介しているとおり、雨風の神様に関係があるという意識からのようです。特に白い蛇は神の使いであり、山でも平地でも殺してはならないといわれています。これは白という色が普通ではない神秘的なものを感じさせるからだと思います。しかし、蛇そのものを神格化しているわけではなく、あくまで神の使いや神秘的な生き物、縁起のよい生き物というレベルです。ただし、当地区でもマムシは殺されてしまいます。やはり毒蛇であるということが原因のようです。当ホームページで紹介している話のなかでもマムシは悪役です。
                        

  白蛇の滝
              
                               (たぶん)白蛇の滝
 湯野沢と河北町岩木の村境を流れる法帥川上流に桧戸の沢という所があります。これらの沢には2〜3の小滝があり不動尊が祀られています。
 桧戸の沢が法師川に合流する付近、大黒なで山の下に白蛇の滝という小滝があり、ここには不動尊が祀られていたそうです。この滝壼は深くて底なしの滝壷といわれています。トンネル状になっていて、最上川の碁点まで貫通していると伝えられています。落ちたらあがれない、滝主の白蛇にのまれてしまう滝として恐れられてきました。白蛇はここから碁点まで往復しているといわれています。碁点からはこの白蛇は白龍となって大空に飛び立つとされています。滝主は白龍で、8匹の白蛇を従えているとも言われています。飛び立つ白龍は碁点の白龍であったと語り伝えられているのです。
 村山市河島山中腹には白山神社が祀られています。
 昔、最上川の碁点には龍神が住んでおり、水煙を上げ天と川との間を往来していたといわれています。旱魃の時には白山神社の白山池をかきまわすと、夜半に龍神が昇天し、雨雲を呼び起し、雨を降らせる姿が見られたという。白蛇の滝から飛び立っ白龍は碁点の龍神だといわれています。
 最上川の碁点との関係の伝えは不明であるが、龍神の伝えは碁点にも伝えられています。
碁点の竜神 河と滝
  樽石川の白蛇
                     樽石川
                               樽 石 川
 樽石川の左岸、旧樽石村の入口にある樽石神社付近、岩野道と葉山の杜務道との三叉路近く、おくまん下というところに羽根田の石橋と呼ばれる橋があります。ここには大久保村豪商の若者と落人の娘との悲恋物語が伝わっています。 昔、大久保の庄屋の一人息子で、顔立ちの凛々しい宇市という若者がいました。父の庄屋は名を紀伊といって、年貢米が2000俵も入るほか、市の町を取り仕切る豪商で栄えていました。使用人7人・女中5人もいたので宇市は何不自由なく暮らしていました。しかし、両親の跡取り息子の躾は厳しく、宇市の言動に口出していました。そんな不自由さから抜け出したかったのだろう、宇市は時々葉山に山菜採り・狩り・渓流釣りに行くのが楽しみでした。獲物を持ち帰ると両親に誉められるし、小言を言われなかったからです。
 ある夏の終わり頃、宇市は樽石川の山中に渓流釣りに出かけました。山女魚・岩魚など数十匹を釣った午後、秋雨に会い、ずぶ濡れになり、沢を上がって、ブナの大木の下で雨やみを待っていましたが、夕方近くなっても雨は激しくなるばかりでした。秋の山の日暮れは早く、夕方になると急に寒くなります。体は冷えてくるし、雨の中でも山を降りなければと立ち上がると、雑木林の向こうに一軒家の灯かりが見えました。宇市は雨の中を走って行き、一夜の宿りを乞いました。主は雨戸を上げてずぶ濡れの男をじーっと見つめていましたが、すぐ「入りなさい。」といって親切に家の中に人れてくれました。両親と一人娘の3人暮らしらしい。
 母親は、雨に濡れては冷えるだろうと、囲炉裏に薪を燃やし、そしてかい餅と葛湯をっくり、宇市の釣った山女魚・岩魚を串刺しで焼いて御馳走してくれました。
 娘の名はおたつといいました。美しい顔立ちで、年頃の若々しい娘でした。よその若者に初めてあって恥じ入る様子は、宇市の胸に尚一層美しく見えました。その夜は、囲炉裏を囲んで宇市は家族と夜おそくまで語りあいました。
 宇市は自分が大久保の庄屋の一人息子であること、市の町の賑わい。狼に出会った話など狩りの話をしました。主は、ここは黒埼であること。戦いに敗れここにきてもうふた昔になること、戦いのことや狩場のことなどを話しました。宇市は娘に見とれながら、体を温め、落ち武者の話を聞いているうちに眠ってしまいました。
 翌朝、宇市は深くお礼を言って帰っていきました。両親に黒埼の一軒家に泊まったことを話し、心配をかけたことを詫びました。そしてあの立田姫のように美しい娘おたつを忘れられず恋に悩んでいました。両親におたつを妻にしたいと話せば反対されるに決まっていましたが、ある時両親の機嫌を見計らって、「おたつを嫁にしたい。」と打ち明けました。案の定、両親は「女は魔者という。そなたの一生のことだ。器量ではなく育ちだ。山賊同様の落武者の娘など何をしでかすかわかったもんじゃない。」といって許してもらえませんでしたが、宇市の決心は固かった。何度もお願いして許してもらったそうだ。
 数日後、宇市は、先日のお礼といって、米一袋とかんざしを持って、黒崎の家を訪れました。その日は、お嫁に下さいとは恥ずかしくて言えず、お互いに会う約束をしました。その後、黒崎山や沼の平あたりに二人の語り合う姿が毎日あったそうです。10日を過ぎる頃、村里の暮らしや市の賑わいなど生活の良さを聞いたのであろう、娘は嫁に行くことを決意したのでした。二人はおたつの両親に結婚したいと話しました。両親は宇市の両親同様に反対でした。「おたつ、お前は知らぬだろうが、またぎと庄屋ではあまりにも身分が違いすぎる。勤まるまい。諦めな。それに嫁入り支度などしてやれないし、ててさもおっかもすぐ年とる。」と母は言い聞かせましたが、おたつは納得しません。宇市は「支度など要らない。うちに下女5人もいるから難儀な仕事はしなくていい。身の上や老後が心配なようですが、私の父は庄屋ですからなんとでも出来ます。おたっちゃんだけ来てくれればよい。式など親がやってくれる。」と言って諦めない。二人の決心と娘の気持ちを思う親心に負けて、両親は許したそうだ。そうして9月23日の秋分の日の午の刻(正午)、対面坂まで迎えにくるといって帰っていったそうだ。
 秋分の日、おたつがててさまに挨拶すると、父は黙って猿酒を飲んでいました。おたつは着替えの着物2、3枚を風呂敷に包み、見送りの母と一緒に対面坂までくると、宇市は下男と一緒に迎えにきていました。母は別れるのが辛くて、とうとうおくまんの森の橋までついてきたそうだ。娘に「あっかさま、名残はつきませぬ。ここでいい」と言われると、母は、「んだな、ここの橋で別れよう、黒崎さ里帰りする時はやや子を抱いて旦那さまと一緒にこの橋を渡るのだよ。一人では決して渡るでないでよ。」というと、娘も「心配せんで、きっとそうします。幸せになって見せます。」といって別れました。
 母は、土手の上にあがり、娘の姿が見えなくなるまで見送るのでした。
 山の冬は早い。長い冬もようやく去り、まんさく・こぶし・山桜が咲き、鴬の鳴く春になりました。母は、娘を嫁にやった後は、娘のことばかり心配していたそうです。
 娘のおたつは、母親から一通りの礼儀作法は教えられていたので、最初は何事もなく幸せに暮らしていましたが、1ヵ月を過ぎる頃から姑の意地悪が始まり、意地悪は次第にひどくなっていき、いじめに泣かされる日が続きました。下女以下の家事を強いられて食欲もなくなり、痩せこけて以前の美しい面影はなくなっていきました。夫の宇市も、山姥みたいな女を嫁にするでなかった、と言って冷たくあしらいました。春がきたころには樽石の山を眺めては父母と山桜や小鳥の囀る黒崎を懐かしむようになっていました。
 やがて暑い夏がやって来ました。ある日の昼下がり、とうとう予感していたことがおこりました。夫の宇市から、身重にならないという理由で離婚状をつきつけられたのです。おたつは傷心のあまり頭髪は乱れ、夢遊病者のように着の身着のままでかんかん照りの道を樽石に向かうのでした。
 おたつはいつの間にかおくまんの石橋の上に座っていました。着物は乱れ、顔はやつれ、頭髪は逆立ち、龍の目のような赤い目を爛々と輝かせて黒崎山を見つめています。
「夫、姑への恨みは尽きない。恨みを晴らせないのが無念だ。父母の反対を押し切って嫁いだあの嫁入りの時のややを抱いてこの橋を渡ると言った母との約東、父母にあわせる顔はない。」と合掌して、何かを頼むように、詫びるように黒崎山をジーツと見つめていました。
 すると、西の空に黒雲が湧き起こったかと思うと大雨になり、雷鳴とともに稲妻が石橋の上のおたつ目がけて走ったかと思うと、橋の上のおたつの姿は消え失せて1匹の白蛇がどくろを巻いていました。雷雨が去り空は晴れ上がると、雲間から白鷺が飛び降りてきて白蛇をくわえて黒崎山へと飛び去っていきました。石の上には1本の羽が落ちていました。
 その数年後の夏、宇市は黒崎山付近の沢で岩魚釣りをしている時、突然の大雨におそわれ、沢の水かさが増し土砂崩れを起こし沢を埋め尽くし、宇市はその土砂に埋まりました。崩れた山の斜面を白蛇が這い上っていったそうです。それでここを蛇崩れと伝えています。その後、宇市の母は一人息子を亡くした悲しみから放心状態になり、狂死しました。枕元から1匹の白蛇が外に這い出て行くのが見られたそうです。
                     宇市は突然の土砂崩れにあい,土砂に埋まりました・・・。
                          宇市は突然の土砂崩れにあい、土砂に埋まりました・・・。
 沢は土砂崩れで堰止められ沼となりました。時々、3匹の白蛇が水面を泳ぐのを見かけると言います。神秘的で無気味に静まり帰った沼だったと伝えています。
 白鷺が白蛇をくわえて黒崎山へと飛び去った時、石の上に1本の羽がおちていたことから、この橋を羽根田の石橋と呼んだと伝えています。また、この話から、この橋を渡って嫁入りすると必ず離婚されるといって村では決してこの道を通らない習わしがあると伝えています。
  笹の崎の白蛇
                甚兵衛稲荷とお三島さま
                                甚兵衛稲荷とお三島さま
 湯野沢の千座川の桜橋から分流する田村川のほとり、旧葉山中学校裏の畑の中、笹の崎とよばれている地区に甚兵衛稲荷神社があります。地区の人たちにはお三島さまと呼んでいます。お三島さまから500mほど先には白山神社があります。お三島さまのお堂には「オモリモス」という漬け物石ほどの石が数個、赤や青の美しい模様の布袋に入れられて納められています。お三島様に願をかけ石を持ち上げると、願いがかなう時は、軽く持ち上がり、かなわぬ時は重くて少しも持ち上がらないといわれています。この神様は霊験あらたかで、地元のおばあちゃんたちは難病もお三島さまの力で治ると信じています。このお堂にはよく白蛇が娑を見せます。白蛇を見た人は、心がきれいな人は非常な幸福を得るが、汚れた心の人は2〜3日中に死んでしまうといわれています。
 稲荷神社の北には田村川という川が北山の山裾に添って流れています。田村川は湯野沢の東の平野の田野を流れ、小谷城より大窪(大久保)を通って最上川へと流れ込んでいます。昔の田村川は、笹の崎付近の凹地に流れ、堰止められて大きな沼となっていました。人々は笹の崎の大沼と呼んでいたといわれています。沼の周囲には笹や葦が生え、特に西方は北山裾まで一面の笹の原っぱでした。満々と水を湛えた水面には、北山の松林とコブシ・山桜・藤の花や紅葉などの四季折々の花が影を映し、水面には鴨・鶺鴒・白鳥・白鷺などの四季折々の水鳥が棲息していました。時には静まり返った水面を白蛇が水面を西へ泳ぎ渡ることもありました。今は、笹の崎堤と新溜池にその名残をとどめています。 なお、この付近には「おさんこ狐」という狐の嫁入りの噺も伝わっています。
                笹の崎の稲荷様,白山神社,遠景に甑岳
 この笹の崎の沼の東台地に白山神社があります。神杜の南の白山橋付近に、昔、1人の美しい娘が住んでいました。父と兄を戦いで亡くし、母は病気で亡くなっていました。娘は父母と兄の霊を弔いながら、機織りと着物仕立で生活していたそうです。「バッタンバッタン、1枚目はおとうのため、2枚目はあっかのため、3枚目はあんつぁ(兄)のため、チクチク縫うのは人のため、」と、自分を励ましながら、機織りと仕立て物をしていたそうです。
 着物の柄は、桜・藤・紅葉・沼に浮かぶ水鳥・空に舞う白鷺などの四季折々の沼の風景で、それはそれは素晴らしい物であったそうです。着物と美しくやさしい娘の評判は、谷地や六田どころか、仙台の伊達まで聞こえていたといいます。娘はすぐ金持ちになりましたが、贅沢をせず父母や兄の成仏を願って大日山の寺に掛け鐘を奉納したそうです。また、近郷近在の裕福な家の若者達の求婚もすべて断わり、市の町の呉服屋の豪商の息子との縁談も断ったそうです。
 そんなある日の晩、惚れ惚れするような美男子の山伏が、松尾明神さまに納める戸張りの注文に訪れました。男は美しい娘の心のこもった応対に見とれながら、戸張りの図案を説明するのでした。その夜は注文を終えると、「明日の晩また出来具合を見に来ます。」といって帰って行きましたが、翌晩からは、絵柄だけでなく、お互いの身の上話や世間話・仏との因縁話まで語り合い、夜中まで語り合って帰るようになりました。10日後、戸張りは完成して、若者の手で松尾明神さまに納められました。苔むす滝の岩上に生えた松の老木に、舞う白鷺を描き織った戸張りだったそうです。その後、二人は親しい恋仲となり、若者は毎晩通うようになりました。何回目かの夜、娘は、暗い夜道は危険だから、ここに泊まって朝明るくなってから帰るように勧めたが、若者は、「拙者は山伏修行の身ゆえ、朝帰りして、和尚様に見つかりますと叱られます。女の人と会うことや結婚は禁じられているのです。ですが、あなたを恋しうて毎晩こうして忍んで来ているのです。」というので、娘は、「せめて途中までお見送りだけでもさせてください。」といって、男の後ろについて行こうとすると、男は制して「決してついて来てはなりません。誰かに見られます。」と言う。娘は、いくら修行者とはいえ夫婦の契りを結んだのも同然の仲、見送りまで拒むとは、また、夜しか来ないなんて、と男の言動を不信に思っていました。
                   やがて,秋になり沼の水面に映る月も冴え渡り,虫の音もひときわ騒がしくなったある夜のこと・・・
                                笹の崎堤と新溜池、笹の崎の稲荷様
 やがて秋になり沼の水面に映る月も冴え渡り、虫の音もひときわ騒がしくなったある夜のこと、若者は「葉山に雪が3度やってきたら、私は遠い修行の旅に出なければなりません。当分の間会えなくなります。来年の春の桜の咲く頃には、きっと、戻ってきます。」と言いました。娘は、若者がもう戻って来ないのでは、と疑って、若者の住まいを今のうちに確かめておこうと、若者の後をそっとつけてみたそうだ。若者は、白山橋から田村川沿いに湖る湯野沢路の一本道を途中からそれて、畦道を北山沿いに歩いていきましたが、笹が一面に生い茂っているところまでくると若者の姿はぷすっと消えてしまいました。あとは、冴え渡る月の光が笹の葉に置いた露を照らす笹の原が遠くまで続き、寒々と静まりかえっていたそうです。翌晩も後をつけてみたのですが、やはり笹の原っぱで若者の姿はふっと消えてしまったそうです。
 そこでその次の夜、娘は若者の着物のすそに長い糸を通した縫い針を縫い刺しておいたそうです。若者はその晩、気づかず帰ったそうです。
 翌朝、娘が糸を手繰って行くと、糸は若者が消えた当たりの笹薮の中を北の方へ続いています。さらに糸を手繰りながら行くと笹の崎の沼に出ると、突然、ドタンバタンと繰り返す地響きがしました。松の大木の根元を見ると、2丈ほどの白蛇が、赤い目を腫らし、赤い火焔のような舌を出し、銀色の鱗を光らせながら、苦しみもがいていたのです。娘は気を失いそうになったが、もしや、と思い気を取り戻して恐る恐る近付くと、白蛇の胸元には1本の針がつき刺さっていて、真っ赤な血が地面を沼へと流れていました。娘ははっと気付き、針を抜いてやると、白蛇は少し楽になったのだろう。娘に向かって言うには、「あれほど注意したのに、残念だ。そなたは私の姿を見てしまった。来年の春の修行明けには人間になりそなたと夫婦になれたものを。残念だ。でも、短い夏だったが心やさしいそなたと楽しく過ごした記念に、お前に呪文歌を教えよう。何か困ったことや不吉なことがあったら唱えるがよい。そなたを守ってさしあげよう。」そう言って、次の歌を口ずさむと、沼に滑るように入り、ぶくぶくと波を立てて沈んでしまいました。
               ・・・そう言って,次の歌を口ずさむと,沼に滑るように入り,ぶくぶくと波を立てて沈んでしまいました。
                     ・・・白蛇は沼に滑るように入り、ぶくぶくと波を立てて沈んでしまいました・・・。
 「さいけれん けんけんけれんの 剣ちょうちょうと 鳴るは笹の野の白蛇よ 七難あらば 我が身に知らせよ」
 沼底からは赤い血が湧き上がり、水は真っ赤に染まること7日8晩続き、平常の沼に戻ったそうです。
 その後、娘が白蛇の霊を弔い祠を建てて供養したのが三島明神であるといわれています。娘のその後の消息を知る者はだれもいませんでした。機織りのこの娘は白山神社の「おしらさま」という蚕の女神だったといわれています。また若者の山伏は岩野の白石山に住む白蛇だったといわれています。
                                                      昭和23年−湯野沢故藤田彦作翁談−
               大久保白山神社
                                   白山神社
  引龍の白蛇
                引龍新堤
                                引龍新堤
 現在の河北町の引龍提は戦後になって、岩木村と湯野沢村の人が相談してつくった堤です。古い提は法師川上流の一杯清水の向いの山、引龍にある提のことです。引龍とは水を引く龍のことで、この龍神さまの使いは白蛇です。この白蛇は引龍提の山中で今でも見られるそうで、白蛇を殺した者には祟りがあるといわれています。引龍の地は法師川(湯野沢では星川と呼ぶ)上流の地で、岩木村と湯野沢村との村境でした。「まぐさ場」といわれる草刈場と柴山があったところです。ここは昔は両村の入会地(共有地)とされていました。
 昔、草は刈り取って田畑にいれて肥料にしていました。また、柴山は薪を伐る大切な山です。水は稲や農作物を育てる大切なものです。法師川付近の地や引龍の地を自分の村のものにすることは、当時の日常生活に人きな影響があり大切なことでした。このため、岩木村と湯野沢は明治時代まで境界争いを絶えず続けてきました。こうした水争い、境争いをなくすためにも引龍提はつくられました。
 引龍の山中は葉山の立石山の龍神が飛来する聖地で、一杯清水は弘法大師が錫杖で大地をついて水を湧き出させた清水であるといわれています。入山の時には、必ずお碗一杯の水を汲んで飲んだことから一杯すず(清水)の名があるといわれています。
                       引龍新堤の竜神
                                引龍新堤の竜神様
 昔、村の人たちは法師川上流の引龍に白蛇が出て、たたりがあると噂し合っていました。そんなある日、一杯清水で農夫が昼休みをしていると、白蛇が1匹、木の枝から枝へと、引龍に帰って行くのが見えたそうです。恐ろしがっているところに、葉山へ行く山伏が通りかかったので、白蛇のことを話すると、山伏は「白蛇め、また遊び回り悪戯しはじめたか。よし、おれがおとなしくさせてあげよう。しかし、引龍の池をかえないとだめだ。人夫をたくさん連れてきてほしい。」と言ったので、農夫は村に帰って30人ほど連れてきました。その頃の引龍の池は提でなく、山中の小さな池でした。山伏と農夫たちが池に行くと、山伏は「「池の水を全部汲み出しなさい。」といいました。農夫たちははじめのうちは祟りを恐れて水を汲もうとするものは1人もいませんでした。しかし、山伏が池の前に座り、お経と呪文を唱え始めると農夫たちは1人2人と水を汲みはじめました。かけ声を合わせ全員の農夫が水を汲みはじめると、池の水が少なくなるのが見えました。
 ちょうどその時、空が急に曇り、大雨が降りだし、雷が光り鳴り出してきました。農夫たちは「白蛇のたたりだあ!」といって、気を失ってしまったり逃げ出したりしました。すると、山伏は社峯(やしろみね)にかかった雲の方をにらみつけ、「ウンケンソカワ、アヒラウンケン」とか意味のわからぬ呪文を唱え、数珠を手に握りしめては振り握りしめては振って、何回か雲に向かって話をしました。そして山伏が「よし、わかった、池をかえるのはやめさせる。」というと、雨や雷はやんで、嘘のように空は晴れ上がったのだそうです。農夫たちの目には見えませんでしたが、山伏はこの池の主である龍と対話をし、龍を降伏させたのだといわれています。それからは、白蛇は悪いことをされない限り、おどしたり、祟ったりしなくなり、やがて村人からは忘れさられたということです。
 この山伏は不動尊の権現さまで、白蛇は龍神の使いであったと語られています。