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にしかたの昔語り

怖い話・悲しい話



  銀蔵林
 江戸時代も終りのころ、湯野沢に熊野三郎の重代家老職をつとめたという人の子孫が住んでいた。
 そのころ銀三という水呑み百姓がいた。銀三はその日の晩に食べる米もない貧乏ぐらしだったので、ある秋のこと、重代家老のすくろ田という田から稲もみを盗んだ。それを知った重代家老は、銀三をつかまえて「この泥棒野郎、生きうめにして殺してやる!」と怒って、ある地区の墓地のところにつれていった。
 銀三は重代家老に無理やり引っぱられていった。それを見た人が「助けなければ」と思い、證誠院の坊さんの所に走って行き、この事を知らせた。坊さんは「間に合うとよいが、とにかく急いで行っでみよう」といって走って行ったそうだ。
 昔は罪人が僧の衣にすがると罪が許るされた。しかし、知らせた人と坊さんが現場に走りついた時には時すでに遅く、銀三は生き埋めにされた上、頭に杭をうちこまれ死んでいた。人々はその残酷さに怒りと悲しみをもって立ちすくんでいたという。流血で赤く染まった地面を1匹の犬がなめまわしていたそうだ。
 銀三は生き埋めにされる時「お前の家の子孫7代にわたって祟ってやる。呪ってやる。」といって死んだそうだ。それで、重代家老の子孫は代々銀三の霊に祟られて貧乏になり、とうとう米沢に転住していったということだ。
 この銀三が生き理めされたところを銀三林という。
  マムシ呪い
 昔、甚六爺さんという、物好きな爺さんがいたそうだ。ある年の暮れもおしせまった秋のタ方、甚六爺さんは川で大根洗いをしていた。そこへ見知らぬ法師が通りかかって「このへんに旅籠屋はないか?」ときいた。甚六爺さんは大根洗いをしながら「こごさハタゴなどなえな。」というと、法師はどこかに行ってしまった。秋の日暮れは早い。甚六爺さんは薄暗くなっても大根洗いをしていた。そこへ例の法師がまたもどってきて「今夜、泊まるところがない。泊めてもらえだいのだが。」と言うと、子供もなく物好きで心やさしい甚六爺さんは、さっそく家に入れてあげた。そして、輪切れ大根に大根葉の雑炊に酒までつけてご馳走してやった。
 翌朝、甚六爺さんの接待に心うたれた法師は「お礼をしたいのだが。おれには一文の銭もない。それで、お礼にマムシにくっかれた時の呪いを教えてしんぜよう。ただし、次の3つのことは必ず守りなさい。でないと呪いは効かなくなる。」といった。その3つとは、
1、もうけごとなどには絶対に使わないこと。
2、他人には決して教えたり話したりしないこと。
3、生きた蛇(マムシ)に呪いをかけたり殺したりしないこと。もし呪いをかけたら必ず呪いを解くこと。
 甚六ずんつあは「お礼などどうでもええ。うん、おらあ誰にも言わね。年寄りの一人りぐらしだべ。」というと、法師はさらに「例えば左手の薬指をかまれたとき、腫れ上がった手を静かにさすりながらこう呪文をとなえるのだ。その呪文とは
「こうかの山のかきワラビ、ワラビのおんし忘れたか、このまごだら虫、、、、、」と唱え、「アビラウンケンソワカ」と3回唱えると腫れはひいて痛みはなくなる。」
と教えたそうだ。
 さらに法師は「紙の上に左腕をのせて、右手で左腕を左手の薬指の傷口にむけて逆なでしたあと、紙を2つ折りにして広げ、紙の上にカミソリの刃をあてて剃ると、マムシの歯がピンピン跳ねる。これは呪いが効いて腫れがひき痛みも和らぐというものだ。」と伝授した。
 法師は、こう教えて何処となく去って行って、二度と姿を見せなかった。
 しかし、無欲な甚六爺さんは法師のことなど気に止めずにいた。その暮れも過ぎ、正月も冬も過ぎ、彼岸荒れも去って春がきて、夏がやってきた。
 ある夏の日こと、甚六爺さんは弘法寺山の桑畑に桑つみに行った。すると桑の木の枝にマムシがからまっていた。甚六爺さんはふと法師の呪いを思い起こして、本当に効くのか呪文を試してみた。すると、マムシは呪文がかかって動かなくなってしまった。甚六爺さんはそのまま桑の業を摘んで家に帰ってきた。
 家に帰った甚六爺さんは、マムシの呪いを解くのを忘れてきたことを思い出して、すぐ弘法寺山にもどってみると、マムシはまだ呪いがかかったままだった。呪いを解くとマムシはするすると山の方に這っていった。
 それから甚六爺さんは呪いを信じるようになり、足や手をかまれた人を何人も呪いで救ったという。そして、マムシ呪い医者として村人から信頼された。人には無欲な心で接して、甚六爺さんのように、思いやりの心を持っことが大切なのだ。
 このマムシ呪いは、甚六爺さんの分家の弟のGさんに伝授され、今のKさんまで代々伝えられている。
 戦後のGさんも、マムシにかまれて医者にかかっても治らなかった湯野沢荒敷のEさん、手をかまれてグローブのように腫れ上がった岩野のTさんや、足をかまれた息子のKさんなどを呪いで治してくれたそうだ。
  バツアタリ田と泣きみそ地蔵
 かつて湯野沢の某地区にバツアタリ田と呼ばれる田があった。そこには宝慶印塔2基がたっていた。
 バツアタリ田は、昔、罪人を処刑したところといわれている。バツアタリ田は、田の中央がちょっとした丘状になっていて石がたっている。 この田を耕すとその家には祟りがあるといわれて恐れられてきた。病気になったり、家が滅びたりするといわれている。そうしたことで、これまで田の持ち主が何人もかわってきた。
 昔、罪人は首の前と後にのこぎりをつけられて引っぱられて刑場につれていかれた。役人から引っばられ、歩き出さないと罪人の首にのこぎりの刃がささって首が切られるので、どうしても刑場に行かなければならなかったのである。罪人が刑場につくと地蔵尊の前で「つぼ椀」という漆ぬりのお椀で一杯の別れ酒を飲まされた。お地蔵さんは罪人をみて泣いてくれたそうである。それで泣きみそ地蔵というのだそうである。そして罪状を読み上げられた。
                            なきみそ地蔵
                    なきみそ地蔵(現在地は「バツアタリ田」ではありません。)
 罪人は地面に掘った穴の前に荒むしろを敷いて座らされ、うしろから斜めに首を切り落とされ、首は穴に落ちたそうである。しかし、首切りの処刑は幕をはってみせなかったそうである。
 処刑された罪人の死体は、縁故のあるものは縁故者が運び家に持ち帰り葬式をして葬ったが、縁故者のない罪人は無縁仏としてバツアタリ田の壇で火葬され、葬られたそうである。この罪人たちを供養したのが宝慶印塔である。宝篋印塔は大小2基あり、Oさんの家の先祖が建立した。小さい方は寛延4(1751)年、大きい方は天保11(1840)年に建てられている。大きい方には、谷地の長慶寺の法印淳意という人の名がある。長慶寺というのは戸沢藩の殿さまが信仰した寺である。このへんは長慶寺の土地だったといわれている。
                            宝慶印塔
                  宝篋印塔(「こちらも現在はバツアタリ田」からは移されています。)
 また宝篋印塔の石は、Mさんの先祖にあたる人でたいへん力持ちであった人が、碁点から背負って運んだ石だそうである。ある人が伊勢の森(現在の文珠菩薩堂南の丘)の道を通りかかったところ、大きな石がゆらりと動いて歩き出したので、びっくりしてみるとMさんが石を背負っていたのだった。Mさんのからだがかくれて見えるほどの大石だったので、石が動いたように見えたのだそうである。
 Mさんは暴れ出した牛の角をおさえねじり殺したほどの力持ちだったといわれている。
  かね神さまとごんげん様
 昔、湯野沢城主熊野三郎の家臣に尾方三重郎という家老がいたそうだ。家老の娘は容姿が美しいことで、近郷近在までも評判だった。
 この娘のところに、いつのころからか、夜になると、何処からともなく毎晩のように美しい若侍が通ってくるようになった。しかし、若侍は「自分は修行の身であるから。」といって、身分も名前も名乗らなかった。
 そうこうしているうちに、娘はみごもってしまった。両親は男の素姓や身分を碓かめ、早く結婚させなけれぱと思って、再三、「ご身分とお名前だけでもおあかし下さい。」といったけれども、若侍は、「修行の身だから」といって身分をあかそうとしなかった。
 両親は心配のあまり娘を追れて、おなかま(巫女) に行って占ってもらうと、おなかまは「これは恐ろしい、何かの化け物がとり憑いておる。今夜、若侍が来たら、若侍の袴の裾に針を刺しておいて、若侍の帰った朝早く、その糸をたよりに行き先を碓かめなさい。」とおつげがあった。
 しかし、娘は、いくらおなかまのおつげとはいえ、愛の契りを交わした若侍を疑いたくはなかった。信じたかった。きっと名をあかしてくれると信じた。
 その夜、娘は若侍に「あなたのややもできました。せめてお名前だけでも教えて下さい。生まれてくるややに父の名も教えられないのが、なさけないです。」というと、若侍は「そんなに俺の素姓を知りたいのなら、わしが帰って朝になったら、かみ入れ箱(化粧箱)のふたを開けてみなさい。わしが何者なのかが分かります。ただし決して声を出してはいけない。声を出せばわしはあなたのところヘ二度と来れなくなるから。」という。
 そこで娘は、しかたなくおなかまのお告げのとおり、若侍の袴の裾に針糸をさして置いたそうだ。
 翌朝、若侍が帰った後、娘はかみ入れ箱のふたを開けだど、すると、中に8匹の蛇がうごめいていたど。娘は、「アッ」と声をあげて失神してしまった。
 娘の声を聞いた両親は、針糸を手繰りながら番匠面のかね神さまのところまでいくと、それはそれは大きな大蛇が針に刺されて血を流して死んでいた。若侍は大蛇の化身だったのだ。
                      金神様
                               かね神さま
 その大蛇の子を娘は身ごもったことを知った両親は、恐ろしさにふるえ怯えていると、そこへ、的場のごんげん様のガマが現れて両親に言うには「すぐ家にもどって娘さんにフクサ(大根の葉を干したもの)を煮て食べさせなさい。そうすると娘さんのお腹の蛇が落ちるから。大蛇の奴め、おれの子の蛙を飲み込みやがったんだ。いつか仇をとってやろうと思っていたのだ。退治してくれてありがとう。お礼に教えるのだ。大蛇と娘の腹から落らる蛇はおれは気にくわぬ奴だ。だが蛇の子には罪はあるまい。ねんごろに弔ってやるがよい。」といって消えたそうだ。
                      権現様
                                ごんげん様
 両親は、さっそく家に帰り、ふくさを煮て娘に食べさせると、娘の腹から8匹の蛇の子が身ニョロニョロと落ちて死んだ。
 両親と娘は、大蛇と8匹の蛇をガマのお告げのとおり弔った。それが番匠面のかね神さまだそうだ。
 その後、娘は寒河江の立派な若侍に嫁いで幸せに暮らし、尾方家はごんげん棟とかね神さまに守られて金持ちになり、裕福に末永く栄たそうだ。
 このことから、蛇は銭をもたらすかね神さまとして、信仰されるようになったのだそうだ。
 参考−叶神金神−火の神、金屋神、荒神ともいう。鍛冶屋・鋳物・たたら(鑪)の神。菅谷鑪神の菅金作りに叶神金神は村下(ムラゲという長)と天女(乙女)と3人で朴木、桂の森に降臨した女神で、月経・出産を忌む神。ムラゲ・炭焼き・大エ、サゲ(サケ)の階級がある。稲荷・八幡・三宝荒神信仰と係わる。
  ねむたぎ(歓木)
 昔、村里に2人の仲睦まじい樵の兄弟が住んでいた。ある日、2人は食べ物のことでつまらぬ喧嘩になり、兄は、カッとなりあやまって弟を切り殺してしまった。
 兄は、自分の悪行を悔い懺悔して、悲しみながら弟の弔いの儀式をした。
 火葬して骨拾いをしが、どうしても焼けない肉の塊があった。兄はこの肉の塊を弟と思いタバコ入れの根付け(タバコ入れのひもにつけて帯にはさむ細工物)にして、お守りとして、いつでも腰に付けて何処へ行くにも持ち歩いたそうだ。いつでも何処でも弟と一緒に離れまいという誓いであった。
 ある日、兄は山に木を伐りに出かけていった。傍らのねむたぎの木の枝にタバコ入れをぶら提げておき、木伐りの仕事をしていた。そして、一服しようとしてねむたぎの木に近づくと、タバコ入れの根っけがなくなっていた。不思議に思ってよく見るとねむたぎの枝から根元にかけての幹が血で濡れていた。それはなんと、ねむたぎの生気が肉の塊を溶かしていたのだ。
 そこで兄は思った。ねむたぎの木は肉の塊(癌)を溶かす特効薬であることを、弟は教えてくれたのだ。そして、弟はあの世に行っても、罪深いこの兄を守ってくれたのだと。
「やさしい弟よ。詫びたいと思っても詫びようがない。」
 兄は自分の悪行を恥じ悲しむばかりだった。
 こうして、兄はねむたぎの木を伐って、その木を弟と思い家に持ち帰り、座敷の床の間にかざり祭ったそうだ。こうしたことから、ねむたぎの木は、病除け・魔除けの木とされ、祝い木として使用されるようになったのだ。
 日本の昔の家に床の間があるのは、家族なか睦まじくするためだという。えんじゅ(延寿の木)の床柱に楓の床縁、こうか(ねむたぎ)の落としがけの床の間のある家での相談ごとはうまくまとまるし、兄弟家族は、健康で明るく仲むつまじいといわれている。
 さらに、正月の門松にねむたぎ(合歓)の花と葉を干したフクサを昆布と一緒に添えて飾るのも、こうした病除け・魔除け・祝い木としての意味づけがされているのだ。
  子持石
(この話は、「七ツ石と石仏探訪」(樽石七ッ石保存会、昭和55年発行)収録のものです。本ページに掲載するにあたり、文体等を弱冠手直ししてあります。)
 昔々、不作の年のことです。
 夕暮れせまる村はずれの道を、重そうな足どりで、赤ん坊を胸に抱いた女が山の方に急いでいました。
 対面坂という処までくると、赤ん坊が急に泣き出しました。女はかたわらの赤い石に寄りかかってお乳を与えると、赤ん坊は泣きやみ、むさぼるように吸いはじめました。
 女も泣きはらした目から、ぽろぽろと涙を流して赤ん坊を見おろしていた。あたりは薄暗くなり、小寒い葉山降ろしが時折梢をならして通りぬけていった。
 「お前さんも、赤ん坊をおいて行くのかい。」と,女が寄りかかっている赤い石がいいました。「んだよー。不作で年貢も納められないし、稼ぎにでも行って口べらしをしないと、家内中死んでしまうもの。・・・可愛そうだけど子持石様に頼んで行こうと思ってよっす・・・。」女は泣き泣きそういいました。「お前さんばかりでないからな・・・かわいそうだけど、そうしなされ。赤ん坊は一日も早くお前さんが迎えにくるのを待ってるよ。かわいそうだが、そうすることがお前さんのためにも、赤ん坊のためにも一番いいのだよ。」と、赤い石ももらい泣きをしました。
 あたりは、すっかり暗くなりました。「お前さん、あれを見なされ。」赤い石のうながす方を見ると、子持石のところだけ明るくなっていました。そして、石のほとりで沢山の子供達や赤ん坊達が、楽しく遊んでいるのでした。女は、赤ん坊をそこへ連れて行くと、大きな子が抱いてくれて遊びはじめた。
 女は、赤い石のところまで戻りました。
 赤い石は、涙を流しながらいいました。「ああして夜通し遊んで、明け方近くになるとみんなが疲れはててあの石に抱きつくと、子供達はたちまち小石となってへばりついてしまうのだよ。小粒の石も大粒の石も、みんな子供達だ。そして夜になると、また遊びたわむれるのだよ。
 お前さん、安心して帰りな。そして働きな。くらしがよくなったら、きっと迎えに来てやれよ。それまで、わしが見守ってやる。」女は泣き泣き、うしろ髪を引かれる思いで帰っていきました。
 数年が過ぎて、暮らしのよくなった母親は、子供を迎えに来て親子の対面をしました。それでこの坂を対面坂と呼んでいます。
 だが、まだ迎えに来てもらえない子供達は、今も石粒となって親石にへばりついているのです。
 人たちは、悲しみにつけ喜びにつけ涙を流している赤石を泣きべそ石と呼びました。
 この大きな石を、今は子持石と呼んでいます。