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にしかたの昔語り

白馬の伝説



  岩野嶽山の白馬
 岩野村に次のような伝説が伝わっています。
 昔この山の裾野には昔平林村・山添村という集落がありました。ところがある年、嶽山は大規模な山崩れを起こし平林村・山添村を埋め尽くしてしまったといわれています。その後、人々は今の岩野地区に移り住んだといわれています。言い伝えではその時、嶽山の松尾明神の白馬が怒って山崩れをおこし、集落を埋め尽くして葉山の沼の台へ飛び去りました。白馬は土底から土石を崩して飛びあがったので耳がちぎれている、といわれています。その後、人々は今の岩野部落に移り住んだと伝えてられています。また、昔湯野沢と岩野に領地争いがあった時、嶽山の松尾明神が山頂から火の玉となって裾野に落ちて、湯野沢と岩野の境の明神となりました(またの伝えには大龍となって舞い上がり、風雨を起こしてから山上から火の玉となって湯野沢と岩野の境に降臨したとも伝えられています)。村人たちはそこにお堂を建立し村の守護神としました。この神は湯野沢との境の明神とも呼ばれ、現在は岩野村の村社熊野神社に合祀されています。この神社から山裾を左に折れていくと、明神原・湯野入地区に出ます。
 この伝説は、葉山の神である白磐神が朝廷から従五位下の位を授けられた貞観12年前後の承和、仁寿ごろの話として語られています。この言い伝えをそのまま信ずることはできませんが、正史に嘉祥3(850)年に出羽国に大地震、貞観11(869)年には陸奥・出羽国に大地震があったと記録されていることを考えれば、当地区葉山にも地震災害があったことが推測されます。岩野白石山(嶽山)の葦毛馬や山の内の間の上の白馬が、地滑りをおこし、村落を埋め尽くして飛翔する伝えは、自然災害を白磐神や松尾明神の神馬の怒りや崇りと信じており、神に従五位下の位を与えて怒りを鎮めようとしたものと思われます。
  山の内間の上大沼の白馬
 この民話は、山の内大鳥居三叉路から左の葉山道を富並川に沿って少し上った間の上という地滑り地帯に伝わる話です。間の上とは魔の神の意味で、ここは時々神馬が怒り山を崩して飛翔する場所だといわれています。山ノ内地区下流にある富並村は昔駒居村ともいわれ、馬の産地であったといわれています。富並森地区には氏神として馬頭観音がまつられています。
 村山市山ノ内地区の間の上の大沼坂という所に、昔、大沼を中心に、ヤロコ沼、ヘナコ沼、ヘンザイ沼、ツボカイ沼などと呼ぶ沼が四十八沼もありました。ヤロコ沼には子供(ヤロコ)の頭が浮ぶ、ツボカイやヘンザイ沼には蛇が立つといわれて、恐れられていました。沼の周囲には葦や柳が茂り、鶺鴒、鴨などが巣を作っていましたが、大沼だけは湖面には秋になっても木の葉一枚浮かぶこともなく、一年中青々と澄みきっていました。気味悪いほど静かな沼でした。
 ある秋の日のことです。ちょうど名月が昇った時刻でした。一人の男が山仕事を終え、家に帰る途中、この沼のそばを急いで歩いている時のことです。男の耳にどこからともなく機を織る音が「バッタン、バッタン・・・」と聞こえてきました。男は思わず立ちすくみました。すると沼の水面の中央がブクブクと盛り上がって、渦を巻き岸にひたひたとおし寄せてきました。男は崇りを恐れ一目散に逃げ帰りました。それからというものは、沼の主の姿を見ると崇りがある、と村人は誰一人沼に近づくものはいませんでした。
 ところが、その明くる年の春のこと、雪解け水が沼の岸を満たし地すべりをおこし、沼々は山の内川に崩れて、その姿を失いました。大沼は山の内川の右岸に移動し、以前の半分にも満たない大きさの小さな沼になってしまいました。
 その年の秋の、中秋の名月が空に昇った時刻のことです。三太郎という者が山仕事を終えて、馬に薪を積んで帰ろうと思い、昼に沼岸に繋いでおいた馬を連れてこようと、山から沼のほうへと下りていた時でした。馬はヒヒーン、といななき、前足を上げて何かに怯えている様子でした。三太郎が沼の水面を見やると、地すべりで沼の主はいなくなったと思っていた沼の中央が、突然渦を巻いて盛り上がると、白馬がポカッと姿を現わしました。眼をらんらんと輝かせ耳を立て、前足をふんばっていななき、宙に舞い上がりました。そして、一瞬のうちに北の空に飛び去っていきました。飛び去っていったあとの沼岸には女性の帯が残っていました。
 白馬が飛翔した時沼岸に繋いであった三太郎の馬は、白馬のタネが入り身ごもりました。そのご生まれた馬は駿馬に成長し、殿様の目にとまり買いとられました。
 殿様はある日、三太郎から買い求めた馬に乗って、肘折へ狩りに行きました。小松淵という所の沢にきたとき、突然馬は動かなくなってしまいました。殿様がいくら鞭を入れても馬は動きません。不思議に思った殿様がふと前方を見ると焼け根ッ子がありました。それを見た殿様は不吉な予感がしたので、根ッ子の上から短刀を突き刺すと、その根ッ子からは7日7晩にわたって血が流れたといわれています。殿様はこの焼け根ッ子に崇られて危うく焼け死ぬところでしたが、利口な馬のおかげで無事に狩りから帰城することができたのだと伝えられています。
 この出来事があってからは、殿様は自分の馬は非凡な才能を持っている馬だと自慢しました。そしてある日、領内の名馬を数頭城内に集め、馬だめしをした時のことです。馬に焼けた火の橋の上を渡らせたところ、他の馬は怯えながら渡り、途中で死んでしまいましたが、殿様の馬だけはゆうゆうと渡り終えてから死んだといわれています。大変利口で勇敢な馬であったといわれています。
 大沼の白馬が飛び去っていったあとの沼岸に女物の帯が残っていた理由は不明です。一説には沼の近くの姥森に機織姫が住んでいたからだとしていますが、その帯が残された詳しい理由は伝えられていません。
 大沼の白馬は山ノ内から最上郡沼の台の竹の沢まで飛んで行き沼底に沈みました。しかし、白馬は月明りの晩になると大沼が恋しくて姿を現し、家々の土壁を見ると片端から壊し荒れ狂い暴れ回りました。地すべりの時、白馬は土に対して恐怖感を持ってしまったからだといわれています。このため沼の台地区では土蔵や土壁の家は建てずに、板倉や板囲いの家を建てるようになったのだ、と伝えられています。
                      葉山の白馬