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にしかたの昔語り

天狗・むじな
・もののけ



  葉山の天狗
 天狗は山伏の験競べの姿です。他に伝える天狗と同様、葉山の天狗も畏れられる一面 、生命力や地位を授けてくれるという二面性を持っています。
 葉山周辺の地区での遊びに、「天狗ごっこ」という一種の鬼ごっこがあります。鬼ごっこの「鬼」を天狗とした遊びです。初めじゃんけんで決められた天狗の子供が所定の場所に隠れる。そこから数メートル離れた線上に数人の子供が並び、次にあげた童べ歌をゆっくり歌いながら、天狗の隠れ場所に近づき、歌い終えた所で、一斉に天狗から逃げ回ります。
♪ぜんまい採りわらび採り一把たばねてどっこいしょっと…わあーッ天狗が来たあーッ!♪
 この遊びなどは大人が子供心に教えた「葉山に入ると天狗に帰らずの沢に連れて行かれる」という畏れの遊びなのでしょう。
 コマあせ−この遊びにも天狗が出てきます。数人の子供が一斉にコマを回します。コマの早く倒れた順に、糞、味噌、胡麻、豆、小豆、米というように、人数により、穀物の名で順位をつけ、最後に残ったコマの持主が天狗となります。順位が決まると下位の者から順次、一対一で互いに回し倒しあう。何回か繰り返すうちに、強いコマの持主は天狗の地位につける遊びです。この遊びは、下位の者が上位の穀物を順次食べて生命カをつけ、天狗の生命力を得るという発想のようです。昔貴重がられた穀物は何であったか、その順位を示していますが、それはともかく天狗の生命力に憧れた心理の遊びであったのでしょう。
                          葉山の天狗像
                                葉山の天狗像

  葉山小僧森
 葉山山中の方々に天狗の相撲場と伝える所があります。昔、葉山が隆盛を極めていたころ、修行僧の中にどうしても掟を守らない1人の小僧がいました。時々掟をやぶっては山を汚すので再三戒めていましたが、小僧は少しもきき入れる気配がありませんでした。
                 
                                  小僧森
 ある日、その小僧は5・6人の行者と一緒に修行のため山に登って行きましたが、山頂近くになった頃、ふとその小僧の姿が見えなくなりました。不思議に思って皆で大声で呼んでみましたが返事一つもありません。ただ聞こえるものは風の音と鳥のさえずりだけでした。姿を消してから束の間のことなのでまだ遠くは行くまいと行者たちは手分けをして探しましたが少しも手がかりはなく、夕方まで探し続けましたが見当たりません。そして一同が惘然として引き上げようとした時、巨大な天狗が現われて、自分は破掟者(小僧)の変化であることをつげ、皆の前から姿を消しました。それからこの場所を小僧森と呼ぶようになったといわれています。だから、天狗の事を話したり御山の掟を破ったり、あるいは不精進な人が小僧森に行くと、天狗に会ったり白衣の変化者を見ることが度々あるのだといわれています。
                 
                                小僧森遠景

  天狗に出会ったアッケ
 昔、大石田町次年子地区に「アッケ」という名の男がいました。春のある日、アッケは山菜採りに葉山に行くのだと言って、大鳥居の茶屋に休んでいました。茶屋の老婆は一人で山に行くと言うアッケに、「一人で山に入ると、天狗にさらわれ、帰らずの沢につれていかれ帰れなくなるから、明日にでも誰かと一緒に行きなさい。」と注意しましたが、アッケはきき入れる気配もありませんでした。そしてアッケは葉山の奥へ入っていき、その日は帰ってきませんでした。地区の人々は次の日一日中手わけして山を探しましたが手がかりひとつありませんでした。次の日もアッケは帰ってきませんでした。それで、人々は多分アッケは天狗にさらわれたのだろうと話をしました。
 一方山に入ったアッケは山菜を採りながら、奥へ奥へと入って行き、小僧森の近くに来た時、大きな座禅石の上に立っている一人の天狗に出会いました。アッケは驚きもせず通り過ぎようとすると「野郎ッ待てッ!」と呼びとめられたかと思うと、天狗はアッケの目の前に立ちふさがっていました。「天狗かあ〜」と言って、アッケはあっけにとられて天狗を見ました。だがあっけにとられたのは天狗のほうでした。天狗は「ほう、天狗を恐くないと見える。肝ッ玉のふとい野郎だ。どうだわしと相撲をとらぬか?もし相撲の相手をしてくれたら、お前の望み一つだけかなえてやろう。」といいました。
 アッケはしばらく黙っていましたが、「うん、相手になってやるから、俺が何を食っても、あたったり、病気にならない腹にしてくれ。」といいました。それから7年の間、アッケはこの所で、木の芽、木の根、苔、蛇、蛙などを食して、天狗と相撲をとって暮らしました。
 こうして、山に入ってから7年たった春にアッケは山をおりました。アッケはもう死んだと思っていた村人は大変な驚きようでありました。そんな村人達を前にして、アッケは、自分は天狗と7年間毎日相撲をとったおかげで、どんな物を食っても、あたったり、腹いたをおこしたりしない腹にしてもらった事を、誇らしげに語り、蛇、蛙、雑草はもちろん、鋸の刃や陶器の破片まで食べてみせ平気でいました。村人はあっけにとられて見ていたので、この男をアッケと呼んだのだと伝えています。アッケは70半ばを過ぎて、風邪一つひかずに世を去ったといわれています。死体を腋分けしたら、肋骨は板骨で胃袋は板のように堅かったと伝えられています。
  大鳥居 井上 弥吉翁談

  名刀猫丸
 昔、湯野沢のある庄屋に、代々の庄屋の証として備前長船の赤鞘の短刀がありました。
 昔、ある庄屋が谷地代官所に用たしにでかけたところ、時間がかかり帰りが夕方遅くになってしまいました。庄屋は帰り道の途中、今の河北町岩枝の軍人碑の所まできて一休みしました。この場所は小さな森で、湯野沢の人々が谷地からの帰りにいつも腰を下して休むところで、この森のそばには清水がありました。この清水で庄屋は水を呑み休んだが、つい大便をもようしたので短刀を置き大便をしにその場をはなれました。そして、暗くなっていたのでつい短刀を置き忘れたまま家に帰ってしまいました。
 庄屋は帰宅して夜も更けてから短刀を忘れてきたことに気づき、翌朝下男に命令して夜明けと同時に短刀をとりにやらせました。下男は庄屋の置き忘れたという場所に行って見ると猫が1匹いるだけで短刀はありませんでした。下男は「シッシッ」と声を出して2、3度猫を追いはらうしぐさをしました。すると不思議なことに猫の姿が長く伸びたかと思うと、猫の姿は消えうせて1本の短刀になって横たわりました。よくみるとその短刀は庄屋の短刀でありました。下男は家に帰ってこのことを庄屋に話しました。庄屋も下男も他人から盗まれないように短刀が猫の姿になっていたのだと思いました。それからはこの短刀は猫が守ってくれる短刀であるということで猫丸の名刀として庄屋へ代々伝えられたということです。

  お柳城の釣鐘
               おやなぎ城
                          おやなぎ城(私有地ですのでみだりに立ち入らないでください。)
 元屋敷のことを昔から別名お柳城と呼んできました。昔は杉の森があってこんもりとした高台でした。昔の城跡であるといわれています。このそばを通って中村に通じる道があります。昔はよく道端の土手の杉に罪人の生首をさげて人々に見せしめとした所だといわれています。
 江戸時代のある日のこと、高台の畑で農作業をしていた百姓が、5尺もある大きな釣鐘を発見しました。深くて堀るのに大変だったので、庄屋に連絡し、村人に知らせ全員で堀り出しました。話を聞いた村人たちが大勢見物に集まってきました。そして、物珍しそうに夢中になって見ていると、突然釣り鐘がゴーンとなり出しました。人々はびっくりして村の方を眺めると、村の中央に火の燃え上がるのが見えました。村人は「火事だ」と村に走り戻ったが、どこの家を見ても火事の出た形跡はありませんでした。そこで、「だまされた」ということになりお柳城の釣鐘のところに戻ってみると、釣鐘は勿然と消え失せていました。

  樽石の由来
(この話は、「七ツ石と石仏探訪」(樽石七ッ石保存会、昭和55年発行)収録のものです。本ページに掲載するにあたり、文体等を弱冠手直ししてあります。)

 昔、山に囲まれた小さな村に、太作という心やさしい爺さんが住んでおりました。
 太作爺さんは毎日沢山の荷物を背負って、山に炭焼きに登っていました。すると、大きな狐を鉄砲の先にぶらさげた狩人の伝助がやって来ました。伝助は道楽者のくせに欲張りで村の嫌われ者でした。
 炭焼き小屋泊まりのある晩、太作爺さんはただ一人、松根を灯して好きな酒をチビリチビリ呑みながら鼻唄をうたっていました。太作爺さんがふと小屋の外を見ると、大きな徳利を持った狸が、太作爺さんを羨ましそうにのぞき見していました。やがて山小屋の夜はふけていき、いつの間にか太作爺さんはぐっすりと寝こんでいました。
 真夜中、太作爺さんは変な足ざわりを感じて目をさましました。そして灯をともした太作爺さんはびっくりしました。部屋の中で、大きな狸が徳利をまくらにして、寝息をかいて眠っているではありませんか。
「こん畜生、俺の酒を呑んで眠ってやがる。」そして、「畜生め、夜が明けたら驚くぞ・・・。」と、親切にも狸に自分の着物を分けてかけてやりました。
 山小屋に朝がきて、太作爺さんが目をさましてみると、若者が一人、朝ごはんを炊いていました。でも、若者の後ろからは太い尻尾がでておりました・・・。
 狸の若者は太作爺さんに「私は狸村の酒屋です。昨晩は、爺さんの酒が美味そうでしたのでつい呑んでしまいました。無礼の程をお許し下さい。」と、ていねいにお詫びしました。
「狸の酒ってどんなものか、一杯くれないか?」
「いや、これは空っぽですから、いまもって参ります。」
「俺もいってみんべえー。」
と、爺さんは狸についていきました。
 今まで通ったことのない道でした。やがて大きな石のある所に来ると、狸の若者は、
「このことは誰にも言わないで下さいよ。爺さんのような心やさしい方は安心ですが、欲深い人間に見つかったら、俺たち狸は酒を飲むことができなくなります。だから、固く約束して下さい。これは私の酒石です。ここの栓を抜くと、酒はいくらでも出ます。でも、この栓は人間の力では抜けませんよ。」
といって、狸の若者はくるりと後ろをむいて、石にさしてあつた栓に尻尾をまきつけて、ぐいと抜きました。すると、きれいな酒が樽から出るような音をたてて流れ出てきました。太作爺さんは酒を「すず」一杯につめて、約束を誓つて家に帰って行きました。それから時々狸の酒石から酒をもらっては、仲のいい近所衆や、貧しい人々に分けてやっていました。
 ところが、この話をあの欲張り伝助が聞きつけてしまいました。そして、伝助はある日こっそりと、鉄砲を持って太作爺さんのあとをつけて行きました。やがて酒石の所までくると、いつものように狸が現われ尻尾で栓を抜き、やがて太作爺さんは「すず」一杯の酒をもらって帰って行きました。この様子を見た伝助は、「これはしめたぞ、あの酒を村にもっていつたらひともうけできるぞ!」、と声を出さんばかりに喜びました。そして伝助は、「ようし、あの狸を殺したら酒石は俺のものだ。」と、狸のあとをつけて行きました。そして、太作爺さんに鉄砲の音が聞こえない所で、伝助は狸を撃ち殺し、「ヘヘヘヘ・・・いよいよ酒は俺様のものだ。」と、うすきみの悪い笑い声をたてて酒石に戻っていきました。
酒石に戻った伝助は、「どーれ、一杯呑むかあ、と酒石の栓を抜こうとしましたが、どうしても抜けません。腹をたてた伝助は栓をめがけて鉄砲を発砲しました。すると、大音響とともに石は割れ、石の破片が頭に命中して、伝助はうめき声をたてて死んでしまいました。
 酒は石の割れ目から地下に浸みこんで、その後一滴も出なくなりました。その後、村人はこの石をたる石と名づけたといわれています。現在樽石地区にある大石の一つであるこの「垂石」には大きな割れ目のあり、その割れ目はその時できたものだといわれています。太作爺さんは狸の死を非常に悲しみ、狸の墓を立てて供養したそうです。地名伝説に戻る

  樽石の「大石」
(この話も「七ツ石と石仏探訪」(樽石七ッ石保存会、昭和55年発行)収録のものです。本ページに掲載するにあたり、文体を口語体にし、また少し表現を変えた部分があります。)

 昔むかしのことです。
 林昌寺の参道に登る三辻のかたわらに、大きな大きな石がありました。村の人達はこれを大石とよびました。月夜の晩には、若者達が藁と槌棒とアオ(カケヤ)を持って集まり、石の上で藁打ちするのでした。
 今夜も数人の若者が集まってきました。ウメという娘も来ていました。ウメは父が炭焼きに使う縄を作るために藁打ちにくるのです。気だてがよく活発で、チャッカリやでした。彼女が藁を打つと、誰かが手伝ってくれるのです。これを知って、若者の集まる時刻に彼女はくるのです。それに男まさりの働きもので、頬はいつも紅く冴えてぽってりした美しい娘でした。若者達はいつもウメのお尻を押し上げて、石に登らせるのが楽しみで、若者達は一生けんめい藁打ちを手伝い、毎晩代わるがわる相手にアオや槌棒を持ってくれました。その音は、ドンカエコドンカエコと.月夜の村に響きわたりました。
「おおー、やってるなー、ウメが相手じゃ,なんぼ打ってもくたびんなえべえ。」
夢中で相手をしているうち、 一人の若者は腕の首が痛くなりました。
困ったな、何が治す方法はないべか、と通りがかりの爺さんに聞きました。
じっと腕を見ていた爺さん……、
「これは空腕(そらうで)だ。お前らは男だから女子(オナゴ)の髪の毛ではなく、下の毛を一本混ぜて腕輪にすると一ぺんで治るよ]
といって、爺さんは提灯を足もとに下げながら帰っていきました。
 若者達は、ウメが帰ったあと首をよせて.若い女子のしもの毛をどうして貰うかを相談しました。ウメにはあるだろうか。いやある、と一人の若者はいった。
「この間、女子達が川で水浴びをしていた時、ウメは腰巻をとらなかったいうぜ。」
話は進み、
「いつもすわる処に、鳥モチつけんべえ。」
と、いうことになりました。
 翌夜、一人の若者が早く来て、大石に鳥モチを塗りました。そして、相対する中心に藁を置いて待っていました。やがて、若者達は藁を持って集まりました。うまくいくかな、と誰かがささやきました。
まもなく、ウメが藁を持ってやってきました。
 一人の若者が石の上から手を差しのべ、ウメを引き上げました。ウメはいつもの肌子儒神に腰巻のいでたちです。石の下にいた若者は、ウメの腰巻の裾をそっと引張りました。昔のことだから腰巻きの中は何も着ていません。ウメのお尻は.ベタリと石につきました。ウメは一向に気付かぬように藁打ちを始めました。若者たちは、いつもより張りきって打ちました。ウメはアオを持って力いっぱい打ちます。打ち上げるたびお尻が浮きます。石の上ですから、足がだんだんくずれて広がります。
まもなく、ウメの藁は打ち上げました。
「えがったちゃ]
といって、ウメが立とうとしましたが、ちよっとまごついたのを、若者達は知らぬ振りして石からとびおりるのを見ていました。
歩くのが、なんとなくへんでした。
 ウメは月のものかな、と思っていたかも知れません。ウメのしもの毛が確かに石についたと,一斉に若者達はその処を見ましたが、暗くて判るはずはありません。朝早く来て見ることにして、みんなは帰っていきました。
 ところが.その真夜中、村中をゆさぶる大きな地響きがしました。
 翌朝、若者達が大石の処にきてみると、参道の窪みに大石が逆さになり、みんながすわった部分は真下になって落ちていました。若者達は、きっと昨夜のたたりだと思ったが、誰も口に出しませんでした。
 その後、ウメはくらしの手助けにと遠くの町へ奉公に出て行きました。
 大石の落ちたあたりは埋められて、その姿は地中に没してしまい、いつとはなしにこんな話も忘れさられてしまいました。

  うつぼぎの猿
                 
                                 中村の一本杉
 湯野沢から岩野に上る途中の中村に一本杉が立っています。今の杉は三代目の杉になります。かつての一本杉は大杉で、広さ7畳敷ほどの人間が住めるくらい大きな「うつぼ」と言うほら穴があったので、この杉をうつぼ木と呼び、この付近をうつぼ木と名づけたと伝えられています。 また、この場所には食べ物を恵む神である稲荷神が祀られ、市場が開かれていた。 昔、この大杉のほら穴に藤原某と言う兄弟の猟師が住んでいました。ある日、二人は狩りに行き一匹の母猿を捕まえました。兄はこの猿の毛皮で矢を入れて背負う袋である靭(うつぼ)を作ろうとしました。すると猿は「お助け下さい。山には三匹の子供がおります。助けくれれば、猿酒(山ぶどう酒)を差し上げますから。」と命乞いをしましたが、兄は聞き入れず猿を殺そうとしました。その様子をそばで見ていた弟はかわいそうに思って、兄を説得して猿を逃がしてやりました。その数日後、猿は弟のところへ猿酒と山伏の穿く「うつぼ袴」を持ってお礼にやってきました。それから猿は兎やカモシカなど獲物のいる場所に弟を案内してくれたので、弟は獲物をたくさん捕ることができました。また弟は猿酒や獲物をたくさん売って裕福になったそうです。人々はこの猿のことを「うつぼ猿と」呼びました。
うつぼぎ

  葉山の大蛇
 昔、葉山のふもとに働き者の美しい妻と木こりが住んでいました。木こりは毎日山から木を切っては里に出てそれを売り生活していました。
 ある日のこと、木こりが山で一服していると、一匹の蛇がやってきました。木こりは木の枝で木の葉を打って「シィー、シィー」と追い立てましたが蛇は逃げません。目をじっと木こりに向けたままでした。そこで木こりは今度はたばこを吸い煙をハーッと吹きかけると蛇は煙とともに姿を消してしまいました。不思議に思った木こりが前を見ると30間くらい離れた大木の上に木よりも大きな大蛇が苦しがって巻きついていました。恐ろしくなった木こりは一目散に山を駆け下り、家に帰りました。そして妻に山での出来事を話したところ、妻は何を思ったか悲しい顔になり、家を飛び出し、山に向かってどんどんと早足で入っていきました。「どこへ行くのだ、大蛇に飲まれてしまうぞ、待て」と木こりは止めましたが、妻は振り向きもせず歩いて山に入っていきました。木こりは後を追いかけて探しましたが、探すことはできませんでした。探し歩いてさっきの大木のところまで来ると、妻の姿がありました。木こりが声をかけようとしたとき、妻はみる間に大蛇と化してしまいました。大蛇と化した妻は涙ながらに話しました。「私は以前この山で傷ついて鳶に狙われているところをあなた様に助けられた蛇です。そしてあなたがたばこの煙を吹きかけた蛇は私の父です。私はあなたが慈悲深い御方様と存じ、父と話して助けていただいたお礼にあなたの妻となったのです。父があなたのたばこの煙で苦しんでいる様子を聞いたので見舞いにいかなければなりません。」木こりは蛇の化身であってもまた妻になってくれるように頼みましたが、妻がいうには「もう私の本当の姿を見られたからには人の姿には帰れません。長い間お世話になりありがとうございました。」といって山奥に入っていき、二度と妻は帰って来ませんでした。木こりは信じられない思いで呆然と立ちつくしていました。
 それ以後、木こりは生き物を大切にして暮らしたということです。