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にしかたの昔語り

にしかたの地名伝説



  にしかたの由来

 「にしかた」とは、村山市川西地区の中古・中世の呼び名です。
 にしかたの名が初めて現れるのは、寒河江市史上巻にある慶長2年10月吉日の
「先達宝積坊が、熊野に行者を引率したときの治部少輔旦那之事の中に、出羽国のさがえ・みぞのべ・しらいわ・こたしま・にしかた・しらつ」
とあるのが最初のようです。
 今では「にしかた」の名残りとして、谷地より大石田までの旧道を西浦街道・西街道とよんでいます。
 平安時代、円覚寺領・にしかた・垂石郷の三地区は北寒河江の庄にしかた三郷と呼ばれて、藤原氏の荘園であったと伝えられています。
 父が昭和27年夏、江戸末期の生まれの古老Y翁(当時米寿)が明治20年前後生まれの白鳥のN翁と楯岡の名主の子孫であるK翁やM氏たちに語ったことを記録してたものがあります。当時高校1年の父は、板垣退助並みの顎髯の柔和な顔で眼光鋭く語る姿に大鏡の古老を連想して緊張したとのこと。その時の史談ノートよりの紹介です。
 Y翁談
  「鎌倉から後醍醐帝の頃までは、両所、根際、沢畑、弥勒寺、岩木、湯野沢、上野、長善寺、宝田、大久保、平野、稲下、大槙までの沢畑の根岸街道沿いの村々から北に連なる村々を「北寒河江の庄にしかた」と呼んでいた。これらの村のうち両所・沢畑(水押・三曹司)と吉田・堀口・窪目の五カ郷は、北条時宗の廟所鎌倉円覚寺の領地であった。代官屋敷は谷地工藤小路にあった。この円覚寺五カ郷の北に隣接しているのが、岩木(湯脇)・湯野沢(西垂石、長善寺、水口、宝田)・大久保(大久保、稲下、碁点)・上野(現岩野).大枚のにしかた五カ郷は、北条時宗の領地で、代官の居館は・湯野沢楯・院内山城であつた。江戸時代に代官屋敷跡に住んだ庄屋E家は北条家の家紋三つ鱗を用いている。この「にしかた五カ郷」の北に隣接して垂石・白烏・富並・山ノ内・名取の垂石五カ郷があった。また、出羽三山参りの先達は垂石郷は羽黒山安養院で古口や岩根沢口より登山した。これに対して垂石郷以南の村々の先達は大井沢大日坊や慈恩寺修験で、本道寺口より登山した。垂石郷は天台宗の金剛界大日如来、にしかた郷は真言宗の胎蔵界大日如来であった。また「にしかた」は、西南の熱塩郷・北東の貝塩郷・北の垂石郷・東の白津郷・延沢郷に囲まれた地域であつた。江戸時代は新庄領谷地郷となり、維新後に川西地区となったのだ。」
 N翁・K翁・M翁談
 「にしかた」の名残りとして、谷地より大石田までの旧道を西浦街道・西街道とよんでいる。東の楯岡湯野沢と区別して西の天神湯野沢と呼んだ。戸沢初代藩主政盛公が入部検地の折、西の杜である熊野神社に領内安全を祈願した。岩野嶽山が楯岡の甑岳と争った時、弓矢を射られて禿げ山になったという。「あやにあやに参り」は、深沢でおこなわれるが、南の村々にはなく、湯殿山講だけである。
 平安時代、円覚寺領・にしかた・垂石郷の三地区は北寒河江の庄にしかた三郷と呼ばれて、藤原氏の荘園であつたと聞いている。藤原氏の氏神とされる春日神社が湯野沢に祭られているのはそのためである。またこの地の村々には白山・月山・熊野・八幡神社が祭られている。月山・熊野神の本地仏阿弥陀仏信仰が、天台真言の修験者と遊行僧が結び付いて、古くから浄土宗・時宗・真宗・一向宗の寺院が開山されている。念仏壇聖地や写経・板碑・五輪塔などが残る。湯野沢坊が峰の上野明神原の法衣の壇には五輪塔や板碑の破片が残る。終戦直後まで、ここで一向宗の人々が念仏をとなえる姿が見られた。湯野沢熊野神社は西方郷の総鎮守の杜である。東の杜から西方を遠望すると葉山東麓に黒牛の腹這う姿でこんもりと繁った山である。南北朝時代に東の杜の平長義が南朝方であったのに対して、西の杜の熊野三郎平長盛は北朝方に属したと伝える。またこの杜は山城で白滝城と呼ばれていたと伝える。
 また「にしかた」は、小田島郡衙から見て最上川の西、葉山の東麓で、河北町史にいう北寒河江庄や小田島庄に属した地域であるともいわれています。村山市川西地区は「にしかた郷」の北部にあたります。
  本屋敷
               
                       おやなぎ城(私有地につき立ち入らないでください。)
 「おやなぎ城」といわれる台地があります。この付近を千座川が流れていたそうですが、今は流れが変わつてしまったということです。
 堀をめぐらした屋敷跡があり、昔は湯野沢の集落がこの地にあったといわれています。近辺には天神堂、観音堂の地名も残っています。古い墓もあります。
おやなぎ城の釣鐘
  高欠け
               高欠け
                                  高欠け
 千座川が大久保村に流れそそぐ高台で、土器・石器の発見が伝えられ、湯野沢から大久保に通じる古道がある台地です。

  冨本村はなぜワ冠なのか?
 明治22年に市町村制が施行されてから戦後に村山市が誕生するまで、岩野・湯野沢は冨本村でした。この村名は近年発掘されて話題になった日本最古の古銭「冨本銭」にあやかった村名です。
 湯野沢村史略という本によれば、当時の村長や役人が決めて、郡長寒河江季三が認可した村名です。
 漢和辞典には「富」は家が富む。「冨」は村が富み栄えるとあります。
 江戸時代は新庄藩谷地郷最大の村で、終戦までは北村山郡で一番裕福な村といわれました。
 山野草の肥料や飼料・薪・桑・青そ・萱・木材などの林産物などの産地です。現在でいえば、米から燃料など衣食住の産地だったのです。

  保宝士野のこと
 湯野沢から大久保大原・新吉田の最上川西川岸にかけての平野を保宝篠原と呼ぶ伝えがあります。保は村、宝は農作物の豊かな開拓地、篠原は最上川沿いの美しい原の意だと思われます。湯野沢地区の北東には中村・宇津保木・桜橋・元屋敷・源六橋・前見田・宝・前田など古代集落や条里制跡を推定される開拓名があり、月山堂・春日堂があります。南東の大久保大原から最上川にかけて田野が続きます。これら地名のうち「宇津保木」の「保(村)」と「宝」と「篠原」合わせて呼んで「保宝篠原」と呼んだといいわれています。
 昭和五十六年、河北町畑中遺跡出土の「大山郷」と墨書した須恵器から大山郷を推定する説があります。大山は三代実録にいう白磐神の葉山であると思われます。当地方も大山郷に入っていたと思われます。また、河北町史や寒河江市史は、隣りの岩木吉田境の法師川付近に保宝士野を推定しています。
 このことを考えあわせると、三代実録にいう仁和3年(887)5月に出羽守坂上茂樹が出羽郡井口地の国府を最上郡大山郷保宝士野に移したいと請願した記録は、当地保宝篠原をさしていたのではないでしょうか。

  村山郡の郷について 
 山形県史上巻は、河北町畑中出土の須恵器坏に墨書されていた「大山」の字を証拠に大山郷は河北町付近と推定しています。そして県史は「和名抄」の郷名配列は出羽国に関する限り、郡内の中央にあたる郷からはじまり時計の針と逆の左回りになるとして、村山郡の郷を、大山(河北町)−長岡(寒河江市)−村山(東根・楯岡)−大倉(村山市大倉)−簗田(新庄市沼田)−徳有(真室川または大石田尾花沢)と推定しています。
 この推定については大山・長岡・村山の前三郷はよいとして、後半の三郷は逆の右回りになると考えてもよいのではないかと思われます。
 大倉郷うについては、「大倉」は大きな谷沢を意味しますが、それにしては村山市大倉は狭すぎると思われます。地勢や「大」のつく地名からして、碁点から大高根・大石田にかけての地を推定できるのではないかと思います。この地には河島山古墳群や戸沢地区の条里制跡などがあることからも郷を推定できるのではないでしょうか。
 簗田郷は、大石田町の豊田地区に「ユナダ」の地名が残り、「ユナダ」は「ヤナダ」で「簗」は川岸の地域を現す地名ですこら、これは簗田郷からきた地名と考えられないでしょうか?またこの地は玉野新道沿いにあり、野後駅もおかれた地域でもあることから、簗田郷は丹生川が最上川に合流する地点から丹生川沿いの地が考えられるのです。
 徳有郷は、「トクユウ」→「トキュウ」→「トチュウ」と音変化が可能であることから、村山市土生田地区と推定できるのではないでしょうか。
 後になって大山郷と長岡郷は寒河江荘に、村山郷と大倉郷は小田島荘になりましたが、簗田郷と徳有郷は積雪や季節の違いから、荘園にはならなかったものと思われます。

  山の内地区の地名
  大鳥居
 ここに葉山奥の院の大鳥居を建立したのが地名の由来です。大鳥居は昔次年子、松橋方面や大石田方面からの参詣で賑わい、字大石と共に宿坊村として繁盛した地区です。地元の人は「オンドリ」と発音します。昔この地は葉山の裏参道の入口でした。これは湯野沢よりの表参道に対する裏参道という意味で、別に何かよくない意味での「裏」ではありません。葉山への参道と次年子方面への道との分岐点です。昔はこの大鳥居地区から上は女人禁制でした。山の内字前田に鳥居の礎石や灯籠石がその名残りをとどめています。鳥居下には現在も茶屋と呼ぶ店があります。
  天気平
 この地には昔から麻畑があり、日照り続きの時にこの畑を耕すと必ず雨が降ると伝えられています。
  火の沢
 地元の人は「ヘノザ」と発音します。昔この付近には大日坊があったといわれています。火の沢の入口には「ヤゲ小屋」がありました。この小屋に入って緋の衣を着た僧に出会うと、近い日にその人は必ず死んだと言い伝えられています。緋の衣の僧は極楽から死者を迎えに来るのだと信じられ畏れられていました。
  十郎泣かせの峯
 富並川上流、川が細くなるあたりには、御札を打った所とされる札打ち平とか、子供を瓶に入れて埋めたと伝える松沢橋とか、姥神のます姥沢幣束立て、唐獅子が見つかった水上沢、道祖神のますニヘマタ、岩に手をかけ登った手ガケ沢、カガザなどの地名があります。この付近の峯を十郎泣かせの峯と呼んでいます。
 昔、関東を逃れてきた曾我兄弟は、庄内を経て葉山に入りました。そしてこの峯で兄弟が泣きながら7年にわたる難行苦行を積み、月山に行って月山丸の刀を研ぎ、その後帰国して親の敵をうったと言う言い伝えが残る峯です。かつて山の内地区では五月十七日に曾我祭りをしていたと言われています。

  岩野地区の地名
  巾木田(はばきだ)
 岩野の巾木田地区にかつて不動明王が奉られていました。現在は万年堂として残っています。不動明王堂の裏には杉の大木がありました。毎年4月28日ころ、その不動明王堂から見て白石山に太陽が沈む時期になると、岩野地区では田植が始まる習慣でした。その日には不動明王堂の裏の杉の木に蛇が巻きつくような形にしめ縄を巻き付けました。葉山山中を源流として千座川二の堰から流れる水の流れを蛇に見立て、その蛇が岩野地区に降り立つ様を現したわけです。この神様がアラハバキの神です。そして、不動明王を祀り田植を祝う踊が生まれ、やがて岩野の田植踊となったと伝えられています。ちなみに巾木田地区の名前はその田植(田植踊)の際に着けた脛着(ハバキ−脚の膝下に着ける脚絆の様な防具)に由来します。また蛇は古来瞼がなくとも目が見えることから巾木田の不動明王は目の神様として信仰されてきました。
  明神原
 昔、今の湯野沢と岩野の境界に位置する丘陵、坊ケ峯の明神原一帯には、湯野沢の誠証院を中心として11の僧坊がありました。今、明神原には「法会の壇」という所があり、そこには30O人ほどの修験僧が住んでいたと言われています。そして、岩野の獄山山頂から葉山にかけては修験者の道場になっていました。修験者達は獄山山頂に明神様を祀り、修業に励んでいました。また、その地には天狗が往んでおり、相撲をとっていました。今なお天狗の相撲場土俵が残っているといわれています。
  十用の長の壇
 昔、ある時、岩野と湯野沢地区との間に永い年月にわたる争いが発生し、両村の永年にわたる争いで戦死した人々の多くの首を埋葬したものとされている地名が湯野沢と岩野の境付近に残されています。

  稲下の由来
 稲下(いなくだし)の地名は、地区の鎮守の神、稲荷の神がこの地に稲を下したことから起こったと伝えられています。この稲を最初に植えた田は、「稲荷田」と呼ばれていましたが、現在は土地改良事業によりその影を失っています。(稲下鹿子踊保存会「稲下踊鹿子踊」昭和48年19頁より)

  樽石の由来
 天狗・むじな・もののけの「樽石の由来」参考


  かつぎ沢
 白鳥長久が山形城で謀殺されたことを知った奥方は、密かに谷地より逃げ落ちました。その時、かつぎ(衣)を被り、顔を隠して通った所が、現在の河北町勝木沢といわれています。奥方は勝木沢から湯野沢を通り白鳥に落ちのび、更に芦沢村に落ちのびて、夫の菩提を弔い尼となって晩年を過ごしたという言伝えがあります。

  掘切り
 昔、江戸時代に葉山より流れ出る水に関する水争いがありました。その際に田代方面に流れていたがを堀を切って湯野沢の方に流したことから、その名があります。その時湯野沢のKさんが裁判の際の証人となったといわれています。「新庄古老覚書」という本に、「或人の覚書に寛文五年乙巳葉山境論有之、〇〇〇〇〇〇江戸へ登る葉山坊中鷹を持て網掛納より事起の由、別当は白岩領と云故は葉山の籠堂の辺より出る水白岩ヘ落、比水落次第の領内なれば白岩領無粉由を伸る、坊中云は新庄領ヘ水落侯を別当の私に白岩の方ヘ水を落し侯と云ふ。又別当云元来比の水は白岩の方ヘ落候を止て新庄谷地ヘ水を落し候と云、其の時公儀の御役人被申候は白岩領の水ならば何とて水を谷地領ヘ切落候可訴事を夫をは左無しに年新たに切落たる事、誤り也,新庄領に相極との事にて、別当公事に負て新庄領に定る。」とあります。

  宇津保木(うつぼぎ)
                
                                うつぼぎ周辺
 中村遺跡の一本杉付近の地は「うつぼぎ」と呼ばれています。一本杉の下には稲荷様の祠があります。江戸時代の貞亨年間の検地帳には、「うつほき」「靭木」「宇津保木」「内保木」と記載されています。「靭(うつぼ)」とは、猟師や武士が矢の羽を雨や乾燥から守るため背負った筒状の矢入れのことです。また、「宇津保木」とは一本杉にあった空洞のことを指し、さらには「空衣」と書けば熊野真言宗僧侶の穿くくくり袴のことも指しています。またさらには「内保木」の「保」は昔の村の意味、「木」は、「柵」「城」「砦」を意味しています。昔の一本杉は、今の一本杉より数十m手前の湯野沢側に田中にあったと伝えられています。そこには立て石の祠があって、2〜3本の杉の木と清水のある祭壇跡がありました。この地から、明治10年に日月紋の石斧・石刀(熊野神社蔵、戦後紛失)が発堀されています。N翁さんの話では「祠のそばには空洞のうつぼ大杉があった。この大杉の洞穴には、昔、幼いころの藤原藤房と藤原藤経が猿に育てられて住んでいた。」のだそうです。また「大杉の洞穴に弓矢や刀などの武器を収めていた。」とも話してくれました。さらにこの地は、獲物の分配や交換の場所でもあったといわれています。昔、ある人がこの場所で獲物の分配や交換をしているとき、「ここの川魚は安いよ安いよ〜」と言って、売っていました。それを聞いたある人は、矢棲(ヤスイ)は、矢の巣だから靭木だと言いました。このように食物を安くあたえてくれる場所だから、食べ物をあたえる保食神(うけもちのかみ)である稲荷神を祀るようになったのだ、といわれています。またこの場所には柵が張り巡らされ、柵の四隅には矢羽のように聳立つ大杉があってその姿がちょうど矢の靭に似ていたので靭木と呼んだのだ、ともいわれています。また、中村の中ほどにある砦の意味として、内保城(うちぼぎ)と言ったとも伝えられています。