湯野沢の沿革
湯野沢は葉山山麓から東流し最上川に入る千座川中流域に発達した村です。
大昔、最上川の流れは碁点の岩石にせき止められ、村山市一帯は湖でした。湯野沢はこの湖の葉山のふもとの西のほとりで、魚貝類や動植物が豊かな人の住むに適した台地でした。
明治時代、中村からは、縄文中期から晩期の石器、土器の破片、貝類の化石が発見され、更に昭和57年6月には村山市最大の規模を誇る遺跡が発見されています。他に高欠、中山、水走りなどにも当時の遺跡があります。
後世になり、集落は字天神堂、元屋敷に定住したと伝えられています。
湯野沢の名の由来は、次のように伝えられています。
昔、弘法大師が湯野沢においでになり、弘法寺を開きました。大師は湯野沢山中に鉱泉を発見し、村人たちは鉱泉に入浴した所から湯の入、湯野沢と名づけたといわれています。又熊野沢とも書きました。さらに湯野沢の上を湯上野(現在の岩野)と名づけました。南方の村を湯脇(岩木)、湯わ枝(岩枝)、東方の低地を久保、大窪と名づけたと伝えられています。
中世には村山郡大山郷湯野沢村となり、平安時代のころは藤原藤房の荘園で小田島の荘湯野沢郷でした。坊ケ峯一帯は修験者の霞場であったといわれています。
鎌倉時代、紀伊の三郎という人が今の楯に城郭を構え、周りに人民を移住させて支配しました。また院内山に城を築き、紀州熊野から熊野大神を遷座し、熊野神社宝殿を建立しました。このことから代々熊野三郎を名乗るようになりました。しかし、湯野沢の人々は従来、天満神社を崇拝していたため、字天神堂より天満神社を現在の地に遷し奉ったといわれています。このため本村を天神湯野沢と呼ぶようになったといわれています。
熊野三郎は何時のころからか白鳥十郎に服従するようになり、天正6年谷地城主の白鳥十郎長久が最上義光に暗殺されたときに、最上勢と憤戦し討死しました。以後45年間最上家の所領となりました。
元和8年、新庄に戸沢政盛公がきてからは、湯野沢は戸沢藩領となりました。その後樽石村、長善寺、宝田村(大原村)を分村しました。谷地北口に戸沢藩の代官所がありました。戸沢藩谷地郷の中では最大の村です。
明治に入り岩野村と合併し冨本村となりました。
地名のおこり
今から3000〜4000年前のものと思われる縄文中期から晩期にかけての石器や土器が、湯野沢地区からも発見されています。明治10年、20年、30年代と出土した石器は、戦争中まで熊野神社蔵として村役場や学校に保存されていましたが、現在は河北町に保存されているようです。また、村の人の何人かが、土器・石器・住居跡を見つけています。
しかし、現在のような集落はなく、小集落があちこちに散在していたようです。湯野沢・岩野という現在のような集落ができるのは平安時代になってからと考えられます。
この原始時代のことを、古老たちは、
「大昔、現在の碁点附近は岩山であったため、最上川の流れがせきとめられて、大きく淀んで渦を巻いて、河島山を迂廻して流れていた。だから、西郷から谷地・寒河江までは一つの大きな湖になっていた。湖の西の渚が西根で、東の渚が東根である。」
と伝えています。そして、湖水にちなんだ地名が数多く生まれました。
○袖崎林崎は、陸地が湖に突きでた所。
○河島・浮沼は湖の中に浮ぶ島。
○大淀は大きく淀んでいる所。
○大槙は渦を巻いて流れる所。
これらの台地に集落があったといいます。
最上川が一大湖をなしていたというのは、地理学上は洪積世初期の60万年前の頃ですから、この古老の話はオーバーな表現のようです。しかし、現在でも大雨の時の、河島や大久保の最上川近くの状態や台地の地層によって想像されないでもありません。
この伝えによると、湯野沢は湖の西岸の台地で、このため湖に由来する地名がい<つかあります。
○高欠け 渚の高い崖の意味で、旧葉山中学校の南正面の台地です。
○笹ケ崎・角崎は、湖に突きでた陸地、これも葉山中学校の裏手、北山すその台地の地名です。
○久保・大久保は、湖に注ぐ窪地の意味です。
すなわち湯野沢地区は、昔、千座川が最上川に注ぐ河口にあったわけです。
大雨になると、湖の水が千座川に逆流して窪地に流れ込み、土砂を押し寄せその度に窪地は肥沃な土地になり、農作物がみのりました。
また、葉山の麓の台地なので、兎などの動物や鳥類も多く棲息していたために、人間が生活するのに適当なところでした。 このため、私たちの郷土にも石器、土器時代から人間が住みついていたわけです。千座川岸の台地には、狩猟生活、農耕生活が営まれていました。
伝えられみ遣跡から、その集落をまとめてみましょう。
湯の入り在家
湯の入集落とその北方の岩野村社に至る嶽山下の丘陵に出来た集落です。この地は坊ケ峯峯山の丘陵があり、平安時代のころから、霞場といわれ、修験僧(山伏)たちの修行する場所で、十一坊の宿坊があったそうです。
湯の入村
湯野沢・岩野の地名のおこりとなった集落です。昔、葉山に来た弘法大師が、水飢饉に苦しんでいる人々をみて地面をついて水をだそうとしたところ、温泉がわきでたのだそうです。この僧は弘法大師でなく、真済という僧であるとも伝えています。
この真済という僧が、東側の熊野山中に弘法寺を開基し、守護神として熊野大神を祭りました。それで、古くは熊野沢と書いて「ゆうの沢」と読んだとも伝え、熊野山中に至る入り口の村という意味で「ゆうの入」と読んだのだそうです。天保年間には神鏡が、温泉を掘るとき出土されています。猿楽殿といった神聖な地名も残っていますし、湯野沢の長松院も文明年間にこの地に開山されました。今は寺屋敷の地名がのこるだけです。
吹上村
湯の入川と福平から流れる川が合流する付近にあった集落で、岩野よりにあったといいます。E家蔵の寛政8年4月の枝郷新田畑相改帳には、吹上村は何十年前になくなったのかわからない。今は家がなくなっていると書いています。
山添村と平林村
両村とも、岩野の嶽山下台地、湯の入村から、岩野の熊野神社にかけてあった集落で、湯の入村の湯の上の村であつたために湯上野(ゆわの)と呼んでいました。江戸時代に嶽山の神様が、怒って地滑りを起こし、埋まってしまいましたので、現在の岩野村に人々は移ったのだそうです。
また、江戸時代までは上野と書きましたが、明治時代から、寒河江市白岩の上野村と間違えられるので、岩野と字を改めました。ですから岩野と書いても、湯の上の村ですので、地元の人々は今でも「ゆわの」と呼ぷのだそうです。
楯在家(水走り村を中心とした集落群)
この地は、湯野入北の獄山下の集落に対して、南側の修験道場と思われる熊野山から宇沢山に至る山陵の東側の台地に起こった集落です。熊野山から流れる院内川と塔の沢川が合流して、滝の沢となり、久保で宝川とさらに合流して千座川にそそぐ川に沿った台地の集落です。今の八幡・天神・楯・八木沢・下小路・宝・久保地区です。
水走り村
前の吹上村と同じく、寛政8年4月の技郷新田畑改帳には、「家8軒」とあります。今の天神地区の奥、水神から楯・八木沢にかけての集落を呼びます。水神には水神様が祀られています。戦後に付近を開墾したNさんは、炉や住居の跡を発見しております。
久保村
今の久保地区の集落です。番匠面、的場付近の田から、土器の破片、石器、住居跡がみつかっています。
また、宝地区の宝というのは、平安時代のころの開拓の意味です。
天神在家(千座川沿いの集落群)
中村
峰山下の宇津保木の付近にあった集落です。明治10年代と明治22年の2回にわたり、Nさんの田から、石棒などの石器や土器、住居跡がみつかっています。付近の中村橋からは貝塚なども発見されています。本村の最も古い集落であるといわれてきました。条里制などもしかれていたと伝えられています。
昭和57年6月、県文化課の調査により複式呂跡が発堀されました。村山市最大規模の遺跡です。
集落の統合と村の成り立ち
このようにみてきますと、私たちの村は山沿いの線上にできた集落と、千座川沿いに発生した集落に分けられます。
湯野沢の集落は、最初中村にありましたが、後に本屋敷に移住し、久保集落と統合したといわれ、平安時代に藤原師実という人が、天神を天神堂に祀ったと伝えています。それで、天神村といったのだそうです。また、水走りという地名は、作物を実らせる水の走る地の意味で湯野沢の古名だといわれています。
これらの村の人々は、今よりも温度の高かった湯の入の温泉に入浴していましたので、いつのころからか湯野沢村と呼ばれるようになったそうです。そして、水走り村、天神村を1つにして名づけた名前が天神湯野沢なのです。
鎌倉時代の初期、建久年間(1200年代)に、紀伊の国の三郎という人が村に住みつき、今の楯地区に楯屋敷を築き、熊野山北奥の院に砦を造り、週辺の集落を楯屋敷の周囲に移住させたと伝えています。この時、本屋敷、久保などの信仰する天神様を現在の地に遷座したのだそうです。また、天神湯野沢の名は、楯岡の湯野沢と区別するために天神湯野沢郷と呼んだのが由来といわれています。
湯野沢という意味は熊野沢郷の郷名で、熊野神の信仰からきた名前で「熊の入(ゆうのいり)」「熊わの(ゆうわの)」熊の沢(ゆうのさわ)(塔の沢)などの村々を総合した呼び名です。また、湯野沢郷を中心として、湯の脇の村の意味で「ゆわき」(岩木)と呼び、「ゆわえだ」(岩枝)は湯野沢の枝郷の意味でよんだのだそうです。
また、大久保は千座川の大きく窪んだ所、樽石は、郷村の「北のさいはて」の村という意だそうです。
湯野沢という名が記録にあらわれるのは江戸時代のことですが、鎌倉時代(1200年)ごろには、湯野沢、ゆわ野の呼び名があったのでしょう。