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にしかたの昔語り

大久保小史



    大久保市の町
 大久保南東の千座川河口船戸付近には市の町がありました。かつて大久保地区は仙台多賀城を発し関山・白津の郷(東根東部)を通り大久保・湯野沢を経て温塩郷(白岩・葉山)に至る東西の道と、平安時代の郡衙跡とされる南の郡山(東根南部)や谷地・寒河江から馬の産地だった北の駒居村(富並)や大牧村(大槙)に至る南北の道との交差点でした。この大久保地区にある八幡神社境内には大久保古楯という城がありました。奥州藤原氏が東北地方を支配していた平安時代は、馬・砂金・衣が中央政府に納税されていたといわれています。大久保市の町は平泉から派遣された保司・庄司と呼ばれる人たちが、農民から年貢として徴収した農産物を中央政府への納税品である馬・砂金・衣・毛皮などと交換する市が開かれていたものと推測されます。大久保市の町は、農産物を金銀・砂鉄・馬・布に換える文物交易の場所として隆盛を極め、最上川は往来する川船で賑わったことでしょう。また後述の大久保古楯は市の町を野党盗賊から防ぎ治安を守る役目を果たした平安時代の楯城であつたと思われます。大久保宝鏡寺近くには市神碑と市神地蔵が祀られています。また、大槙船橋の袋町地区には藤原氏の信仰した白山神社や荷渡燈明仏があり、その地にも市の町があったことが推測されます。
                      
                                 市神地蔵
                                御詠歌

幾歳か
慈悲の笑顔の
お導き
守り給えや
いつの世までも
  大久保に残る城跡
  大久保古楯
 大久保には大久保楯と大久保古楯と2カ所の城跡があります。大久保楯の城主は最上家三代斯波満直の三男満頼とされています。また、大久保主馬という殿様が湯野沢の窪地下の大窪地の台地に楯を構築したという伝えもあります。満頼入部以前に築かれた大久保古楯はその地にあるお寺の名前から宝鏡寺楯ともいわれています。この楯の東と北側は5メートルほどの天然の土塁となっていて、南側は千座川の自然要塞となっています。西側には楯の守護神八幡神社があり、門前の地名と二の丸濠跡があります。大久保古楯は対岸東南の元長瀞城と対時する楯と位置づけられ、土塁下の川沿いには谷地道と呼ばれる道が最上川西岸沿いに走り、河北町吉田付近から大久保地区西北の田村川河口台地・碁点・大槙袋町へと通じています。白水川沿いに長瀞・六田・東根城へと東進する道が通じています。最上川対岸に長瀞との入会地があります。
                
                                大久保八幡神社
  大久保城
  大久保城は始め寛治年間(1087頃)、今の宝鏡寺と八幡神社敷地に俘囚(いわゆる蝦夷)が築いたといわれますが詳細ははわかっていません。その後 応永5(1398)年斯波満頼入部の時、俘囚の砦を修復して大槙袋町から進出してここに居住しました。元亀2(1571)年以後は現在の大久保小学校敷地とM家〜H家のあたりまでを城地とし、南の堀までを家臣団の屋敷を置き、城内に十一面観音堂と愛宕神社を祀りました。城の周囲に空掘を掘りましたが、後に自然に湧水 して水濠となりました。水堀の中を本丸とし、外濠 を南千座川、北田村川、東門前、西口はK家 の前、福昌寺西側の土手には小路がありました。 慶長7(1605)年2月に落城。その後 11代大久保主馬丞が入りましたが元和8(1622)年 最上氏が改易されたとき館も廃止され、以後民家となりました。大久保楯は戦国時代の平山城で、東方の大久保古館と対になった城のようです。本丸と思われる内曲輪は約120m四方あり、南側は千座川を前に急峻な崖になっています。北側を流れる田村川を外堀に見立て、東・北・西側は自然の土塁となっており、西側〜北側と、楯外北東側に水堀があり、ここから大久保古楯に向かう通路があります。地区内通路は碁盤の目になっており、本丸(現在の大久保小学校)の南は楯下釜があり、崖下は千座川沿いの田畑が続く。楯下釜には真言宗薬師寺、西楯下には真宗願善寺、時宗福昌寺、真言宗無量院があり、寺町となっていました。また本丸内には愛宕堂があります。これは城下町を思わせる町の作りです。地区内には門前町や市の町の地名を残しています。
                          
                             楯下釜愛宕堂(小学校敷地内)
 南北朝の動乱が終ってまもない応永年間、斯波満直の三男満頼が大久保保古館に入りました。その子孫大久保主馬が戦国期にこの城を築いた伝えられています。この楯が構築された背景には、前述のとおり最上川沿いの古道が交差する他郷との文物の交易の場に適していたことがあるのでしょう。また江戸時代に分村されるまで、樽石、長善寺、水口は湯野沢領地、稲下、碁点は大久保領地でした。
 大窪城主考
初代満頼(漆山殿大窪殿)
  城主大久保満頼の名は三代(通算85年間)襲名されています。太田亮氏姓氏家系大辞典「渋川氏斯波家」 系図を見ると、斯波三代は渋川満頼の兄の長男、斯波四代は満頼の六男、長男を天童殿に養子として自らは九州探題となっています。応永4(1397)に博多に逃れ、兄は戦死、その際行く末を奥州斯波氏に託したのが始まりで、寛正年間(1460頃)斯波大崎氏は亡び、斯波大崎探題は伊達家がつぎました。その頃斯波氏は山形殿(斯波兼頼)のみとなっていました。満頼は斯波三代の三男としています。最上系図によれば、兼頼(左京太夫)−満直(修理太夫)−満頼(右馬頭、大窪殿)とあります。考えさせられることは、山形城主が左京太夫で満頼が右馬頭という数段上の官位である事は、満頼が室町幕府から相当重視された人物であった証でもあります。