にしかたの昔語り
楯岡史畧記
以下の文章は大正2年12月田中吉二という方が書かれた「楯岡史畧記」という資料の前半を現代語訳して再構成してみたものです。資料には「明治42年3月25日山形県立村山農学校第7回卒業記念帖中に同校教諭小野里萬蔵氏の調査記載したものを写した。明治25年7月25日楯岡高等尋常小学校編輯「楯岡郷土史談」という本を大正2年12月写した。本書に付属して沿革地図(軸物)があるが原本は所在不明である。」と記載されています(下図はそのコピーをレタッチしたものです)。楯岡満茂が没落して秋田に移っていった、等少し疑問がある記述もありますがそのまま現代語に置き換えてみました。現代誤訳になっている部分は管理人の不勉強によるものです。申し訳ありません。
楯岡城
ここ楯岡の地は古代は大和朝廷の支配の及ばない地域でした。大和朝廷は古代から東北地方を支配しようと軍を進めて奈良時代楯岡地方も大和朝廷の支配下になりました。「楯岡郷土史談」によれば「往昔最上川の水路開けず流を塞ぎ渺茫たる湖水をなし東根、西根(今ノ寒河江の北)林崎袖崎等其の沿岸なりしが天平(1390年頃)の頃僧行基行脚して此の地を廻り湖水の状を見て碁点を開き.水路を通じ一大廣地を得たり」とあります。つまり楯岡は昔は湖の底で東側のみ陸地でした。古代は東根から荷渡地蔵で船の荷物を受け渡し六月坂を経て鷹返楯山の間を過ぎ湯沢に出て擶山へと道が続いていました。行基が湖水を開削した後も道筋は変わることなく、湯沢〜諏訪山下に人家が形成されました。行基の力で一大湖水は一大平野となり、人々は田畑を開拓して生画することができるようになりました。
小松沢観音は天平9年行基の開基で行基自ら弥陀・薬帥・観音の三尊を彫刻して安置したので岩上三所権現といいます。行基は後に観音様を小松沢に移し、岩巌寺を建立し別当寺としました。今の清浄院です。小松沢よりさらに古いのが甑岳の頂上にある観音様です。甑岳の観音様は孝徳天皇の時代道照和尚の開基で後に弘法大師が自ら弥陀薬師観音の尊像を彫刻して安置されたといわれていますが今は衰退しています。
天和8年の楯岡沿革図
さて、楯岡の人口は次第に増えていきました。しかし生活が豊かになるとそこに争いが生まれ、最終的に楯岡にも城が築かれるようになりました。楯岡の東北にある楯山即ち楯岡城です。廃城になってから約400年が経ち地形も変わって今はかつての城の姿を確認できるものはなくわずかに循岡小学校の側及び横町に細長い溝梁の様なものが見られるのみです。かつて楯岡城は楯山だけではありませんでしたが現在の町内のどの範囲まで城内であったのかは不明です。楯岡上の南には西根城、西に白鳥城、長瀞城があり、当時の豪族が勢力を競っていたものと思われます。最初に楯山に城を構えたのは前森氏で、承元年中(今から約700年前)のことです。前森氏の来歴は不明で、ただ氏を前森、名を今嶺といい先に山月楯に城を築きましたがそのわずか3ヶ月後に楯岡城に移ったとだけ伝えられています。前森氏は恐らく地元の土豪であったものと思われます。前森氏は代を重ねること4代、下綱の時没落して越後国に落ちていったと伝えられています。
前森氏の系図
一代 前森今嶺 承元2年(1207年)山月楯より移る。愛宕神社は永保年中より甑岳に祭られていたものを承元2年今の晦日町に移したといわれています。
二代 同泰嶽
三代 同泰院.
四代 同下綱 文応元年越後へ没落す。
愛宕神社
前森氏の次に楯岡城主となったのが本城氏です。本城氏はもと里見氏を名乗っていましたが弘長元年楯岡城に入り「本城」と名づけ氏も本城と変えました。本城氏についても詳しいことはわかっていません。本城氏は5代続きましたが応永12年に没落しました。
本城氏の系図
一代 本城関山 弘長元年入部
二代 同涼山
三代 同泰国
四代 同風国
五代 同安国 応永十二年没落
本城氏に代って楯岡城主となったのが最上伊豫守満国です。満国は当時の山形城主斯波兼頼の曽孫満直の次男です。名門大名最上氏の支族が領主となった楯岡城下は繁栄したことでしょう。湯沢白山神社は満国入部の際の鎮護として祀れたといわれています。湯沢の字祥雲寺も応永年中満国の開基で最上氏代々の菩提寺です。満国は祥雲寺に深く帰依し壮大な伽藍を建立し仏供料15000苅を寄進したといわれています。(にしかたのお寺さんにもどる)最上氏は楯岡城を改修・拡大し家臣の屋敷が城の周囲に建てられ、周囲には町民の居住地が広がって商業が繁栄しました。最上氏時代が楯岡の全盛期です。
祥雲寺 白山神社
最上氏の系図
一代 最上伊豫守満国 応永13年山形より入部
二代 仝河内守満正
三代 仝和泉守満
四代 仝豊後守満春
五代 仝長門守満康
六代 仝因幡守満英
七代 仝豊前守満茂(重)
最上氏時代の全盛期は満国の時で石高4万8千石(4万5千石ともいわれています。)、30ほどの村落を支配下に置きました。最上氏は以後7代続きましたが慶長4年(文禄3年ともいわれています。)最上満茂の時没落して秋田県湯沢、後由利本庄に移っていったといわれています。最上氏没落の後は楯岡城とともに楯岡の町も衰退しますが、中山玄番という城主を経て最上兼頼から数えて9代の孫(最上義光の子といわれています)山野辺右エ門が慶長5年〜元和3年まで18年間楯岡城主となりました。この時代、慶長7年佐竹氏が秋田に国替えになると、六田宮崎より楯岡を過ぎ林崎に至る道が開かれ、これを秋田街道といいます。その道筋に新たに二日町、八日町の町並みができました。この地域を本町といっています。これと区別して従来の集落を本郷と称して楯岡の町は2つに分かれる姿となりました。山野辺氏の後は山形藩家老先信越前守、元和4〜8年は多田甲斐守義宗(義賢)が高擶から楯岡城に入部してきました。この多田氏が楯岡城最後の城主です。多田氏の事蹟の詳細はよく分かりませんが多田氏の時に市が開かれていたといわれています。当時市は二日町地区に開かれ、城の南側には家臣の邸宅が広がっていました。また当時尾花沢の銀山が繁栄していて銀山に移住する者が多くこれにともない楯岡の町も繁栄していたといわれています。また多田義宗当城入部の際八幡、天神の両神社が勧請されたといわれています。この時期建立されたといわれる社寺としては他に白山神社、愛宕神社、本覚寺、得性寺、正應寺、開端寺、浄覚寺、祥雲寺等がありますが、これらの神社仏閣について詳しい創建時期などは不明です。また湯沢の溜池を築いたのも多田氏であるといわれています。多田氏滅亡の有様は不明ですが、尾花沢銀山の繁栄と衰退が大きく影響していたものと思われます。多田氏滅亡以後楯岡城は廃城となり荒れるがままとなりました。
八幡神社 天神社
天神社の「誰袖の碑」という石碑があります。伝説によれば文面は「誰が袖とおもふばかりぞたのもしや ぬしあらはれて名こそはづかし」という和歌が刻まれているといわれ、この碑の由来についての悲話が伝えられています。昔禁中の仕人に野武外記という者がありました。外記は横笛の妙手でした。外記は間女御という者と共謀して大罪を犯してしまい、都を逃れ出て東北の地までさすらい逃れ、楯岡に潜伏していましたが2人はとうとう捕らえられ処刑されてしまいました。女御は処刑される際恨みをのんで衣の片袖に一首の歌を書き残したといわれています。
誰袖の碑
最後に多田氏没落後明治維新に至るまで楯岡を支配した領主を記します。
最上源五郎義俊 最上氏一族です。最上氏改易後どのようにして一時楯岡を領するに至ったかは不明です。
鳥居氏 元和八年最上氏に代って山形城主となりました。2代14年続きましたが寛永13年改易となりました。この間楯岡と湯沢を領地としました。
保科氏 寛永13年より同20年まで7年間山形城主として楯岡を領す。
徳川氏 寛永20年から文政6年に至る80年間楯岡は幕府直轄領でした。
阿部氏 文政6年より弘化2年まで12年間は奥州白河城主阿部氏の所領でした。
秋元氏、弘化2年より明治3年に至る25年間は上州舘林藩秋元氏の所領でした。