北村山郡内における小学校創立事情
学制に対する庶民の認識
明治政府は明治5年に学制を頒布し、以降全国に学校教育が形成されていきます。北村山郡内においても明治12年頃までにほぼ全村に学校が開設されました。この背景には次のような庶民感情があったものと思われます。
1、明治新政府や政府派遣官僚たちへの反発とコンプレックス。さらには劣等感解消のための努力。
2、旧藩時代からの寺子屋や塾などの地方教育。
3、地方庶民の中央文物に対する憧憬と好奇心。
各小学校が発行した沿革史や記念誌には、明治初め、戊辰戦争の記憶もまださめやらぬ中、各村民が小学校の創立に苦闘する姿が描かれています。
北村山郡内の学区制
山形県は明治9年に現在の姿となりましたが、この時県内は県→大区→小区→町村という行政区に分けられていました。さらにこの行政区の中に中学区・小学区を設けて官立学校の創立をすすめています。明治5年の学制では全国を8大学区(翌年7大学区に改正)に区分し、1大学区を32の中学区に、1中学区を210の小学区に区分して、その学区単位に大学・中学・小学を設置しようという計画でした。山形県の中学区は村山・置賜2郡に3区、最上郡に1区の4中学区が置かれ、その下の小学区1区に10校程度の小学校を設立する計画でした。小学区はおおむね行政区の小区に該当します。北村山郡の東根地区は第8番中学区、村山市河西地区と大石田町横山地区、村山市河東と楯岡方面・尾花沢市・大石田町は第9番中学区でした。(以下の文章については、文末の北村山の学校一覧表をご参照ください。)
北村山郡内の小学校創立事情
学制による学区制の基準は人口13万で1中学区、人口600人で1小学区が基準でした。山形県内では北村山郡内のほぼ旧各町村単位を小学区に区分したようです。小学校の設立費用は各町村の自己負担とされましたが、当時の村の財政で学校を設立するのは大変なことでした。明治6年の米価は1俵1円50銭でしたが、学校を設立するには700円が必要だったといわれています。古老は「岩野村、河島村では700円の資金を各戸に割りあてたが集まらず学校を設立できなかった。」と証言しています。また、生活のための知識は旧来の塾や寺子屋・師匠の家で学べば十分で学校は必要ない、という庶民感情もあったと思われます。
こうした事情をうけ、山形県史によれば、山形県は学区を人口30万で2中学区と48小学区に変更し、1小学区の平均人口を6700人としました。そして明治7年には小学区を438にまで増設し、県民の学校に対する認識を高めるために、十数ケ村をまとめて1小学区とし、まず行政区1小区の中に模範的な官立学校を1校開校させ、その後学区内の各村に10校前後を設立しようとしたようです。北村山郡内では明治6年9月18日大久保願善寺に十二ケ村連合学校が設置されました。他に明治6年創立の北村山郡の小学校には以下の学校があります。
明治6年5月25日 第7大学区第8番中学区第10番小学区表瀞学校
明治6年7月27日 第7大学区第9中学区開通学校
明治6年8月22日 第7大学区第9中学区湯沢学校(長林寺内)
明治6年9月3日 第9中学校区第8番小学区楯岡地学校(熊林寺内)
明治6年10月 芦沢学校(種林寺)
明治6年12月 大石田・大石田本町・四日町・新大石田村今宿村5ケ村連合大石田学校(浄願寺)
他に林崎学校、本飯田学校、土生田学校、鷹巣学校、沼沢学校があります。
北村山郡の属した第9中学区内は戸数22,936戸、人口135,833人。学校数は本校20校、分校4校、生徒数は男子4,256人。女子795人でした。就学率は低く、特に女子就学率のの低さが目立ちます。番号や地名外の名を付した学校は、学区内の6才から12才までの児童を調査し開校された官立小学校でしたが、実態は旧寺子屋や塾を学校と読んだだけの小学校もあり、こういった学校には小学校学齢に達した児童だけでなく4〜5才児や17〜18才の青年まで就学していた小学校もありました。各小学校の設置場所は新政府が定めた区制と旧幕藩体制時代の行政区の両方を基準にしています。また旧藩時代の旧習から「昔は楯岡の学校には行かず長瀞学校に通学した」(村山市河島地区の古老の証言)ということも行われていたようです。
学校設立気運を醸成した人々
小学校は表面上、地区民が自主的に創立したように見えても実際には地元とって大きな負担であり、財政面や運営面で苦労しながら現場で学校教育を庶民に広めていった指導者たちは、政府の役人ではなく、地元の旧藩体制から地元に存在した村役人や、寺小屋や塾の師匠その他地元の知識人たちでした。
先に述べた連合学校は数ケ村から学校資金を徴収し開校したため、開業するまでには各村間でいろいろな軋轢が生まれたと思われます。たとえば大久保12ケ村連合学校も各村からの資金徴収によって開校されましたが、地元以外の入学者は各村2〜3名の児童しかいません。こうした村民感情を調整し、納得させ、指導したのは旧藩時代に大庄屋等を務めるなどして各村の民情に通じていた学区取締役と呼ばれる人たちでした。また当時の各村学校教師には臨時的な仮教師が多く、彼らの中には真の学校の姿を理解しておらず、小学校を旧来の寺小屋・塾と同じものと考えている者もあり、そういった教師たちに近代的な学校教育を行うように学校の運営や教育方法を監督・指導していたのも学区取締役です。同時に県からも学区訓導が定期的に各村学校に派遣され教師への助言指導を行っていました。
教員の確保も苦労の種でした。官立学校を設立するためには教師免許状を持つ教師が必要であり、教師になる人物を探し、教師免許状取得のための講習に参加させるための費用を確保するのにも苦労しました。ちなみに明治10年4月には山形市常念寺に山形師範学校の前身ともいえる山形伝習学校が開設され、各村官立学校の教師たちが受験して入学し、卒業すると官立学校の授業生や訓導の資格を与えられました。こうして学校の仮教師は淘汰されていきます。
各学校の児童は下等8級、上級8級に分けられて6か月教育をうけた後、試験を受けて合格すると8級卒業証書をもらえました。その後は6か月ごとに試験を受けて進級し、4年で下等卒業試験を受けて上等1級に進級、上等1級終了後に上等試験を受け小学校卒業となりました。上等・下等試験は大試業と呼ばれ、学区内中心校において数校合同で実施されました。進級試験や卒業試験の試験官は県から出張した上記の学区訓導であり、試験問題も学区訓導が作製しました。当時、各学校の仮教師や授業生は試験場に児童を引率するだけで試験官になることはできませんでした。試験は学区取締役や官役人等の官員立合いで実施され、父兄の参観も自由でした。
某所でスキャンさせていただいた撮影時期・場所不明の写真です。明治時代の師範学
校関係者の写真ではないかと推定しています。
学校教育に対する認識を醸成した人々
次に学校教育に対する認識を醸成した人々として村や町の知識人達がいます。彼らは寺子屋や塾等の師匠であり、旧藩時代からの知識人であった人達です。彼らの多くは学校開校と同時に教師となった人々が多く、彼らは仮教師・授業生と呼ばれました。こうした塾や寺子屋・師匠の家・講中は各村に藩制時代から存在していました。学制設置前からあった塾の一例として東根市長瀞の寒河江吉二塾を紹介します。
「寒河江吉二は号を市隠と称し、長瀞学校の創始者である。彼は長瀞藩代官であった根本荘右エ門塾に学んだ。根本は米沢興譲館に学び天保年間ごろから代官となり塾を開いた人である。寒河江吉二も塾を開いていた。学制公布前に寒河江吉二は「外国と対等に交際するには、一国の富強をはからねばならぬ、富強の根源は学問にあり」と考え、各村に「教学堂」を設ける必要があるという意見書を太政官に提出した漢学者である。尊王愛国の精神を主眼として、新庄の吉高謙邦、天童の吉田大八との親交があったという。彼の塾に学んだ門人の中には、山形県会議長になった大槙の高橋勝兵エ、楯岡の工藤治平、河島の工藤嶺次郎、海軍少将の細谷権吉、大淀の鈴木清音、大槙の高橋広などがいる。これらの門人は、みな明治時代の指導者として、政治行政や学校教育の中で活躍した人々である。」(長瀞の教育百年史)
他には菅原万蔵の四教所塾などがありました。これらの塾や寺子屋の師匠や門人として学んだ人々が、各村の学校開設の指導者となっています。前述の大久保十二ケ村連合学校学校では、当時大久保村の知識人であった願善寺住職の溝邊大熹と医師の松田元安が推薦され、両名は数日間の教授法講習会に参加してそれぞれ1等仮教師、2等仮教師の資格を得ています。他に学校設立に指導的役割を果たした人たちとしては、村で俳諧などをたしなんでいた村役人や農民・商人等の村の文化人・知識人がいました。
学校設置場所と皇学教育
北村山郡の明治8年府県公立小学校一覧表によれば、明治6年から明治8年まで創立された郡内の学校は、寺院仏宇29校、民家7校、郷蔵、陣屋各2校、会所、新築各1校の42校となっています。このうち郷蔵、陣屋、会所、新築の各校は公有、他は全て借用校舎です。旧藩時代で学問をするところといえば寺子屋、教師といえば僧、神官というのが一般的でしたから、寺院借用校舎が多いのは当然ともいえますが、学校が設立された寺院にはその寺院が当時神道国民教化を担っていた寺院であったという特徴があります。明治2年政府は神祇省を設置し、神道宣教師を任命して神道による国民教化を目指していました。明治5年に神祇省は廃止され教部省が設置されて、全国に教導職訓導が任命されました。教導職訓導の資格には教正、講義があって、それぞれ大・中・小の身分資格がありました。政府は東京に大教院を設立して各県には中教院を置き、大教正を任命して派遣しました。山形県の中教院は現山形市の宝憧寺に置かれたようです。中教院からは教導職取締り訓導を各小区の説教所に派遣して、布教の状況報告を義務づけたり教導職の教育をしていました。宝憧寺では教部省から派遣された大教正による講習会が開かれ、県内各村の村役人、神官、僧侶たちを受講させて小講義訓導の免許状を与えています。行政区の小区内には説教所が置かれ、各村の寺院1ケ所に小教院を設置しました。少講義の訓導資格を与えられた人々は、小教院の教師となって各村寺院に設置された小教院で各村の6才〜17・8才の子弟を集めて敬神愛国の精神を教化ました。小教院の教化内容は、神仏分離・祭政一致・祭教一致の布教政策でした。教科は、皇政一新説、文明開化、皇国国体説、政体各種説、万国交際、律法沿革、人類禽獣、労心役助、富国強兵、刑法民法、権利義務、産物製物、租税賦験、道不可変、制可随時、不可不教、不可知学で、その他読み、書き、筆算、書簡文まで多岐にわたりました。
これらの説教所の設置された寺院、すなわち明治政府の国民教化政策を行っていた小教院のあった寺院に、明治6年9月までに官立の小学校が創立されたものと思われます。前述のとおり明治6年に北村山郡内には12校の小学校が創立されていますが、説教所は11箇所で1小学校分不足します。推定ですが第3大区3小区の松前藩の沼沢あたりに設置された可能性があります。
北村山郡内には明治13年までに小学校61校が創立されています。これは学制にいう1小学区平均人口600人として、地域事情を考え行政区小区一区内に10校程度設立しようとした県の計画はほぼ達成されたといえます。
学校創立月日について
湯野沢学校(現冨本小学校)の創立までの経過を湯野沢学校の沿革史他の資料からみてみます。
明治6年12月 湯野沢村5〜12才学令児童調
明治7年7月 長松院に神道家菅原万蔵を招き、村の教導職3名で小教院を開設し、生徒50名に講義
明治8年3月 村役が集まり小教院に学制に照準した官立小学校を創設することを決議、小教院の教導職3名を教師にすることを県に申請。3名は教授法講習会に出席
明治8年4月14日 長松院にて小学校設立会議
明治8年5月19日 熊谷昇官立小学校2等仮教師の免状を認可され、設立願提出。開莚式典挙行
明治8年6月22日、小学校開莚届書差出、県第五課から派遣された訓導、当地区学区取締役、寺崎仁右エ門他、官役人等の授業視察や審査を受ける
明治8年6月27日に官立小学校として認可
湯野沢小学校は上記5月19日の設立願提出を以って創立記念日としています。この時の学童50名は小教院の時からの学童が大部分でした。また、小教院は小学校創立以後も夜学校として開設・継続され、村の青年の教育の場とされています。他の北村山郡内各小学校では各地区の実情により、創立年月日を創立式典日にしたり教師辞令年月日にしたりしています。
おわりに
北村山郡内に小学校が創立される過程を見てみると、学制発布当初は学校に対する庶民の理解は低く、村の指導者たちが村民の教化と行政布達、隣村同志の斗争への対応等に苦慮する姿が浮かんできます。また明治政府や県は学校設立を督促、強制するといった強力な教育行政指導をする一方、小教院等を設置して庶民の徳育を強化し、旧来の藩制下の風俗、習慣を改めさせ、啓蒙することも行いました。そしてこうした関係各機関や村内の各村旧藩時代からの指導者たちが、北村山地域に近代化をもたらした人々であったともいえるのではないでしょうか。
湯野沢小学校実業補習課集合写真(大正5年ころ)冨本小学校百年誌より
参考文献
上倉裕二 山形県教育史 昭和27年3月発行、山形県教育研究所
大久保小学校百年誌 昭和49年3月発行、大久保小学校百周年誌編集部
戸沢の学校教育百年誌 昭和51年11月発行、戸沢の学校教育百年誌編集部
冨本小学校百年誌 昭和52年3月発行、冨本小学校百年誌編集委員会
富並小学校百年誌 昭和50年3月発行、富並小学校創立百周年記念事業実行委員会
楯岡小学校百年誌 昭和49年9月発行、楯岡小学校百周年誌編集委員会
寒河江小学校百年の歩み 昭和48年11月、寒河江小学校創立百周年記念事業会
北村山郡の学校 明治13年小学校表により作成61校
行政区 |
名称 |
所在地(すべて北村山郡) |
設立年(明治) |
明治6・7年設立校 |
教員数 |
生徒数 |
日々出席生徒平均数 |
学校長或首座教員 |
設立校舎 |
公・私有別 |
男 |
女 |
男 |
女 |
第1大区15小区 |
川原子 |
川原子村 |
7年 |
民家 |
借用 |
2 |
0 |
45 |
0 |
35 |
谷是水 |
田麦野 |
田麦野村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
27 |
3 |
20 |
谷是水(兼務) |
道満 |
道満村 |
7年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
40 |
0 |
35 |
谷是水(兼務) |
神町 |
神町村 |
8年 |
旧寺院 |
借用 |
1 |
0 |
20 |
5 |
20 |
谷是水(兼務) |
山口 |
山ロ村 |
7年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
39 |
0 |
33 |
谷是水(兼務) |
第2大区8小区 |
大槙 |
大槙村 |
9年 |
? |
? |
3 |
0 |
59 |
9 |
50 |
高橋謙 |
白鳥 |
白鳥村 |
7年 |
寺院 |
借用 |
3 |
0 |
53 |
9 |
60 |
高橋謙(兼務) |
樽石 |
樽石村 |
7年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
31 |
0 |
22 |
熊谷昇 |
岩野 |
岩野村 |
9年 |
? |
? |
0 |
0 |
39 |
2 |
31 |
熊谷昇(兼務) |
湯野沢 |
湯野沢村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
3 |
0 |
54 |
10 |
57 |
熊谷昇(兼務) |
大久保 |
旧新庄氏領大久保村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
80 |
0 |
45 |
熊谷昇(兼務) |
横嶺 |
横山村 |
7年 |
旧陣屋 |
公有 |
3 |
0 |
51 |
2 |
47 |
小杉道徳(兼務) |
田沢 |
田沢村 |
12年 |
? |
? |
1 |
0 |
40 |
0 |
35 |
松永常吉 |
富並 |
富並村 |
7年 |
民家 |
借用 |
4 |
0 |
73 |
12 |
50 |
松永常吉(兼務) |
稲長(ママ) |
稲下村 |
11年 |
? |
? |
1 |
0 |
44 |
10 |
45 |
高橋謙 |
第3大区1小区 |
東根 |
東根村 |
7年 |
旧陣屋 |
公有 |
7 |
0 |
150 |
22 |
103 |
遠藤茂作 |
観音寺 |
観音寺村 |
9年 |
? |
? |
2 |
0 |
55 |
7 |
46 |
遠藤茂作(兼務) |
関山 |
関山村 |
9年 |
? |
? |
2 |
0 |
50 |
5 |
49 |
遠藤茂作(兼務) |
川原 |
白水村 |
7年 |
民家 |
借用 |
4 |
0 |
73 |
7 |
68 |
遠藤茂作(兼務) |
野川 |
野川村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
35 |
0 |
28 |
遠藤茂作(兼務) |
沼沢 |
松前氏領沼沢村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
3 |
0 |
37 |
0 |
33 |
遠藤茂作(兼務) |
猪野沢 |
猪野沢村 |
8年 |
民家 |
借用 |
2 |
0 |
22 |
1 |
18 |
遠藤茂作(兼務) |
宮崎 |
宮崎村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
26 |
4 |
26 |
遠藤茂作(兼務) |
六田 |
六田村 |
7年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
30 |
5 |
25 |
黒田吉兵衛 |
第3大区小2区 |
羽入 |
羽入村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
40 |
7 |
40 |
豊田四藩士 |
荷口 |
荷口村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
24 |
0 |
22 |
門山留蔵 |
今町 |
今町村 |
12年 |
? |
? |
1 |
0 |
52 |
6 |
49 |
門山留蔵(兼務) |
藤助新田 |
藤助新田村 |
7年 |
旧郷蔵 |
公有 |
1 |
0 |
39 |
1 |
25 |
庄司重義(兼務) |
蟹沢 |
蟹沢村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
4 |
0 |
90 |
13 |
95 |
庄司重義(兼務) |
郡山 |
郡山村 |
13年 |
? |
? |
1 |
0 |
24 |
0 |
22 |
横山弥七 |
野田 |
野田村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
3 |
0 |
44 |
8 |
48 |
清野武君 |
長瀞 |
旧米沢氏領長瀞村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
4 |
0 |
151 |
16 |
90 |
庄司重義 |
第3大区3小区 |
河島(杉島) |
河島村 |
7年 |
民家 |
借用 |
5 |
0 |
88 |
5 |
83 |
黒田吉兵衛 |
名取 |
名取村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
3 |
0 |
43 |
0 |
37 |
黒田吉兵衛(兼務) |
塩川大淀 |
塩川・大淀村 |
8・9年 |
新築 |
借用 |
1 |
0 |
11 |
4 |
12 |
小杉道徳 |
長島 |
長島村 |
13年 |
? |
? |
1 |
0 |
16 |
3 |
15 |
小杉道徳(兼務) |
湯沢 |
旧幕領湯沢村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
54 |
9 |
50 |
後藤元俊(兼務) |
擶山 |
擶山村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
53 |
12 |
49 |
後藤元俊(兼務) |
林崎 |
旧幕領林崎村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
34 |
4 |
22 |
後藤元俊(兼務) |
楯岡 |
旧秋元氏領楯岡村 |
6年 |
民家 |
借用 |
6 |
0 |
282 |
53 |
300(ママ) |
後藤元俊 |
第3大区4小区 |
本飯田 |
旧幕領本飯田村 |
6年 |
旧郷蔵 |
公有 |
1 |
0 |
54 |
4 |
45 |
後藤元俊 |
土生田 |
旧松前氏領土生田村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
65 |
10 |
65 |
後藤元俊(兼務) |
五十沢 |
五十沢村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
33 |
0 |
30 |
後藤元俊(兼務) |
大石田 |
旧堀田氏領大石田村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
6 |
0 |
91 |
25 |
107 |
黒川金太郎 |
豊田 |
豊田村 |
12年 |
? |
? |
1 |
0 |
36 |
0 |
28 |
黒川金太郎(兼務) |
第3大区5小区 |
海谷 |
海谷村 |
9年 |
? |
? |
3 |
0 |
42 |
6 |
29 |
黒川金太郎 |
鷹巣 |
旧松前氏領鷹巣村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
33 |
3 |
29 |
黒川金太郎(兼務) |
次年子 |
次年子村 |
12年 |
? |
? |
1 |
0 |
26 |
5 |
26 |
黒川金次郎(ママ)(兼務) |
芦沢 |
旧幕領芦沢村 |
6年 |
寺院 |
借用 |
1 |
0 |
35 |
8 |
37 |
黒川金次郎(ママ)(兼務) |
名木沢 |
名木沢村 |
8年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
24 |
2 |
24 |
加藤隆瑞 |
寺内 |
寺内村 |
9年 |
? |
? |
1 |
0 |
40 |
0 |
18 |
加藤隆瑞(兼務) |
牛房野 |
牛房野村 |
10年 |
? |
? |
1 |
0 |
19 |
0 |
14 |
加藤隆瑞(兼務) |
第3大区6小区 |
尾花沢 |
旧幕領尾花沢村 |
6年 |
旧会所 |
公有 |
5 |
1 |
138 |
49 |
130 |
加藤隆瑞 |
正厳 |
旧幕領正厳村 |
11年 |
? |
? |
2 |
0 |
35 |
0 |
30 |
吉田震之助 |
丹生 |
丹生村 |
9年 |
? |
? |
2 |
0 |
40 |
0 |
30 |
吉田震之助(兼務) |
富山 |
富山村 |
9年 |
? |
? |
4 |
0 |
65 |
8 |
60 |
吉田震之助(兼務) |
鶴巻田 |
鶴巻田村 |
11年 |
? |
? |
2 |
0 |
42 |
0 |
36 |
柴田林吉 |
上柳渡戸 |
上柳渡戸村 |
11年 |
? |
? |
2 |
0 |
41 |
0 |
35 |
柴田林吉(兼務) |
延沢 |
旧幕領延沢村 |
7年 |
寺院 |
借用 |
2 |
0 |
47 |
0 |
40 |
柴田林吉(兼務) |
細野 |
旧幕領細野村 |
7年 |
民家 |
借用 |
2 |
0 |
34 |
1 |
30 |
鈴木武雄(兼務) |
六沢 |
旧米沢氏領六沢村 |
7年 |
仏宇 |
借用 |
2 |
0 |
64 |
0 |
50 |
鈴木武雄 |
参考資料
北村山郡内全小学校昭和62年度学校経営山形県史山形県教育史資料1巻
山形市教育史長瀞・戸沢・大久保・冨本・楯岡・寒河江・常盤の各記念史
山形県教育史河北町史山形県市町村合併誌
(この文章は「北村山郡内の小学校創立の諸相−山形県成立前後を中心として−」昭和62年度山形県立楯岡高校開放講座、「村山市河西地区にみる小学校創立の背景について」昭和53年3月山形県立谷地高等学校研究集録、およびにしかた物語原稿をまとめたものです。文責は管理人にあります。)
管理人の考え
思うに明治初めにしかたの地に小学校を創設するために立ち上がった人たちは当時地区内最高水準の知識人たちだったわけですが、彼らのかかげる教育とはいわゆる徳育、人格形成のための教育であり、明治政府の行おうとしていた学校教育とは微妙に方向性が異なるものだったのだと思います。彼らは当時一流の漢学者・儒学者たちであったわけですが、明治政府の設置した学校はいわば富国強兵のための知識を培う学問をするための機関であり、彼らの理想とした教育とはかけ離れた教育内容だと感じたのではないでしょうか。溝延大熹も菅原遯も地区内の小学校校長にはなりますが、すぐその職を退いてしまっております。創立期を過ぎた学校は、知識人たちのなかでもある程度若く柔軟な考えを持つことができた人たちがいわゆる和魂洋才の考えのもと、新しい教育制度を推進し発展させていったのではないかと思っております。だからといって小学校創成期に活躍した溝延大熹や菅原遯をはじめとする小学校創設の立役者が時代後れの人だったわけではありません。彼らはその後学校教育以外の自分の得意とする分野で活躍していくことになるのです。