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にしかたの昔語り

明治天皇御巡幸記




 今から135年前の明治14年、明治天皇が山形県内を御巡幸になりました。その時北村山郡内を御巡幸された時の様子を詳細に記した『明治天皇御行幸五十周年記念「御巡幸を偲びて」 北村山郡郷土研究会 昭和7年発行』という冊子(私の手元にあるのはコピーです)があります。ここではこの「御巡幸を偲びて」の記述の内、舟形から楯岡までの御巡幸の部分を抜粋・抄訳して紹介します。地名・日時などは当時のものです。例によって誤った点がありましたら管理人のミスです。135年前、若き明治天皇はどのような思いで北村山の地をめぐられたのでしょうか。また北村山の人たちはどのような思いで明治天皇陛下をお迎えしたのでしょうか・・・。
 
  9月28日(山形県内御巡幸第7日目)
   舟形から尾花沢まで

 明治天皇ご一行は9月28日午前7時10分新庄行在所を御出発になりました。
 この日は晴天で残暑厳しい折でしたが陛下はいたく御元気な御様子で船形町の細梅九左衞門の開墾場に臨幸遊しその事業を御嘉賞され、細梅九左衙門に「賞」の金文字入りの木盃三つ組等をご下賜されました。臨御の際、六頭牽のブラウ二組で馬耕を実演し、御前に詳細を御説明申上げ、農場産の西瓜を献上しました。九左衛門はその時から内膳課臨時御用係を拝命し、各御小憩所及び行在所に西瓜を献上しました。開墾地の御小憩所跡には樹木を植えて記念碑が建てられています。
 開墾場を出発された明治天皇は朝日沢で衣服を御召換になり猿羽根峠へと向かいました。猿羽根峠は昔から雪崩が多い険しい道として知られていましたが、明治10年に新道が開通していました。時の中山高明北村山郡長は郡境での奉迎凖備を特に入念に行い、頂上にはイヌツゲの木で緑のアーチを設置しこれに多くの紅燈を吊して飾りました。また山麓にも緑門を設けたとの事ですが判然としません。さらに猿羽根峠は難所なので陛下は御板輿をご使用になられることが予想されたため、御召換のための御小憩所を頂上と麓の二個所に設置しました。頂上の御小憩所は猿羽根峠の新道が一目に見渡せる眺望のよい所で、湯野沢村海老名徳太郎外16名の献金により建設されました。山麓の御小憩所は佐藤理吉(当時の請負大工?)が建設しました。
      
        猿羽根山明治天皇小憩所記念碑                 猿羽根山地蔵尊から最上川を望む
 当日は見事な秋晴の日で道路状態もよく明治天皇は御板輿をご使用にならず六頭曳の御馬車で猿羽根峠新道を通りそのまま名木沢の御小憩所に向かわれました。このため頂上と山麓の小憩所への御立寄りはありませんでした。名木沢から猿羽根山付近では中山高明北村山郡長以下郡吏及び各村戸長、付近の小学校児童を始め一般民衆数千人が道路の両側に堵列し陛下の御馬車を御待ちしました。道路中央部分は一間幅に白砂を敷き詰め、その両側には注連縄を張り、各戸に日の丸の国旗と紅燈を掲げました。この地区で各戸に国旗を掲げたのはこの時が最初です。国旗は郡役所が各戸に配布したといわれています。
 御行列の次第は下記のとおり。イラストは「日本の軍装−幕末から日露戦争」中西立太著 大日本絵画2001年より。   

地方警部(騎馬)    
御旗
 地方警部(騎馬)
 
騎兵 
 
 
騎兵(騎馬) 

近衛佐官(騎馬) 
 
騎兵(騎馬)

 近衛士官(騎馬)
 上
御馬車(宮内卿一員御陪乗) 

近衛士官(騎馬) 
侍従(馬)  侍従長(馬)
侍従(馬)    親王(馬) 侍従(馬) 
  大臣参議ノ内(馬)   
  宮内輔(馬)   
近衛局佐尉官ノ内(馬)   地方長官(馬)   宮内書記官(馬) 
   
騎兵士官
 
喇吹手騎兵(馬)     騎兵(馬) 
 

 明治天皇は大元帥服の御姿で丹塗の御馬車に南面してご乗車になり、徳大寺宮内卿が御陪乗されました。陛下のお姿は実に神々しく、始めての行幸を民衆は感激してお迎えしました。(管理人 上のイラストでは軍人のみのイラスト(一部日露戦争当時のものもあります)ですが、恐らく随行の人たちも礼服などの洋装をしていたと思われます。当時の庶民の服装からはかけ離れたきらびやかな軍装・洋装を見せられた庶民はそれだけでもう、天皇陛下御一行が特別な存在であることを印象づけられたのではないかと想像します。)
 名木沢村の御小憩所は眼下に最上川が流れる風景絶佳の所で、亀井田村の井刈徳次郎等数十名が舟に乗り投網を打って漁業をする様を御覧に入れました。また白帆をあげ船歌を謳いながら船舷をたたいて遡上して来る船が5〜6隻あり、陛下はその様子を殊の外お気に入りになられました。漁った魚数百尾は尾花沢の御昼所及び楯岡行在所まで献上しました。陛下は名木沢村の御小憩所に30分ほど滞在されました。御小憩所跡には明治天皇行幸御小憩行在所跡の標杭が建てられています。
                        
                                名木沢御小憩所跡
  
      御小憩所近くの農村公園からの眺め(その1)                 御小憩所近くの農村公園からの眺め(その2)
 その後ご一行は芦沢、野黒沢を過ぎて荻袋御小憩所にお着きになり、興業社の開墾場や躍龍石という珍しい化石を御覧になられました。興業社の開墾は長瀞村の寒河江季三という人が尾花沢、長瀞、林崎、東根諸村の民と協同して開墾していたもので、この日は数百人の農夫が畑を耕しているところを御覧に入れました。またこの日天覧に供した躍龍石とは玉野村粟生の名主生田十兵衛が玉野原を開墾しようと水源調査をした時、粟生で発見した刺楸(ハリキリ)の木の化石のようです。これを明治14年7月郡内から延人数4000人の人夫を徴発して荻袋御小憩所まで運搬したもので、発見当時長さ三丈、直径五尺もありましたが運搬の途中二つに折れてしまいました。これを継いで一本として天覧に供するのは恐れ多いということになり、ありのままの姿で二本として土を高く盛上げた上に立ててご覧に入れました。陛下はこれを躍龍石と命名され御興深くご覧になられました。折れた石二本の中一本はその後誰かが庭石として運び去ってしまい今は残り一本だけになっています。この石を持っていくと貧乏になると言い伝えられています。
                  
                   躍龍石                      躍龍石上部?間違いですと大変失礼なことになってしまいます
                                           ので場所は伏せます。

 荻袋御憩所を出発されたご一行は尾花沢村に入られました。尾花沢では村の入口に縁門を設け、道の両側には球燈・国旗を掲げ、近村の人民が沿道両側に拝跪してお迎えしました。明治天皇は午前11時50分柴崎家にお着きになられました。これより少し前、有栖川宮熾仁親王殿下は尾花沢小学校をご訪問され、児童の学習状况をご覧になり、鈴木弥兵衛宅にて御昼食をおとりになりました。柴崎家は当時弥左衛門と呼び当地の富豪で三島県令の指揮のもと本屋の一室(八疊間)を御料理室にあて、本屋の西にあった二階建の離れを修築し、庭園には人磨の石碑(別名沢潟の碑)を建て、二尺位のたらいに入れた香魚五尾と籠に入れた白色のチャボ数羽を供へ、その外に自製の生糸等を天覧に供しました。弥左街門は陛下に拝謁し「大切に保存せよ」との御言葉とともに三つ組の銀盃を下賜されました。弥左衛門は感激して
 「明月や 光の洩るる 草の庵」
と自製の句を奉りました。この日献上した香魚の御料理は塩焼二尾、甘煮二尾、吸物二尾、焼魚二尾で御箸三膳を供えました。
 当日供奉員の御憩所は
      有栖川宮熾仁親王 鈴木弥兵衛方
      徳大寺宮内卿   鈴木久左衛門方
      大隈參議     長井利右衛門方
      杉宮内大輔    鈴木市兵衛方
      大木喬任     木内養齊方
      侍従       柴崎弥左衛門方
      大蔵省諸官    鈴木小三郎方
      騎兵隊      鈴木八右衛門方
 で、青木勘兵衛等が紅餅を作ってこれら従官に奉りました。參議大隈重信は御代巡として乗馬で玉野村粟生の生田十兵衛の開墾地を視察され、左の歌を詠まれました。
「玉野原 開墾地を見に行きて 大君のめぐみの 露の玉の原 年ある秋の 色ぞ見えつ」
 ちなみに沢潟の碑とは一條天皇の御宇、実方中将が天皇の不敬を蒙り奥洲に左遷された時、和歌名所の阿古野の松を訪ようと出羽の国に入り当地において詠んだ歌を刻んだものといわれています。天保13年、柴崎弥左衛門が大道寺の田を見回っていた時、田の水口に渡した石に文字の様なものが見えたので雇人に田の水で洗わせた所、かすかに文字が読めたのでこれを保存していたものです。
  尾花沢から楯岡まで
 明治天皇は尾花沢で約一時間御昼憩遊され、御機嫌麗しく一路羽州街道を袖崎村土生出にお入りになられました。
 さて、ここから少しの間土生田の方からご提供いただいた資料を要約して紹介させていただきます。
明治大帝と長清水
 明治大帝東北御巡幸の際土生田平山慶次郎家に御休憩当時の概況
 9月28日明治天皇は新庄をお立ちになり猿羽根峠を越えて福原芦沢最上川岸にて最上川の景色を眺められ荻の袋原にて畜牛放牧を御覧になりました。牛は土生田の豪農平山慶次郎所有のもので、地区の農家に領けていたものを集めたものです。当時土生田には200頭の牛を放牧できる場所がなく荻の袋原を放牧場に選んだものです。世話役及び説明役は慶次郎氏の甥に当る平山民次郎で、その時かたわらにいた民治郎の長男朔次郎は幼いながらも御付の方々の問いによく答え、陛下は「賢い子だよく説明できる」とおほめの言葉をおかけになり、陛下に献上された西瓜に砂糖をつけたものを二切れ与えられたそうです。
 牧牛の天覧は尾花沢柴崎弥左エ門宅で御昼食中に陛下の御希望によるもので、平山慶次郎は一気に土生田まで走り帰りお迎への準備をしました。慶次郎は土生田の豪農で邸宅の敷地は約3000坪、玄関付の大家屋で土蔵があり、勝手の柱は尺角の面無しで子供が柱のかげに隠れると見えないほどでした。国道より玄関までは洗い小砂利を敷き清め、通常使用している門では恐れ多いとして門をわきに移転し丸柱二本を立てて陛下をお通ししました。後にこの門は尾花沢の頼明寺に移転しています。御休憩中平山家飼育の乗馬をごらんに入れたところ「馬のさばき方上手なりし」とのお言葉をいただきました。楯岡町に出発される際土生田村の消防隊は消防の衿天を着て長柄のトビを持ち国道の両側に整列し御警護申し上げました。平山慶次郎には御紋章入り三ッ重の盃一組と金30円の外に「牧牛首唱者平山慶次郎へ」と特記した金15円が与えられました。陛下が平山家に御休憩されることとなった背景には当時平山慶次郎が進めていた牧畜業振興事業を御奨励したいという大御心があったものと推察されます。御休憩所となる前にはあらかじめ下検分があり最初三島県令、その次に山縣有明公、さらに三條実美公の検分がありました。検分時に平山家に御泊りになられた際は当時高貴の方々に対し給仕役を務めた経験者がいなかったことから民治郎の妻フデがその役を勤めました。
 本記事はフデが亡くなる年、慶司を枕辺に呼び話せし事をそのまま記したものです。
 本書は土生田○○○氏所有の文書より写書したものです。
ここから再び「御巡幸を偲びて」にもどります。
 近在の老若男女の民衆は何れも道路の両側に蓆を敷き拝跪してお迎えしました。五十沢、土生田、本飯田の各小学校児童と消防夫は土生田村の北端に整列してご一行をお迎えしました。午後2時15分、ご一行は土生田村平山慶次郎宅に小憩止され、木盃等を下賜されました。平山家の東方には長生水という泉があり、水質がよいので御膳水に供されました。今は荒廃して籔に覆われていますが、この長生水は江戸時代の代官や昔の豪族安食大和守の居城での飲料水として使用されていたと伝えられています。
           
         長生清水碑 地元の方の話では戦後?周辺を開墾した際に水脈が移動してしまい水が涸れたのではないか、というお話でした。
                  
                         尾上の松 当時は夫婦松だったようです。
 平出家を出発されたご一行は本飯田村の南端に設けられた御馬ロ洗所に到着し、陛下はそこにあった尾上の松を興味深くご覧になられました。その後ご一行は午後4時30分頃楯岡行在所にお着きになりました。楯岡では村の北端(今の二日町)にあった大槻の木の所にアーチ形の杉の緑門を設け、街道の両側には青竹を立て円形提灯を一間毎に吊しました。赤または赤白に染めた提灯と毎戸に掲げられた国旗で町内は美しい光景となりました。道路の中央に一間幅に盛砂をし、砂利を敷きつめて、住民が通行して踏み固めたといわれています。今の大石洋品店から北に通ずる道は喜早氏が東沢へ御臨幸を願うために開設したものです。
 行在所は楯岡村中組の名主であった本陣笠原茂右衛門方とし、非常御立退所を喜早伊右衛門東沢別邸と定め、御膳水は小関伊七方の井戸から献上しました。行在所は今の笠原家の土蔵のある場所で、玉座を設け庭には枝振りのよい松と庭石を集めて庭園を作り、池には大盡川から水を入れて大きな鯉を放ち、門の前には竹矢来をして芝を盛上げ国旗を左右に立て、行在所の高札と菊の御紋章付の大提灯を吊し、近衛兵の歩哨が立ちました。この行在所は明治24年に笠原家が焼失したため現存していません。御巡幸に際し笠原茂右衛門には三つ組の木盃が下賜されました。小関伊七方の井戸は楯岡で最も水量が多くかつ水質も良かったので御膳水として奉りました。供奉員の御宿所は以下のとおり。
       北白川宮能久親王 高宮太右衛門方
       有栖川宮熾仁親王 原田吉右衛門方
       大木喬任     細梅九左衛門方
       徳大寺実則    高宮良助方
       杉孫七郎     同
       大隈重信     鈴木伝兵衛方
       金井之恭     村川彦吉方
       山本義方     戸田三右衛門方
 9月28日午後4時頃有栖川宮熾仁親王は明治天皇の御名代として御乗馬で楯岡小学校を御巡覧になりました。当時小学校の教員は男7名、女1名、児童は男256名、女164名で児童を代表して齋藤豊太郎君が奉迎文を読み上げ奉りました。次に親王は喜早伊右衛門の築造した溜池を御巡視になられ、後10月1日御賞詞を伊右衛門に賜わりました。
 この日楯岡では仙台市から花火師を招き月見の花火、枝垂桜等数十発の花火を上げて臨幸をお祝いしました。
 9月29日(山形県内御巡幸第8日目)
  東沢臨幸
              
                     喜早伊右衛門                  喜早溜井之碑
 28日夜から雨が降り出し雨は翌朝になっても止みませんでした。29日早朝三島県令が喜早伊右衛門方に乗馬で立ち寄り「喜早はいるか?陛下は特に東沢に御臨幸になられるぞ」と申伝えました。喜早氏は感激すること限りなく躍り上がって夫婦共に人力車で東沢に急行し陛下をお待ちしました。陛下がわざわざ御旅程を変更され、雨の中を御臨幸されるのは異例の事で、その影には三島県令の力添えもあったものと思われます。午前8時、陛下は雨の中行在所を御出発になられ東沢へと向いました。住民は道の両側に堵列してお迎えしました。東沢近く、大沢溜池の少し先では道の両側に十数名の農夫が鉢巻をして稲刈を御覧に供した所、陛下は御満足の御様子で次の御製を供奉員に賜りました。
 「豊年の 稲刈る賤の うれしさも 穂にあらはるる 秋の小山田」
三島県令は大いに感激して御製に和して左の和歌を詠じました。
 「民草も 山田の稲も 穗に出でて 行幸をまねく 楯岡の里」
 臨幸所に到る道は臨時に造られたもので路面が十分固まっていなかったため新しい筵を敷きましたが、前夜からの雨のため御車の轍が泥にはまり進まなくなったので、数名の人夫が御車の後をお押しました。御車が東沢溜池に到着すると陛下は御臨幸所にお入りになり溜井の水や工事の状况をご覧になられ御満足の御様子でした。侍従から「喜早伊右衞門」の呼び声があったので、伊右衛門は平身低頭、玉座を拝し廊下に額づき感極って感涙に咽びました。次に陛下は玉座の北側に連ねて設けられた間口六間、奧行三聞半の物産陳列所にお入りになり、当地物産の数々を御覧になられました。陳列した物産は葉烟草、米、麦、大豆、小豆等、珍しいものとしては松の根元に松茸の生えたものや、寺内産の石炭、生きた亀等もありました。この亀は後ほど献上されたとのことです。御臨幸所は現在の行幸の松のある所に設けられ、北南西に廊下をつけ中央に八畳の部屋があって天井を含め柱はすべて杉の柾目を用い、屋根は木羽葺でした。
                    
                                行幸の松
 玉座は部屋の中央に桐製の卓子を置いて萠黄色の掛布で被い、一個の椅子を備え、傍に喜早家の盆栽(樹齢およそ百年位のつつじと羅漢松等)を供えました。溜井では小野善蔵という者が投網して魚を漁りこれを二尺に四尺位の大たらいに入れてご覧に入れたところ、陛下は手袋を脱いで、たらいの中をかきまわしてお遊びになられました。また玉座の西、溜井の中の水辺に土俵を作り、草角力を十数番御覧に入れました。ある力士が泥中に投げられて全身真黒に泥まみれとなり眼だけが白く光ったのを見て陛下は殊の外面白がられ、御声も高々と御笑いになられました。その後陛下は楯岡にお戻りになり、行在所にはお立ち寄りにならず、ご機嫌なご様子で神町へと御出発になりました。この時小学校児童は新町に整列してお見送りしましたが、陛下は特に児童達に対して会釈を賜わられました。
 臨幸所の建物は明治20年まで保存されていました。行幸後三島県令が東沢に来遊した時に臨幸所の建物で休憩したことがありますが、その際県令は廊下には上がりましたが中央の玉座の間には入らず、椅子卓子には手さえも触れませんでした。明治20年、臨幸所は喜早伊右衛門の銅像から三間ほど前方の位置に移転し、その際に床下を三尺高くして数段の階段を設け、覆い屋を建てて保存しました。臨幸所跡には宮城県から7尺余りの黒松を求めて記念木として植え「行幸の松」と
              
                               臨幸所保存跡地
命名しました。この松は二丈位に伸びたとき枯れてしましましたが、初代の松の実から育てた第二代の行幸の松を植え直しました。臨幸所は明治35年9月28日の大暴風で全壊し、残材を使って遙拝所を元の陳列場の北に建設しました。この時の暴風雨で陳列場も倒壊しています。
 9月29日、明治天皇は楯岡を御出発、午前9時頃神町小学校に御立寄りになられました。神町小学校は明治14年7月起工し同年9月落成した和洋折衷の三階造のハイカラな学校で、御座所は当時の小学校の体操場の位置にありました。残念ながら当時の神町御巡幸に関する記録は残されていません。陛下は神町小学校に御小憩の後、南漆山へとご出発になりました。

管理人の感想
 当時においては−今もそうですが−天皇陛下が自分の住む地においでになるということは大変名誉なことで、一生に一度あれば幸運な出来事であったと思います。ですから巡幸地では採算を度外視してお迎えする準備を行ったことがわかります。また、東沢臨幸で「陛下がわざわざ御旅程を変更され、雨の中を御臨幸されるのは異例」という記載がありますが、御臨幸の様子からすると臨幸所に行く道が既に造られていたり御臨幸所や物産陳列所まで設置済みであることからすると、予定外ではあったけれども全く突然の御臨幸だったとは思えません。恐らく山形県御巡幸が決定する前後には巡幸地や巡幸場所をめぐって相当な招致合戦があり、あらかじめ御臨幸をいただくための施設を用意した上で御臨幸を申請する事があったものと推測します。その結果、採算を度外視し大変な苦労をしてお迎えする準備をしたのに御巡幸の対象からはずれてしまった場所や施設もたくさんあったと思われます。また猿羽根山の御小憩所のように大きな負担をかけて作ったのに当日になって予定をキャンセルされてしまった所もあり、関係者にとっては泣くに泣けない出来事であったのではないでしょうか。また当時26歳の若き天皇は、案外庶民にとっても親しみやすい御容姿であったのかもしれません。明治天皇はその後偉大な明治聖帝としての道を歩まれていかれますが、庶民にとってはだんだん近づきがたい聖なる存在となっていってしまわれたような気もします。