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にしかたの昔語り

明治維新における国民教化



  明治維新における国民教化
 明治政府は明治2年、神祇官と太政官を設置して神道の国教化を推進しました。明治4年には神祇官を廃止して太政官の中に神祗省を置き、さらに明治5年3月神祗省を廃止して教部省を設置するとともに天皇崇拝と神社信仰を主とした三条実美の「三条の御教旨」を布告し、東京に大教院・県に中教院・各地に小教院を置き、神職や教導職訓導(神道の宣教師)を養成して大・中・小教院講師に任命しました。教導職訓導は神道以外の宗教も含めた全宗教による天皇制と神道国教化の教師でした。山形の中教院は旧真言宗宝憧寺廃寺に置かれ、中教院訓導たちは説教所を巡回指導し、教導職を取り締まっていました。
 村山市河西地区の皇学・神道国教化は、明治4年の長善寺里正今義知・菅原遜による四教所塾が初めと思われます。当時村山市河西地区に政府任命の神職は存在せず、上記の人たちは旧来の法円や別当から復飾した社人や神官でした。その後村山市河西地区には明治6年設置と思われる教部省8小区説教所が大久保説教所が大久保願善寺に置かれました。願善寺内の説教所では、当地区内の神仏両宗派の代表的立場にあった、願善寺住職溝延大熹、神道家萱原万蔵、湯野沢の熊谷昇の3名が、各村小教院にいた小教院講師たちの教化にあたっていました。彼らは幕末に京都や江戸に学び、中央の情勢に通じ、将来の日本を見通す力を持った当地区の先端を行く文化人で、地区行政や神社の運営にも指導的役割を果たしています。明治7年には横山陣屋・岩野郷蔵・富並浄土宗西念寺・白鳥真宗頓善寺・大槙真言宗光照院・稲下時宗耕福寺・大久保真宗願善寺・樽石真宗金覚寺・湯野沢曹洞宗長松院に少教院が設立されています。
 熊谷昇は明治5年6月に教部省から教導職訓導辞令を受け、明治6年5〜7月桑野真澄に従って皇学を修めた後、教導職取締出張所から訓導身分の教導職14級試補の辞令を受けています。同時期萱原遯は10級試補でした。溝延大熹は明治6年9月一等仮教師に任命され12カ村連合大久保学校創立時に首座(校長)になっていることからすると、教導職10級試補には任命されていたと思われます。試補とは教導職訓導見習いであり、正式資格を得るにはなお3〜6ケ月の実務期間が必要でした。
 これら3教導職たちは、仏学・漢学・儒学・国学.皇学.書道を修めている点が共通しています。教化の対象は青少年で、当地区内の古老たちによれば彼ら教導職たちの神道国教化法や形式は「小教院に限らず各村を巡回し、寺院や村役の民家をも訪問して天之御中主之神から天照大神・大国主之命に至る神々の系図の掛け軸を祭壇にかけ、三条の御教旨に基づいて日本は神国であること、天皇の御国であることを説教する。その後祝詞を奏上して玉串拝礼をする。次に僧侶が読経して線香をあげる」といった神仏混交の天皇崇拝と神道教化であったそうです。
 しかし、全国では神仏の教義の違いから明治8年真宗4派が教導職を脱退し、また国家神道と宗派神道との間にも論争がおきるようになり、その後は神官のみが教導職になるようになりました。大久保説教所では溝延大熹にかわり神官芦野又作が教導職になったものと思われます。明治6年創立の大久保12ケ村連合学校を除いて、明治7年設立の各村小教院は明治8〜9年の問に創立された各村の小学校の母体となりました。各小学校草創期の学校教員を見ると、小教院で皇学・神道国教化を担った地元の神官・僧侶・村役・知識人の名が多くみられます。前記の3人の内溝延大熹・熊谷昇は仮教師に任命され首座(校長)になっています。もう一人の菅原遯は明治10年頃湯野沢学校の夜学校教導職訓導となった他、各村小学校でも神道国教化にあたっていたようで、各学校に菅原遯の書や逸話が伝わっています。また菅原遯は楯岡に楯岡修斉社・霜瓦塾を結社し、吟声君が代による皇学教化をしています。
 ところで、当時山形県から神社の祠官・祠掌に任命されるためには、教導職資格が条件とされていました。10級以上は祠官、10級以下は祠掌と呼ばれ、祠官・祠掌でなければ郷社・村社の宮司にはなれませんでした。菅原遜は湯野沢熊野神社祠官、熊谷昇は富並八幡神社祠掌と稲下稲荷神社・山ノ内山神社の祠掌に任命されています。このことからすると、菅原遜は湯野沢や長善寺・岩野・樽石・大槙・白鳥で、熊谷昇は稲下・富並・山ノ内で皇学・神道国教化をしていたものと思われます。こうして各神社の教導職訓導が氏子教化を行った後で村役人が地元神社の社格願いを県に申請しました。本地区内の神社が郷社や村社になったのが明治8年以降なのはこういった事情によるものです。
 明治17年に教導職は廃止されましたが、当時地区民を神道で教化することにより庶民の意識を幕藩体制の意識から日本国民としての認識をもたせようと啓蒙すべく辛苦した人たちがいたことを忘れることはできません。

参考
明治維新政府の国民教育(国民教育の根本を神道を材料とした。)
経 過
明治元年2月 神祇事務局を設置、神祇・祭祀・祝部・神戸の事を司る。
同 閨4月1日 神祇事務局廃止・神祇官設置。
同 2年閨4月 神祇官内に教導局を創設、神道を国民教育の材料とする。
同 年 閨7月8日 神祇官官制を改正し教導職を置く。教導職による神道宣教のため、調査試験を実施し教導職を任命する。
同 年 閨12月初旬 東京馬場先門内広芝(ひろずみ)に神祇官の本主の坐す神殿を造営する。
東 座 ー 天神地祇
神殿 中央座 ー 八神殿(天孫降臨の時、高木の神から下された神勅により神武天皇の時代に祭られた神神。神祇官西院に祭られ荒廃していたのを再興したもの
西 座 ー 皇霊殿 歴朝の皇霊を祭る
天神地祇と皇霊は新規の設置 明治維新の新しい考え。
明治3年閨正月3日 明治天皇神祇官にご臨席の上、ご親祭挙行。
詔勅 朕恭惟ーではじまる祭政一致の詔勅を布告、神道を国民教育・国民信仰の対象物とした。
明治4年閨8月8日 神祇官を神祇省と改め、皇霊殿は宮中の賢所へ合祀される。
明治5年閨3月14日 神祇省を廃止して教部省を設置。
・西洋文明の輸入によりキリスト教などの外教の布教が盛んになる。
・外教防衛策として神道の宣揚を布告。
・仏教の衰微の風潮から、仏教人の神道に付して神道宣揚の一働きを願う申し出を許可。
・神・仏・儒三教合併の神道教導・宣揚の機運高まる。
明治5年閨4月2日 八神殿・天神地祇宮中三殿に遷座。
同年 閨4月25日 教導職を置く、始め百人足らず、一両日後に僧侶も加わる。
同年 閨4月28日 三条の教憲を教導職へ頒布(教憲は太政官で制定し、4月23日江藤新平の尽力を得て原案修正し決定した)。
三条の教憲
第一、敬神愛国
第二、天理人道を明らかにすべきこと
第三、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと
・神仏両道の教導職による宣揚
同年 閨5月10日 各府県社に於て驅集同時に説教 本県へは桑野真澄教導。教部省役人を各市町村に派遣して、官命で集めご用説教をして聴聞させる。
・神社の整理 新規奉祭神を選定 (四神 天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神 天照大神 の四創物主)。
同年 閨11月29日 天保壬寅暦廃止新暦となる。
明治6年1月10日 教導職養成し統害のため、東京麹町紀尾井町紀州邸跡に設置。宮中八神殿とし、八神殿を大教院に設置。
明治6年3月 大教院を東京芝増上寺に移転。各県に中教院 各町村に小教院を設置し履歴調査・試験の上教導訓導を任命する。本山形県は区制の大区中教院 小区に説教所を置く。
★この頃より祭神論盛んになる。
・西部官長 出雲千家尊福 幽冥主宰神大国主命の合祀を主張
・島地黙雷欧州視察 西洋での信仰の自由を報告
・真宗分離問題起きる
明治8年4月 神仏合併の教導職は差し止めとなり、東京神宮庁出長所内に神道事務局を設立し、源宗は神宮を大本とする。
同年8年5月5日 神道事務局内に大教院設置を布達。
明治12年4月23日 東京日比谷に神道独自の神殿を落成鎮座祭を挙行、増上寺の四柱を奉祭する。教導職を置く。

 (父が昭和52年冨本小学校百年誌向けに作製した原稿より編集。文責は管理人。)

管理人の考えとして
 この項目をまとめてみて感じたのですが、明治政府としては最初宗教面から国民をまとめようとして学校教育とは別に教導職を設けて神道の国教化を図ったけれども、国教として神道を統一することができなかった。つまり全国の神社の御祭神を天照大神に統一する、といったことができなかった。このため最終的には八百万の神を祭る各神社に国から指示・命令した祭祀方式でいわゆる国家の祭祀を行わせることである程度の統一化をした、ということではないでしょうか。