にしかたの昔語り
にしかたの史跡
大槙遺跡 大字大槙字鹿ノ子沢(昭和47(1972)年7月発刊の「とざわ夜話」(戸沢中学校刊)による)
大槙地区の古い時代のことは記録がないところから,遺構や遺跡をたどって推測・推考する以外に手だてがありません。推考にあっては古老の覚えや人々の伝承が極めて貴重な資料となります。
最上川の三難所の一つ「三ケ瀬」の右岸上流へ200mの河成段丘上にあり,戦後の開拓と更に昭和36(1961)年以降に開田されたときに発見されました。縄文中期(約4000年前)の大遺跡であるとともに,須恵器も出土しています。すぐ近くに袋・共栄・長峰等の遺跡があります。
この遺跡から考えられることは,最上川の段丘地に遺跡がみられるということであり,狩猟・漁労が主だった大昔は,この地域が生活に適した場所なのであったと思われます。「日本の古代遺跡21山形」という本には,三ケ瀬遺跡からは小型の石槍が見つかっており,漁労用のヤスに利用されたものと考えられ,また発見された遺物に堅果類をうち割るのに用いられた凹石が多いところから,最上川べりで植物性の資源と浅瀬でサケ・マスを捕獲して食糧を確保し生活していたと推測できる,と記されています。
石器類の出土は5000年以上も昔のことであり,土器類の出土は3000年以上も前のことですから,この地域には長期にわたって人が定住していたと考えてよいと思います。古老の言う「鹿ノ子沢千軒」「矢埼百軒」という伝承も,満更の虚言・空言ではなさそうです。最上川左岸段丘地の袋地区は,大昔袋町といい多くの人々が生活していた場所で,矢尻・石槍などの石器が出土した,と古老は伝えています。
碁点の楯
碁点の楯は樽石川が最上川に合流する地点の左岸段丘の上にありました。中央がコの字型の掘り割りに囲まれた高台で,恐らく船の監視所として櫓がたてられた場所でないか,と思っています。コの字の掘り割りは高さが6尺ぐらいで幅が9尺位だったのではないでしょうか。南の樽石川にむかってコの字型に掘り割りがつくられていました。中央の櫓までは三段階の土堤が築かれています。楯の北側には大きな堀割りがありましたが,いまは駐車場や農村公園となってすっかり姿を消してしまいました。この場所から西側に伸びる道路が楯道といわれ,ナベ倉にある白鳥本城まで続いているのです。
碁点の楯より上流の最上川を通常碁点とよんで親しんでいますが,急流となっているのは牛ノ尾の渡しから下流です。この地点は大昔堰き止められて瀑状となって流れていた,と伝承されています。この碁点の掘削に心血をそそいだのは,山形城主最上義光と家老の斎藤伊豫といわれています。掘削は慶長期(1594〜1614年)に,石工・人夫3万人余をつぎ込んで船の通航ができるよう掘削しました。酒田浜で精製した塩の輸送が目的だったと言われています。
白鳥氏が宮下に居館をもち,大久保満頼が大槙地区に宝鏡寺を建立した南北朝時代は争乱の時代で世相は暗く飢餓と病気で苦悩の多い時代でした。武将は自らの身辺を守り一族の団結を計り,無頼の徒と立ち向かいあるいは防御のための柵を作って自衛の策を講ずるなど,小国であっても経済的に豊かに生活できる道を選んだように思われます。白鳥氏と大久保氏に争いがなかったのは,領分を侵害するおそれがなかったからに外なりません。
大槙小学校
明治9年,槙本清喜宅を校舎として大槙村では学校を創立しています。その後学校は松念寺へ移り,更に高橋治兵衛に変わったと古老は伝えています。明治11(1878)年阿部千吉という人が581円40銭3厘の大金を寄付,沖地区に建坪35坪・教室4・洋風2階建の茅葺きの校舎を新築することができました。阿部千吉のほかに高橋簡策 高橋勝兵衛 川越麻次郎 青柳新助 高橋運治郎 川越久吉 川越喜一郎 永沢平次郎といった人達が学校建設費に各10円宛寄付し,そのほか文部省補助金7円77銭・地方税補助金10円3銭が助成されて,立派な新校舎が建設されたのです。大槙小学校の開校式には三島通庸県令も出席して,阿部千吉に対し多額の寄付の篤志を謝し,掛け軸と銀杯を贈りました。明治35(1902)年暴風雨のため小学校校舎は倒壊しましたが,翌年新築しました。
田中の経塚
田中の経塚(京塚)は,A氏宅の南西面にある10坪位の古塚です。永享6(1051)年の前九年の役のとき,源頼義・義家父子が安倍一族を追ってこの地にきて,味方の戦死者を埋没した場所である,と戸沢風土記(槙本政吉編纂)に記されています。塚のそばに杉・松一本ずつ植えられてありましたが,明治39(1906)年切倒されて,いまは畑となっています。