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にしかたの昔語り

河と滝



 以下の文章は父が書いたもので昭 52・10・13の日付があり,葉山から流れ下る川と水の恩恵を記したもので、葉山から流れ下った水が碁点から水蒸気となって舞い上がり,雲となって葉山に雨となって再び降り注ぐという壮大な世界が,地上では白蛇・空中では白龍という姿で表されています。
  霊山 葉山の水
 「葉山にある沢や葉山を水源とする川の形相は白蛇の形をしています。白蛇は麓の杜に霊水をもたらす。湯野沢熊野神社の湧き水は「熊野の杜の湧き水延命幸福の水」といわれる。葉山から流れ下る幾多の沢川は最後は最上の大河に注ぎ、これら多くの河川の全体像は八大白竜の形相を呈している。八大白竜は御殿(碁点)より飛翔し雨水をもたらす。その様は、不動明王の怒りにふれた大竜が、天空をおおいつくして、雷神、風神を呼び荒れ狂い、一切の汚濁煩悩を祓う姿であるという。雨水は、山麓の生きとし生けるものを蘇らせる。八大白竜は、八乙女と化して月夜の天空に舞うという。山中の白馬は、飛翔して天馬となりて空をゆく。これの場面に対面する人は、身に赴き来る己の日々の汚濁と罪を水に流し、玲瓏清浄なる心身を持し心和むという。故に往昔の行者は身に白衣・頭巾を着け、金剛杖を持し、谷川の霊水に浴し、奥入りして天空に対面したという。今の世の真の登山者はいう。「往時の行者の心と同じ。」と。去れば、今の世も、葉山の水は霊水にして、葉山は霊山なり。山川草木は自然なり。人間もまた自然なること忘るるなかれ。白蛇・白竜は水なり。水は万物の源なり。故に葉山の水は霊水なり。この世に「水五訓」の真言あり。曰く
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
一、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり 雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり」
 白蛇の滝
 湯野沢と河北町岩木の村境,法師川中流の山中に引龍・一杯清水という所があります。ここは葉山から流れる星川が右山中から流れる遅の沢川と合流し,さらに左から流れる桧戸の沢が合流して,法師川となって流れる地点です。この桧戸の沢というは葉山の社峯という山から東に流る沢のことです。社峯には寺屋敷の跡があり,大黒なでなどの地名を残し,大黒天・白磐神の祀る峯とされています。桧戸の沢沿いの山道は祉峯を越え白岩町田代へと続く山道で,戦前までは白岩町田代と湯野沢の人たちが往来する道でもありました。
 この社峯の周辺には,引龍沢,化ヶ物沢,メクラ沢,一杯清水などの神秘的な名前を持つ沢が点在しています。これらの沢は葉山から流れる遅の沢川と合流し法帥川となり東流し,岩木村から最上川へと注いでいます。これらの沢には2,3の小滝があり,滝には不動尊が祀られています (桂滝不動尊に伝わる話)。中でも桧戸の沢の白蛇の滝は滝壼が深く,その壼穴は村山市河島を流れる最上川の碁点まで通じているといわれ,落ちたらあがれない滝,白蛇にのまれてしまう滝,そして碁点の白龍が飛びたつ滝として恐れ語り伝えられています。
  千座川と弘法寺
                       
                                  千座川
 昔,湯野沢を流れる千座川は千駄川と呼ばれていました。川魚が一日に千駄もとれたからです。また昔は千沢川と書いてせんざがわと読み,沢の数が多かったことからついた名前ともいわれています。
 ところがある年,日照りが続き水がなくなり魚が1匹もとれなくなり,農作物も実らず村人は飢えに苦しんでいました。
 そこへ旅の僧が通りかかり,村の娘に「水を飲ませてください」とたのみました。
 娘は疲れ果てた僧の姿をみて,大切にとってあった水をあげました。すると僧は元気になり「お礼にこの川に水を流してあげよう」と言って,川の中に千の座を作り雨乞いの呪文をとなえ祈祷をしました。すると水が川にこんこんとわき出て流れ出しました。そこからは水は涸れることなく流れたそうです。それで村人は千座川と呼ぶようになったのだそうです。
 また,僧は山中に入り錫杖で地面をたたき堀りました。すると地面から温泉が湧き出たのだそうです。僧は「病気になった時は,この湯に入浴すると治ります。」といって入浴をすすめたそうです。これが現在の湯の入温泉だそうです。皮膚病,眼病によいとされています。僧はまた村人に「この山中にはマムシが多いから,かまれた時にはこの紙をかまれた傷口にのせて,こう呪文を唱えなさい。」といって,呪文を書いた紙を娘にわたしました。紙には「朝日さす,黄金が山の,かきわらびの,恩を忘れたかや,このまごだら虫,大先王やだらの虫,アヒラウンケンソカワ」と書いてありました。蛇にかまれた時,この呪文を3回となえ,かまれたところをなでると蛇の歯がとれるそうです。
 さらに,僧は熊野山中に入り,錫杖で地面をつくと水が湧き出て泉となったそうです。この泉が今の熊野山のお池だそうです。僧は泉に鏡を投げ入れ,「アヒラウンケンソワカ」と光明真言を3回唱え,錫杖で泉の水をかき回すと,水は院内川となって流れ,田を潤したといわれています。ですから,村の人は雨が降らないとき,熊野山に参拝してお池を棒で水をかきまわしたり,お池のごみ上げをしたりすると川の水が増したり,雨が降ったりすると信じてきました。そして,僧は山中に不動尊を祀り,座をもうけて千日の祈祷をし,寺を開山したそうです。この寺を弘法寺といいます。
 実はこの旅の僧は,葉山に来た弘法大師だったのだそうです。また一説にはこの旅の僧は真済という真言宗の偉いお坊さんだったともいわれています。さらに,役行者が葉山山中の岩に不動尊像を彫刻し,祈祷する祭壇を千座も設け祈祷し,マサカリや鍬を手に山野をきり開き田畑を作ったことから千座川の名が起ったという説もあります。 また,千田川とも書いて千の田,即ち多くの水田を潤す千田川の意味,ともいう説もあります。
  千座川その2
 また千座川については別にこのような話も伝えられています。
 今の千座川は,昔,千駄川と言われていました。千駄川のそばのあるところに一軒家がありました。一軒家には女の人が済んでいました。
 そこにある日,奥州を旅している老僧が葉山参拝の途中一軒家に通りかかりました。夏の日中のことで喉が渇き,一軒家を訪ね女主人に一杯の水を乞いました。しかし女主人は無慈悲にもそれを断ってしまいました。怒った老僧は座して祈祷をしてこの千駄川をせき止めてしまいました。するとせき止められたことにより川はダムのようになって魚が一日に千駄もとれるようになりました。この旅僧は弘法大師であったといわれています。情け深い大師は,女主人が無慈悲に断ったのは,夏のことで水涸れがし飲み水に不自由していたからだということを理解しており,水を断られたにもかかわらず女主人の苦労を思い,祈祷して川をせき止め魚が一日に千駄も採れるほど水を豊かにしたのだと言われています。それ以後,千駄川から千座川と改名したといわれています。
  滝の入りのみそぎの滝
               みそぎ
                          みそぎ(場所は本文の滝ではありません)
 湯野沢熊野神社周辺の山中は,神さまのいる神聖な所とされていました。そこから流れ,塔の沢宇沢を通り,地区に流れる滝の沢川の水も,田の稲を実らせる聖なる水と考えられていました。
 滝の入りには,小さな滝があります。ここで,山伏や行者が,滝水にうたれて身を清め,修行をしたのだそうです。それで,みそぎの滝というのだそうです。村の一般の人も,湯殿山月山まいりする時や,お祭りをする時はこの滝で身を清めました。小正月にくむ若水もここから汲んできたそうです。
  岩野の眼鏡橋
             岩野地区の幾代橋 
                               岩野地区の幾代橋
 岩野地区の大円院前を葉山に向かって登り,岩野熊野神社前を過ぎて15分ほど歩くと石造りの眼鏡橋が見えてきます。通称「岩野のメガネ橋」と呼ばれています。明治15年に初めて架けられた橋は木橋でしたが,明治22年に石橋に架けかえられました。正式名称は「幾代橋」といいますが,その形が眼鏡に似ていたので,「メガネ橋」として喧伝されました。昭和32年に改修工事が行われ,橋板の上にコンクリートを盛り,舗装道路が通されました。
 橋のかたわらには説明板が立てられており,橋が建設された由来はその説明板の通りだと思いますので紹介します。

               明治期に入ると県内にアーチ式の石橋が数多くかけられた。これは,初代県令三島道庸の道路開削政策によるものが大半です。
熊野神社境内にある「岩野記念碑」には「千座川橋無く,石を踏み徒歩く,淫雨一たび至れば即ち人行全く絶ゆ,是に新道開削之議有り。二十一年十一月機構,翌年八月成る。・・・川に即ち架橋し・・・」と建設当時の様子が刻まれている。
岩野は山村にして耕地が少ない。里民は山の恵みに依るところ大きく,村をあげての大事業であったことが文献からもうかがわれる。
○請け負い金額八十一円(二十円・三十円・三十一円の三分割)
○人夫二〇〇人。但し村方より出人夫のこと
○世話掛総代として村の主だった十一名を挙げ,請負者には,石工渡辺源太郎の名がある。
○橋長,四間半。幅,八尺。高さ,三丈。
上部が木造であったため,永久橋にの思いで一九六三年(昭和三十八年)秋,鉄筋コンクリート造りに補強工事が行われている。
県内に現存する「十一橋の石橋」のなかで,地元の資金と技術で架けられた唯一のものであり,貴重な明治の文化遺産として,後世に伝えたい。
平成十六年(二〇〇四年)九月
岩野の石橋を守る会
 さて,説明版の中の「山形の11橋」という文字が気になりました。私が知っている石橋(眼鏡橋)は,上山市楢下にある石橋,南陽市中川駅近くにある石橋,上山市川口の国道13号線沿いにある石橋の3つです。
                       楢下の新橋
                                  楢下の新橋
 試しにインターネットで検索してみましたところ,山形の石橋はもともと,瀧ノ岩橋(米沢市万世町),瀧ノ小橋(米沢市万世町),中山橋(上山市中山),堅磐橋(上山市川口),常磐橋(山形市坂巻),幸橋(高畠町幸町),九十九橋(高畠町夏茂),土生田橋(村山市土生田),太鼓橋(山形市鉄砲町),新橋(上山市楢下),吉田橋(南陽市小岩沢),蛇ヵ橋(南陽市小岩沢),萬代橋(真室川町及位),綱取橋(小国町綱木),覗橋(上山市楢下),舞鶴橋(米沢市丸の内),多嘉橋(天童市本町),大泉橋(鶴岡市),幾代橋(村山市岩野),新井田橋(酒田市),康寿橋(南陽市赤湯)の21橋あったそうです。
 そのうち現存しているものは中山橋(上山市中山),堅磐橋(上山市川口),幸橋(高畠町幸町),太鼓橋(山形市鉄砲町),新橋(上山市楢下),吉田橋(南陽市小岩沢),蛇ヵ橋(南陽市小岩沢),綱取橋(小国町綱木),覗橋(上山市楢下),舞鶴橋(米沢市丸の内),多嘉橋(天童市本町),幾代橋(村山市岩野),康寿橋(南陽市赤湯)の13橋です。
 山形市内の鉄砲町とか米沢市内の丸の内とか,「本当にあるのかい?」と思いたくなるのですが,そのうち確かめに行ってみようと思います。
 ところで,地元民としてはこの橋の建設について少々疑問を感じております。私の行ったことのある上記の3橋はみな当時の主要幹線道路に架けられました。しかし,幾代橋の先は葉山の山中です。当時は畑地区にあった葉山大円院に参詣する人のために架けられたのかもしれませんが,たしか明治に入り葉山の大円院は急速に衰えを見せた時期であるはずで,村を挙げての大事業で田舎の山の中にこのように立派な橋を架ける必要があった理由がいま一つ不明です。推測ですが,当時の岩野地区は林業が盛んであり,林業の便宜のため沢の深い部分に橋が架けられたのではないでしょうか。当時の林業は村の重要な産業で,案外岩野は豊かな村だったのではないでしょうか。当時は外国から木材を輸入することなどはなかったはずです。たぶん豊かな山からは優良な木が多く切り出され,現在も残る在来工法の立派な家が建てられ,また豊かな山の幸もえられたのでしょう。その後葉山の大円院も林業も現在は衰退していますが,それゆえに道路改良工事などが行われず,幾代橋は撤去されずに残ったともいえます。この橋は林業の重要性と今後の可能性を物語っているように思えてなりません。
  法師川
                      
                                  法師川
 河北町岩木と村山市湯野沢との境を法師川が流れています。この川は葉山大円院お池尻下から東流し,最上川に注ぐ川です。この川沿いは最も古くから開かれた葉山の参道で,その名の示す通り,葉山の法師たちが登山した山道と伝えられています。この法師川の中ほどの西側の山中を引竜と呼び,引竜沢が流れ注いでいる。この沢に江戸時代に構築された古い提があります。この地は,近辺数ヶ村の入会山で,水論や山論が明治の中頃まで絶えなかったところです。この地に大堰を設けて,各村の田野に水を引きました。旱魃の時は,護摩祈祷を修して龍を呼び,雨を降らせたことから,引竜の名がついたといわれています。
 この引竜沢口より法師川を100mほど登った所の左岸に,北西の山中から注ぎ流れる檜戸の沢があります。檜戸の沢の意味は,地形からすれば「檜木の繁殖する山中の沢」であり,湿地帯の意味の「ヒドロ」沢でもあるとも考えられます。この檜戸の沢と引竜沢は,大黒天の座す山といわれる大黒なで山を挟んで流れる沢です。この両沢沿いの山道を伝って入ると,地獄谷,メクラ谷,化ヶ物沢などという沢がある。名の通り沢は深く,自然林がつづき昼でも静まり返って,気味悪ささえ感じるところです。さらに登っていくと,柳沢,八森,社峯(八代峯),櫛ケ峯,桜尾神と呼ぶ峯々を通り,山を越えて行くと,畑地区,さらには立石山へと至るのです。
 一方法師川の東側の山中には,檜戸の沢から法師川を五十米ほど遡った付近に遅の沢川が流れ注いでいる。この沢沿いの葉山の参道,通称注連掛け(しめかけ)ぶな道を通り,桂滝の不動尊,油殿を通り,大円院.お聖天山,さらには葉山の御田沼,頂上,奥の院へと至ります。
 この二つの沢は,立石山の竜神が引竜の地まで降臨してくる道なのです。さらには天界である立石山洞窟への門口と考えられ,従ってこの沢には地獄谷や化ヶ物沢,メクラ沢などの恐ろしい地名があり,沢の上の峯には社峯や桜尾神,櫛ヶ峯(奇しが峯)の天神の降臨を思わせる地名があるのです。また引竜や一杯清水の地名は法師たちの指導による開拓事業の地名とも思われます。