にしかたの昔語り
堰と堤
注意 これから紹介する堤や堰は防護柵等の安全設備がないところがほとんどです。立ち入る時は安全に十分気をつけてください。また未成年者だけでの立ち入りなどは危険ですので必ず保護者の方も同伴してください。
千座川や法師川など,湯野沢地区の川は最上川のように広くないために,大雨が降って洪水が起きたかと思うと,すぐに水が流れて水不足になる,ということがたびたび起こりました。このため先人たちは人々は相談して,水を保存するために,山の沢をせき止め,たくさんのつつみ(溜池)を作り,ました。水は農作物にも日常生活にもかかせないものですが,貴重なものでもあったため,田植えの時には夜水をひいて代かきをし,提灯を持って田植をしなければならないお百姓さんがたくさんいました。先人たちは大小の川や沢に堰を作り,水路を作り,川よりも高いところにある野原に水を引き,田畑を作りました。また地区の中にも水路を作って水を引き,毎日の生活用水や防火用水にしました。一口につつみを作るといっても,それはたいへんなお金と人手のかかる事業でした。江戸時代には新庄の殿様にお願いしてお金を出してもらったり,年貢をのばしてもらったりしたほかに,谷地の商人から借金をしたりしました。工事人も,大久保や吉田,稲下,樽石,岩木などの人にもお願いしました。江戸時代にこうした大事業につくしたのは,海老名権蔵,海老名権左衛門という庄屋さんたちです。このページではこれらの祖先の苦心して作った堰や堤やを紹介します。
しかし残念ながら昔は堰やつつみを作っても水は不足ぎみで,水を盗まないと米を作ることができない年も多かったのです。頭を下げて水をもらう人も多かったのですが,話し合いをしてとりきめしても,水を盗むお百姓がいたのです。このため旱魃や水の少ない年などは水争いが絶えませんでした。
千座川からひいた堰と水路
1.千座川一の堰二の堰
この堰は岩野の大円院下の干座川にあります。
この堰からは,岩野地区の中を通り,岩野の人々の耕す田に流れ,北山に達する水路があります。
また,岩野地区の中を流れ,桜橋近くから坊ケ峯下を流れて湯野入川にそそぐ水路があります。
この堰は今から310年ぐらい前の寛文年間頃には作られていた水路です。岩野・湯野沢の人たちの共同堰でした。
2.桜ばし堰(大堰)
この堰は,峯山下の桜橋の所にあります。ここから,峯山下を通り,野田を流れ,北山下の田村川に流れる水路があります。
3.中村堰
中村橋の付近から,田村川に流れる水路があります。また,この付近には,元屋敷や天神堂の田にひいた水路もあります。上・中・下の3カ所あり,それぞれ水神様を祀っています。
4.番匠面堰
この堰は,番匠面橋のところにあります。大久保までの田に水を引きました。
5.その他の堰
その他,巾木田堰,天神堂堰などの堰が数ケ所みられます。
これらの千座川の堰では,桜橋堰,中村堰が一番古く,平安時代頃からあって一番大きい堰です。水路も田村川とよばれています。
中村近くの田には,うちぼぎ,なかじょうなどの地名があり,平安時代の条里制がしかれていたと伝えています。
峯山下の水路も田村川水路についで古く長い水路です。 これらの堰の近くには,稲荷様や水神様がまつられているところが多い。
湯野沢地区の中を北から南(宝地区から上荒敷地区)まで流れる水路は,明治17年ごろに,古くからあった水路をひろくあらためて作りました。作った人は,当時の村長さんであった海老名徳太郎という人です。
湯野入川の堰と水路
1.お仏け(おぼとけ)堰
この堰は,湯野入りの入口にあるおぼとけ石の建っている近くにある堰です。
水田を潤し,おかねだ地区を通り,久保地区の中を流れ,千座川にそそいでいる堰です。
この水路は,久保地区の人々が,日常用火や防火用水につかってきました。
2.おかねだ堰(おお堰)
この堰は,小学校グランド下の沢にあります。この堰からながれる水路は,宝,楯,矢木沢,中の目の地区を流れ,鈴木商店の近くから東に入って,また南にまがって,上荒敷地区のつつみ近くまで流れ,田の中を大原地区に流れる水路です。
この水路は,日常の生活用水や,防火用水に使いました。
3.前田堰
この堰は,久保地区の田村商店前から,下小路地区にぬける沢道の所にあります。
この水路は,矢木沢東の田である前田の田にひいた水で,高がけ上の田の中を流れ,大久保に流れています。
滝の沢川の堰と水路
滝の入り堰
宇沢から流れる滝の沢にあります。八幡様の道を入ったところ,稲荷様近くの沢に滝がありますが,その滝の上にある堰です。
ここの水路は,長松院裏を流れ山際地区の中を流れる水路と,寺小路地区を流れる水路に分かれています。そして大原まで流れています。矢木沢や山際地区の人々が,日常の生活用水や防火用水に使いました。また,湯野沢の田や,大原の田に水をひいた水路でもあります。
法師州の水路と堰
引竜堰
岩木村との村境の引竜にあります。ここから上荒敷地区まで山裾を流れ,南原の田に水を引いた水路があります。大原,新吉田まで流れています。
水路と堰は,他に院内川堰などまだまだあります。これらの水路からもまた小さな水路が縦横に分れて流れています。
塔の沢(宇沢,大の沢ともいう)のつつみ
とうのさわつつみ
湯野沢地区で一番古いつつみです。昔,一の堰,二の堰という二つのつつみをもとに作られたのがとうの沢つつみです。今から250年ほど前の享保19(1716)年,高谷長四郎という谷地町から来た人が,大久保の大原地区を開拓して田を開田しました。高谷長四郎はその後宝田村(今の大久保大原地区)の庄屋となった人です。この田に水を引くために作られたのが塔の沢のつつみです。新庄の殿様にお願いして湯野沢の庄屋だった海老名権蔵という人の協力をえて作りました。殿様の命令で,湯野沢,岩野,長善寺,樽石,大久保,新吉田,吉田,岩木,谷地北口,工藤小路の各村から5000人の人夫がでて,享保20年に完成しました。昔は大原の人が水を利用する権利をもっていました。
享保19年に殿様からつつみを作れという命令があった時,建設地は熊野神社の領地だったので,湯野沢地区の人々は熊野神社の土を動かすと恐しい祟りがあるといって心配し反対しました。そこで殿様は京都のト部家(うらべけ−神様の祀りを管理する家)に願いでて,熊野神社に正一位の神位をあたえてもらい,殿様自らお祀りをして祟りのないように祈願しました。湯野沢では塔の沢といってますが,記録では湯野沢つつみと書いて,とうのさわと呼んでいます。このつつみの近くには,塔の沢の法篋塔と地蔵様が建っています。つつみの建設工事中事故死した谷地北口の人を供養したものたといわれていますが,一説にはここの地は別名蟹沢とも呼ばれるほど川蟹が多くすんでいてつつみの土手を食い荒らしたので土手が崩れやすく,特に上のつつみが崩れやすかったところ,宝暦年間のある年,上にあるつつみが決壊しその時下のつつみにいたアパコシというあだなの人が流され,アパカパになって死んだので,供養したのだそうです。この時の洪水は大原と湯野沢の田を完全に流してしまいその年は米がとれなかったと伝えられています。このように,土木工事の機械がなかった時代には,つつみを作る時や,補修,改修工事の儀牲者が多かったのです。
現在の塔の沢つつみは,昭和23年に,村のお金と県から補助をもらって新しく築いたものです。
白子山つつみ(しょこつつみ)
白子山つつみ
山際地区の琴平山の沢にあります。今から190年ほど前の文政6(1823)年,当時の庄屋海老名権左衛門さんが新庄の殿様にお願いして築きました。大久保,新吉田,岩木,岩野,長善寺,稲下,吉田などの地区の人たちに人夫をお願いし,のべ500人の人夫をかけて完成しました。つつみの水口下の水路に水神様が記念にまつられています。
南原つつみ(荒敷つつみ),
このつつみは寛政6(1794)年に海老名権蔵という庄屋さんが荒敷の南原の田を開くために築いたといわれています。つつみの水は今の通称開田道付近の水田に流しました。このつつみもまた,大久保,新吉田,岩木,樽石,長善寺,吉田,北口,工藤小路から人夫を出して工事をしています。
引竜つつみ
引龍新堤
現在の引竜公園のつつみは戦後の昭和23年ごろに完成したものです。このつつみの工事には湯野沢の人も人足として従事しました。つつみの完成記念碑には湯野沢の人の名も刻まれています。
もとの引竜つつみは安永4(1775)年9月20日に湯野沢の権左エ門,吉田村の渡辺門七,岩木村の安達東吉という3人の庄屋さんが相談して築いたものです。3人の庄屋さんはつつみを築く場所を検分し,その結果一杯清水の桧戸の沢地区に土手の長さ30間,幅10間のつつみを築くことになりました。つつみの坑木は湯野沢の山から伐りだすこと,工事人足1500人のうち500人は吉田,岩木村から出すこと,残り1000人は湯野沢,岩野,樽石,長善寺,大久保,新吉田,工藤小路,北口の村からだすことになりました。そして,新庄の殿様にお願いして扶持米と工事の費用にあたる補助米20俵をもらったそうです。
人々は庄屋さんや組頭さんたちの監督指導のもと,午前6時ごろから夕方まで鍬,鎌,山刀,ゆいなわを持って働いたそうです。つつみは安永5年に完成しましたが,小さいつつみだったので,次の年の安永6年と天保14(1843)年9月に拡張工事を行いました。その結果つつみは長さ24間,幅30間,底の広さ13間,.深さ20尺,面積640坪のつつみになりました。たいへん苦心して築いたつつみだったそうです。
引龍つつみ
院内つつみ(おくまんさまのつつみ)
おくまんさまのつつみ
現在おくまん様のつつみがある場所には,昔,一のたる井,二のたる井,三のたる井という,鎌倉持代に熊野三郎が築いたつつみがあったそうです。これらのつつみから今の楯地区にあった熊野三郎の屋敷の周囲の堀に水を流していたのだそうです。この水路を院内川といいます。
この院内川をせき止めて作ったのが院内つつみです。今のつつみは130年ほど前の弘化元(1844)年に海老名権左衛門という庄屋さんが自分の土地とお金を拠出し,湯野沢地区の人に協力してもらい工事をはじめました。
工事は権左衛門さんの子供の権左衛門さんが引き継ぎ,さらに孫の明治時代の富本村の初代村長さんになった海老名徳太郎さんがひきついで,明治22年に完成したのだそうです。海老名家が3代かかって完成したつつみといわれています。幅約120m,長さ約300m,深さ約14mの大きさで,湯野沢最大のつつみといわれ,湯野沢地区の日常生活用水,防火用水,田に引く水としてつかわれてきました。
完成のお祝いの時,提防の上で運動会やすもう大会をしたそうです。徳太郎さんはこの業蹟により明治24年,明治天皇から藍綬褒章という賞をいただきました。湯野沢地区の人々はこれを記念して,明治32年,天満神社境内に海老名徳太郎君頌徳碑を建てました。文章は東久世宮という皇族の方です。
海老名徳太郎君頌徳碑
土ケ崎つつみ(土ケ沢のつつみ)
荒敷から一杯清水に行く山道の入口にあるつつみです。
このつつみは荒敷の菅井市太郎さんと笹原惣助さんという人が中心となり,荒敷地区50戸の寄付金と村の経費から200円の補助をうけて,明治43(1910)年に完成しました。
菅井市太郎さんが土地を提供したそうです。明治41年に完成予定でしたが,工事中提防がやぶれ再工事となったため遅れたのだそうです。
白石山つつみ(マゲ沢のつつみ)
岩野新田地区の山上にあるつつみです。このつつみの水は湯野沢の田にひく水といわれてきました。
岩野と湯野沢の水争いがたえなかったので,同村の人同士が争いをおこさないようにと村会議を開き相談をして築きました。明治34(1910)年6月に工事を始め翌明治35(1911)年3月に完成しました。面積6反1畝28歩のつつみです。
その他のつつみ(あかつつみ等)
久保つつみのように個人が堀ったつつみもあります。このつつみはいつごろ作られたのかわかりませんが,久保地区の人が作った地区のつつみです。他に水走り山中にある七衛門つつみ等,個人で築いたつつみが2〜3ケ所みられます。