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にしかたの昔語り

水争い・山の境界争い



 残念ながら昔は堰やつつみを作っても水は不足ぎみで、水を盗まないと米を作ることができない年も多かったのです。頭を下げて水をもらう人も多かったのですが、話し合いをしてとりきめしても、水を盗むお百姓がいたのです。このため旱魃や水の少ない年などは水争いが絶えませんでした。また薪や肥料をとるための山についても時々村と村との間で境界争いが起きました。

 1.白岩と湯野沢の水争い
 堀切りの水争いといわれました。法師川川上の水源地に堀切りというところがあります。今から350年ほど前の寛文年間(1630年代)、葉山大円院前の池の水を白岩の百姓が白岩側の沢に堀をきって流し落したことから、この水が白岩の水か湯野沢側の法師川の水かということをめぐって湯野沢と白岩との間に水争いが起こりました。争いはなかなかおさまらず、ついに児玉惣右エ門という人が、江戸幕府に訴えました。裁判の結果、江戸幕府の判官は、湯野沢の方の沢に流すのが正しいという判決を下しました。これでようやく争いはおさまり、湯野沢の人々は堀を切り、水路を山中に作り水を引きました。このことからこの付近を堀り切り山と呼ぶようになったということです。
 2.桧戸の沢の水争い
 一杯清水近くのの桧戸の沢に「ちらし」というところがあります。ここは昔、湯野沢の田に水をひく水路があり、また田に入れる肥料を作る草を刈る場所でした。ここは岩木村と湯野沢村の入会地でした。
 文化7(1810)年、「ちらし」で岩木の百姓と湯野沢の百姓たちがお互いに相手が水を盗んだ、草を盗んだと争いを始めました。争いはなかなかおさまらず、怪我人や死人がでる騒動になりました。
 そこで、新庄の殿様の命令で、代官と谷地の庄屋工藤弥治衛門という人が仲裁に入り、岩木と湯野沢の庄屋や組頭が相談し、平等なとりきめをして、争いは収まりました。
 3.岩野一の堰の水争い
 昔、岩野千座川の一の堰は湯野沢と岩野の人とが平等に水をひくという取り決めがされていましたが、それでも時々水争いがおこりました。元治元(1864)年6月の田植えの時期に、湯野沢の百姓が夜中に一の堰の水路をせきとめ湯野沢の水路に水を流したところを岩野の人に見つかり、殴る蹴るの暴行を受けて大怪我をしたことから、湯野沢と岩野の百姓たちの間に争いがおこりました。百姓たちは集団を作り、岩野と湯野沢の境の野原や峯山近くで鎌や山刀をもって喧嘩をしました。そこで岩野と湯野沢の庄屋さんが話し合いをして、新庄の殿様に取り決めをしてもらうことにしました。新庄藩の役人は細かい約束を作り、守らない百姓は罰することにしました。その時はこれで争いはおさまりました。しかしその後も明治35年に白石山のつつみが完成するまで水争いは時々発生していたようです。
 この岩野と湯野沢の百姓が喧嘩をしているとき、嶽山の明神様が山上から火の玉となって「喧嘩するな!岩野と湯野沢の境はここだ。」といって落ちてきたといいます。このため明神様がおりた場所から坊ケ峰(峰山の道路をはさんで反対側の山)にかけての田畑を明神原と呼んでいます。かつては明覚院というお坊さんの所有地でした。
 その火の玉明神様が落ちた場所は現在萬歳石がある付近で、近くには熊野神社がありました。村人はこの場所を岩野と湯野沢の境として、境の明神様を祀ったということです。その後大正になって、この明神様と熊野神社、さらに山神様を合わせて現在の所に岩野熊野神杜を遷座したのだそうです。
                
                             岩野熊野神社(建てかえ前)