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にしかたの昔語り

山神のまつり



  山神のまつり
           
                              湯野沢地区にある山の神
   山神碑
 山神は山を支配し、山の幸を与える神で、2月16日の祭りの日に山神は山を下りてきて田の神となり、12月16日の祭りの日に田の神は山の神となって山に帰って行くといわれています。山の神さまは嫉妬心が強い神なので、2月16日には女の人は山に行くことを禁じられています。
 山神は山への入り道の右脇の土手の安山岩や凝灰岩の岩肌がむき出した奇岩の上に「山神」「大山祗命」の神号を刻んだ石碑や板碑、御堂を建てたり、奇岩に直接板碑を刻む形で祀られています。その地には杉、松、桜の老木が立ち、これらの老木には大標と呼ぶ藁つど状の標が捧げられています。こうした山神の鎮座地は多くの場合大石、白岩、白石、白子山、山の神の地名で呼ばれています。
 また、この山神の小祠と道をへだてた左側は沢や川になっていて、その地は姥沢、宇沢、白滝などと呼ばれ、小さな滝状になっている所が多く、付近には姥様や不動尊が祀られています。さらにその沢や川は多くの場合村里の用水堰や田水堰の水源地となってます。そして山の神小祠の付近にはお田天様、大黒様が祀られていると伝えられ、お田天、お福田、大黒なでなどの地名を残しています。さらに付近には秋の山神祀りに隠れ賭博をした所と伝えられる洞窟(バクチ穴)が残っています。このように、山神は地区と山との境、山と平野との境の岩倉に鎮座しています。
 私たちの村には他にも社寺の境内や地区内に荒神・水神・天神・地蔵講などの石塔が沢山たっています。いずれも農業や生活に関係の深いものばかりです。

  山神聖地の伝え
 山仕事で入山する時は必ず、赤いものが好物の山神様に梅干、赤南蛮、赤飯を供え参拝します。反対に薪を背負って下山する場合には薪の裏を右側、切口を左側にして下山します。薪柴の裏を左側にすると下山時に山神様の目をつつき、山神様の怒りにふれて怪我や病気の崇りがあるからだといわれています。
 山神様の坐す山に伝わる伝説にはよく白馬にまつわる話が登場します。この白馬は荒馬の神馬で、飛翔する天馬です。
 岩野村の獄山は、古くから山神さまがおり神の降臨する山、天狗のいる山として信仰されてきました。今でも山下には山神の石仏があり、山神講が行われています。今の岩野村は上野、湯上(ゆわの)村といい、天正年間まで平林村、山添村という地区がありました。天正年間、この獄山の神がふとしたことから怒り出し、山崩れをおこして土砂を流し村を埋めつくし、白馬となって天に飛翔していったと伝えられています。
 湯野沢の熊野山の白馬は、境内山中の土を掘ったり、村内に土蔵を建てたり土壁を塗ったりすると、家々を破壊し農作物を荒しまわるといわれています。
 山の内村間の上の白馬は、山崩れをおこし土砂で小沼を埋めつくして葉山の北方へ飛翔したといわれています。
  山の神の祀り
 山の神は春に山から降りて田の神となり、秋に山に帰り山神となります。このため農村では春の田の神迎えと秋の神上げの祀りは重視されます。一般に2月16日、3月13日、彼岸の中日は山神様が田に降りる日、秋の10月3日、13日、16日、23日、彼岸の中日は田の神が山神となって山に帰る日として入山を忌む日としています。この日に入山すると山神様や緋の衣の僧に出会うことがあり、出会った者は2~3日中に死ぬか大怪我をすると畏れられています。またこの日をもって山神祭日としています。
  春の山神祭
 春の山神祭は山の神が田の神となる旧3月12日で田の神迎えの行事です。この日は樵夫や炭焼きなどの山人衆の手で山神講が開かれます。山神の小祠を飾り、赤飯、団子花、御酒などの供物を供えて参拝します。供えられた赤飯は講の終了後村中各戸に配られます。山人は講長の家に集まり、山神の掛軸を床の間にかけ、神床を作り参拝のあと、酒肴ふるまいをします。岩野の老人の話によれば、昔は山神の小祠に供えた赤飯と一緒に梵天を配った、梵天は各戸の主人の手で田の水口に迎えられ、神酒を供え参拝し水口祭をしたそうです。
 旧正月15日の夕方には山神のお柴燈があります。柴燈火で餅を焼き食べると虫歯にならず風邪にかからないと信じられています。
              おさいとう(大石田豊田地区)
                            おさいとう(大石田町豊田地区)
 また、各農家の主人が藁束を山神様の境内に持参して神前に供えたあと、雪上に立てて火をつけ、藁束がご歳徳神の坐す明けの方に倒れるとその年は豊作になるといわれています。これも山神さまのお柴燈で、作占いの行事です。
  秋の山神祭り
 田の神は秋の新穀ができた日に白い餅をたくさん背負って山に帰って行き、山の神となると伝えられています。その田の神が山の神に変身する場所が山の神の祠であるといわれています。
 秋の山神祭は、田の神が山に帰る日-10月3日、13日、16日、23日、彼岸の中日-です。湯野沢では山神の秋の祭日を旧暦の12月12日をもって祭日としています。通称この祭は山神さまのお柴燈と呼んでいます。この山神祭は古くは旧暦10月12日であったらしく、S氏蔵の山神の文書には、10月の祭りを記録しています。村では田の神々のすべての神が山に帰り終えるのが12月12日だとしています。この山神祭の前に権現様のお柴燈という湯殿山の祭りが12月7日に行われます。
                  1月16日塞の神行事の図
                      旧暦1月16日塞の神行事の図(出典不明。父の筆かもしれません。)
 祭り行事はまず山神堂の老杉に標縄を張り、それに大しめと呼んでいる藁苞条のしめが5本さげられ、2本の幟が建てられます。神前には「ムスビ皿」という藁で作った皿の上に餅を2個組み合わせて3~4皿供えます。他に神酒、団子、赤飯、赤南蛮、花などにぎやかに供え、神前を飾ります。
 午後になると子供たちは地区の家々をまわり「お柴燈の木をもらいにきました。」といいながら柴燈木を集めます。そして集められた薪は山神様の境内に5尺ほどの高さに積みあげられます。
 夕方になると、前日夜に山人衆が講長の家でを徹して作った長さ6尺余りの躔状の五色の大梵天5串を、子どもたちが神前に運びます。参詣者の参拝後、梵天のうち一串は神前に建て供えて残し、あとの4串は年長の子供4人が持って柴燈の周囲に立ち、講長が藁に火をつけます。積まれた柴燈が燃えあがると子供たちは梵天をもったそれぞれの子供の後に続き、「ジョッサイ、ジヨッサイ、葉山の三所の権現の・・・、ジョッサィ、ジョッサィ」といいながら柴燈の周囲を騒ぎ走りまわります。そして柴燈が燃えつきる頃、4串の梵天は火にくべられてしまいます。参詣者はこの柴燈火で餅や豆を焼いて食べ、無病息災を願うのです。
  瑞木(みずき)迎えと市
 この行事は春の神迎えの行事です。岩野村では旧2月16日の早朝、村の青年たちが残雪のある千座川一の滝前両岸のブナの老木に標縄を張り渡す行事が最近までありました。標縄を張り終え不動尊に参拝すると、青年たちは瑞木という長さ一尺ほどの枝木を持参して村にもどり、端木は村の各家に祝い木として配られます。各家ではこの祝い木である瑞木を大黒様に供え、6月のサナブリの餅をつく時の薪に使用します。この瑞木は農作物や人体に活力を与える若木だったのです。この端木は旧新庄藩谷地郷の山人たちによって、正月用のゆずり葉と一緒に、谷地のしめの市で売られていました。
 山村の人々は季節ごとに牛馬に薪を積んで谷地の大町に運び、薪市を開いていました。薪市で売られる薪を町では市木(マチ木)と呼んでいました。特に新年に使用する新しい薪を新木(アラキ)と呼んでいました。この新木はニュウギ、斎木・若木、すなわち瑞木の意味で、山人のもたらす祝い木であったと思われます。老人の伝えでは、後に柳の木になったと伝えています。この薪市場は江戸時代は正月26日の初市に谷地北口で開かれていました。
 この初市の時に湯野沢から白鳥十郎の奥方の所へ牛で「おそめ木」と称する新木と薪を運ぶ習慣があったといわれています。このおそめ木もまた祝い木で、瑞木であったと思われます。
 このように山人の持参する新木・祝い木・瑞木・若木は新年をことほぐ大切な斎木(祭木)であったのです。
  ほんまづ
 薪市場は春、夏、秋、しめの市と山人たちの都合によって開かれていたようです。盆の14日と15日には、山人たちが木宿に対するお礼木として直径2尺ほどの割り木2束を持参していました。その時、木宿ではにしん2本と夏菜のあえ物、茄子汁に一わんの酒で接待する習慣があったそうです。
 これら大人の手による薪市場とは別に山村の若衆たちの薪市がありました。山村の若衆たちは、毎日の山仕事の合間に売れない薪木(屑木)や枯れ木を集めて保管しておき、盆の14日と15日に谷地に運んで売りました。この薪のことを人々は盆市木(ボンマチ木)と呼んでいました。盆市木の売り上げ金は山村の青年たちが自由に使える小遣い銭でした。このことから小遣い銭やへそくり、隠し銭のことを「ほんまづ」と呼ぶようになったのだといわれています。
 今でも農村の年配の人々は、へそくり金のことを「ほんまづ」と言っています。子供に「正月だからほんまづける」などといって、小遣いを与える姿をよく見かけます。
 湯野沢の年中行事の中に、1月12日谷地初市のほんまつ稼ぎ、というのがあり、盆だけではなく正月にも「ほんまづ」があったようです。

  オホド立て
 富並地区につたわっていた祭りです。
 旧暦の12月初旬、定められた農家の一室に神棚を飾りつけます。次に、囲炉裏を清めたあと、炉に標をつけた薪を炉に立てます。この炉のことをオホドとよびます。オホドは「火」と通じ、女陰を象徴する言葉です。そして炉に薪を燃やすことをオホド守りと呼んでいます。
 翌日からこのオホドに行者達が7日間の忌み籠りをし、豊作神を山々から迎えます。7日間の忌み明けの朝に、裸体になり腰に標縄をつけた年男を先頭にして行者達は村はずれの分かれ道に建つ石神(湯殿山の石碑が多い)に参詣し、湯殿、月山、羽黒、葉山、道六、稲荷以下諸神を迎えてきます。道六神とは道祖神のことで、旅の守護神のほか性神すなわち農業神でもあるとされています。
  ヘンゾウ棒
 また、富並地区に最近まであった行事に「ヘンゾウ棒」という祭りがあります。ヘンゾウ棒というのは木造りの男根神です。この祭りは、女陰を象徴するサンダワラ(米俵のふた)を持つ女装の男を、ヘンゾウ棒を持つ男が、火の燃え上がるオホド(炉)の周囲を飛び上がりながら追いかけまわる動作をする祭りです。この祭りも豊作祈願祭とされています。