にしかたの昔語り
畑地区の起こり
右の絵は寒河江市立白岩小・中学校発行「畑八軒」表紙
以下の文章は「葉山信仰と大円院」でも紹介した「畑八軒」(寒河江市立白岩小学校・寒河江市立白岩中学校発行、昭和51年10月15日発行)17〜29ページよりの紹介です。掲載にあたり文語体を口語体に直し、若干用語などを改めたり省略したところがあります。また言い伝えの部分は上記ページ以外のページのものもあります。またプライバシーの観点から氏名は略させていただきました。
畑地区は長い間大円院と共にありましたが、大円院は昭和30年岩野に遷座し、その後昭和51年畑地区の人たちも寒河江市、東根市に移転し、地区の歴史に幕を下ろしました。私は昭和54年ゆえあって畑地区に一泊したことがありましたが、当時はまだ移転当時の民家が残っており、その内の一軒に泊まった覚えがあります。
現在は岩野からも車で畑地区まで登られるようになりましたが、畑地区はキャンプ場として整備され、集落は復活していません。
畑地区はにしかた郷ではありませんが、大円院を語る上で切り離すことができない存在であり、また「畑八軒」も大円院と畑地区についてのよい資料であると思いまして、一部を紹介させていただきます
畑地区の起こり
葉山大円院の西方約2キロ、祓川を渡ったところの平地にひらけた集落が「畑八軒」と言われてきた「畑」地区です。寒河江市誕生以前は白岩町に属しており、南方の田代までは約8キロ、西方の柳の沢までは約6キロのへだたりです。旧大円院の前を東へ進む道は、かつての表参道であり、そこを下り千座川にそうて南下すると村山市岩野に達しますが、畑からは10キロぐらいの山道です。このような奥深い山の中腹に、どうしてこのような集落ができたのでしょうか。
畑地区の起源について確かなことはわかりませんが、昭和8年の山形新聞に県小作係の塩田定一氏外2人が連名で『畑八軒』と題して、7回にわたって詳しい記事を書いています。その最初の方で、地区の起こりについては次の3つが考えられると言っています。
@葉山の百姓4人と白岩の仲町の百姓4人が開墾して畑地区をつくった。
A大円院の隠居寺が畑に造られるようになり、その管理かまたは寺の墓地を守るために寺男が土着した。
B大円院の寺男が土着して耕作に従事するようになった。
これらの3つの説は、残っている若干の資料や古老の話などを総合して導かれたもので、新聞記事の中にはその説の根拠となる理由も附記していますが、ここでは省略します。なぜなら、最近(昭和51年当時)白岩のS氏が自宅から見つけた文書は、畑地区と大円院の関係を示す有力な資料であり、現在ではこれによるのが至当だと思われるからです。この文書を見ると、3つの説のうちの第一の説が最も真実に近く、畑地区の人達はかの畑の耕作に従事しながら大円院の雑事に当たってきたというのが事実であるように思われます。S家の文書は、明治7年に、元禄2(1689)年10月の文書を書き写したものですが、その内容は「畑地区の助惣・八蔵・平十郎・彦左衛門という4人の者は新庄領の境守であると共に大円院の寺人であり、永年上納を免除されてきたもので、今後ともそのように取り計らっていく」ということを、4人の願書をもとに大円院と白岩村役人との間で確認し合ったものです。その内容をさらにくわしくみると、4人から大円院に出した文書には「拙者共四軒之屋敷壱反四畝廿四歩」が白岩村水帳にのっているが、4人は「新庄領境守」であるために前々から年貢は免除してもらっている。「其上先規ニ従ヒ葉山寺人ニテ、御出家ハ申スニ及バズ、下々ナリトモ相果候刻ハ拙者共取仕舞申候。御用之節ハ時々御奉公相勤メ罷在リ申候」とあり、大円院の寺人として雑用に従事し、その責務を果たしてきたことが記されています。「元来当村ノ儀御年貢ト申スモノモ御座ナク候。然ルトコロ、17年以前丑年松平清兵衛様御検地ニ遊バサレ候節、先規ニ従ヒ白岩領ニテ御座候故、畑村四軒ノ屋敷ヘモ御竿口入遊バサレ候エドモ、右ノ様子ドモ申シ上ゲ候エバ、御除地遊バサレ屋敷ノ御年貢諸役等モ御免ナサレ候」とあり、その後の方で白岩村の庄屋庄右衛門は、右の事実は「少シモ相違御座ナク候」と、これを確認してます。続いてその後の方に大円院から白岩村役人に出した文書がありますが、その中には「畑村ノ者共拙僧寺人ニテ御座候間、畑村ノ儀モ葉山門前ノ様ニ存ジ候問、ソノ段御代官へ申シ上ゲ候」とあり、さらに寛文13(1673)年の検地の時は新庄領境守であるため、年貢や諸役を免除してもらっており「自今以後畑村地ノ儀ニ付テハ異乱申スマジク、若シ畑村ノ者共御公儀御法度等相背キ申候カ、御尋ネノ儀モ御座候ハバ、此方寺人ニテ候問、白岩村ノ苦労ニバカリカケマジク候。拙僧罷リ出デ埒明ケ申スベク候」として、寺は畑の人達を庇護する態度を明確に述べています。さらにこれに続いて、白岩村庄屋和田庄右衛門、同役人勘右衛門から大円院へ出した文書がのっていますが、これには大円院から白岩村へ出した前述の内容を確かめたあと、「尤モ五入組帳人別帳ハ此方ヨリ差上申スベク候。コノ度御代官所ヨリ古来ノ様子御尋ニ付、四人ノ者ヨリ書付差シ上ゲ申候」として、畑地区の4人は代官所には白岩村所属として報告していることを明らかにしています。この文書を見るかぎり、助惣・八蔵・平十郎・彦左衛門の4名は葉山の寺人であり、寺の庇護を受けてきたのであるが、公的には白岩村に属しておりながらも租税は免除されていたことが明らかです。
大円院の記録
S家文書の内容は以上のとおりですが、この文書に4名の名前がのっているから畑地区の戸数は4軒だけであったと断定することはできません。事実『医王山金剛日寺年要記』の延宝元(1673)年の記事の中に「衆徒連判シテ門前畑在家八軒二孫仏答銭ヲ許ス」と書いてあります。今のところこれが畑地区に関する最も古い記録であり、この時すでに畑には在家が8軒あったことが明らかです。「孫仏」というのは畑地区の北側にそびえ立つ自然の奇岩を「狗樓孫大権現」としてまつった仏様であり、そのほかに付近一帯の自然の岩を大黒天・虚空蔵尊等の本体としており、大円院を参詣した人は必ずこの聖地をも廻ったといわれています。そのための賽銭も相当の額になったものと思われますが、延宝元年に舜誉大和尚が畑地区の生活援助のためそれを畑地区に与えることにしたものであろう。今も地区では「お尊仏」「お聖仏」と呼んでおり、かつては畑の地区民が参詣者の先達を勤め、これらの参拝を終わった人には「生仏」になった印として、M家で「お札」を分かち与えたといわれています。さて、延宝元(1673)年というのは62代の舜誉住職が入山した年であり、この年既に畑地区には8軒あったとすれば、元禄2(1689)年のS家文書に名前が出ている4軒のほかに、さらに4軒あったことになります。この4軒の存在をどう考えればよいのでしょうか。今田信一氏の調査によると、寺人というのは大円院とは宗教的にだけではなく、経済的にもつながりをもっていたようで、寺人は初めのうちは畑地区の三島明神を中心として、その付近に居住していたと思われるM家とK家であったようです。それを裏付けるものとしては、寺用の往来に寺人が使用した「用札」が今もM家に残っています。こうしたことを考えると、S家文書に出てくる4名はM家とK家の先祖であるといえるのではないでしょうか。
白岩村との関係
S家文書に出ている4軒が寺人であったとすると、あとの4軒はどこから移住したのでしょうか。それに関する確かな資料は今のところ見つかっていませんが、畑地区は前から白岩村仲町に属していたことからみると、白岩とは深いつながりがあったものと思われます。先のS家文書はそのことを示していますが、どういう理由で仲町と関連ができたのかについてはふれていません。既に述べたように、塩田氏は、山形新聞記事の地区の起こりの中で「葉山の百姓4人と白岩町仲町の百姓4人が開墾した」という第一の説の理由として「仲町にOという姓があり、これと同じ姓が畑地区にもあること、元来畑地区は地理的にみて大字田代に属すべきが至当であるのに、仲町に属している事」を挙げています。事実、畑地区の古い家の姓にはM・K・Oの3つがあるが、そのうちM・K家が寺人だとすれば、それ以外の家としてはO姓しか残らないことになります。だとすると、O姓を名のる入が仲町から畑地区に移住して、他の4軒と協力して生計を維持してきたということは当然考えられることです。S氏の言によれば、仲町のO家の一族が畑に移住したと言われており、40年程前までは仲町のK商店(40年前に東京へ移住)では、畑でつくった鍬つるやかんじきを売ってくれていたといいます。畑の人達は白岩に来た時は必ずK氏の家に立ち寄り、泊まる時も度々であったということです。O家は元禄2年には寺人には入っていなかったとしても、その後頭髪をそって一定期間寺に行って修業を積んで寺人となったことも考えられます。また、畑地区全戸が寺の雪囲いや雪おろしの作業に従事してきたようで、当時12坊もあった大円院の食糧補給や寺の雑事を処理するために、僅かの戸数しかない畑では、どうしても地区をあげて寺に協力しなければならなかったものと思われます。
言い伝え
資料をもとにした畑地区の起こりについての考察は以上のとおりですが、最後に地区の起こりについて地区に語りつがれてきたことを、参考までに記してみます。
畑地区の起こり
いつの頃か年代は全く不明であるが、葉山大円院に登り急進・横兵衛・下り仁平という3人の武士がいた(彼らのはっきりした素性はわからないが、寺に傭われた用心棒だったのか、あるいは寺にかけこんでそのまま居すわった浪人だったのかも知れない)。寺にゴロゴロして暇をもて余した3人は、退屈しのぎに外へ出ては猟をしたが、3人が協同すればいかなる獲物も取り逃がすことはなかった。ところが、大円院の付近は昔から殺生禁制の場所であり、狩猟は固く禁じられていた。寺では3人の行作を見逃すわけにもいかず、3人に霊地の西を流れる祓川を境にした畑地区に移住するように命じた。それから3人は畑に住みついて大尊仏にお参りに来た人達のお賽銭をもらい受けて暮らすようになった。
一部はこれまで述べてきた事を裏付けるようなおもしろい話です。ただ、この話では武士の人数は3人で、登り急進・横兵衛・下り仁平というのは、獲物を3方から追い立てる様子と結びつけて名づけたものでしょう。地区の家々には戦前までは槍・刀剣・十手・火縄銃・六尺棒などが残っていたということです。
黄金金千両
大円院が慈恩寺の奥の院であった頃、大円院に黄金金千両があった。参詣者から盗まれることを恐れ、これを隠す相談をして、ある夜一人の僧が小箱に入れて土の中に埋めてしまった。僧侶でありながら人を疑ったため、その後、大円院は火事にあったという。
8軒以上になると火事が出る
このことばは一口に迷信だとしては片付けられないほど、深い意味が秘められているように思われます。葉山の中腹にあるこの集落はもともと土地の生産力が低く、食糧の自給すら困難です。地区としては長い間の苦しい体験から8軒位が生活維持の限度であるとして、それ以上の戸数の増加をいましめたのではないでしょうか。江戸中期以降長い間戸数は8軒前後であったらしく、地区の人たちは山の中で生きるためのたゆまない努力を積み重ねてきた結果、生存権のせいいっぱいの自己主張として、このことばを生み出したものと思われます。
「
畑八間」
「畑八軒」というのは語呂のよさも加わって、多くの人が口にしてきたのですが、今田信一氏の調査によれば、K氏は「畑八軒」ではなく「畑八間」がほんとうである、と語ったといいます。同氏は「押立(畑地区の西の方)という所に長さが8間もある大きな石があったため、「畑八間」という言葉が出てきたのに、いつの間にか「畑八軒」となってしまった。近頃(昭和23年)どこかのお役人さんがこの話を聞いてその石を探しに来られ、方々を歩き廻ったが、ついに見つからなかった。」と話してくれたといいます。
8間の石は今どこに眠っていることでしょうか。