にしかたの昔語り
葉山三大祭と葉山信仰
昔、農民にとっては山の神、田の神を送り迎えする神事は、一年の豊作や災難よけを願う大切な行事でした。村山地方における葉山祭は現在7月1日(旧6月1日)の大護摩(虫おくり祭)と10月8日の大護摩(バクチ祭)の二大祭にその名残をとどめています。葉山大円院の大護摩とは、山伏による護摩経文のあと、「南無帰命頂礼慙愧慙愧六根罪障、御注連、御注連に八大金剛童子の一時礼拝」と唱え、以下葉山の神仏の名号を唱和しながら拝む祭りです。その護摩の煙を身に浴びて身の悪霊を除き、収穫の喜びを感謝し、新しい年の種々の予言を聞く祭です。
葉山大風神祭(二百十日)
葉山三大祭の一つにに風祭があります。西村山郡神社誌という本に
「住吉ヨリ毎年五月苗代祭ヲ行フ、近郷賽スルモノ群ヲ為ス大風神祭アリ。(北谷地吉田村ヨリ祭料米壱俵宛毎年献上)」
という記述があります。大風神祭は5月の苗代祭と一連の豊作祈願祭でありました。河北町沢畑に伝わる風祭太鼓や吉田村など葉山山麓の村々に伝わる風祭も葉山大風神祭に関連するものと思われます。
虫おくり祭り(苗代祭)
現在岩野にある葉山大円院で7月1日に行われている春の大護摩のことです。今では岩野地区で虫おくり休みと言って餅をつくだけとなっていますが、以前はもっと厳粛な祭りでありました。虫おくり祭は「サナブリ」の行事と関連しています。地区全戸の田植終了「植満」以後の一週間をサナブリと呼びます。田植終了日の「サナブリの儀」は、田の水口に白幣を立て神酒を供え田の神を祀る田祭りの行事です。その期日、祭日は何日とは決まっていません。村内でも地区ごとにより違っています。
このサナブリに入った初日、朝夜の明けぬうちに、冬の「トウマエ渡し」で決定された2人のトウマエ男が白装束に菅ゴザ蓑を着け、草軽をはき、手に金剛杖、提灯を持って葉山に出立するのです。その姿は、昔は最上一円、遠くは岩手、宮城県からもあったと伝えられています。さて、葉山境内に到着したトウマエ男は、まず祓川で裸になり水垢離をとって身を清めます。その後大円院裏手にある風神、水神、雷神を祀る籠堂(こもりどう−ゴモンドウ)に7曰間忌み籠りをして座禅祈願をします。忌み籠りが明けた日、トウマエ男は葉山の修験僧に柴灯護摩祈祷をとり行ってもらい、梵天(蝗除護符−虫よけ札)を手に拝して山を降りて村に帰ります。村人はサナブリの終る日、すなわちトウマエ男が梵天を持って帰る日の午後、村の社や別当家に集まり、法円の吹く法螺貝で梵天様を迎え、祈祷後法円の手から村人たちに蝗除符が配られました。人々は用意しておいた葦の先を二つに割り、配られた護符を米と一緒にはさんで田の水口(又は冷水の入る所)に刺し立て、お神酒を供えてお祀りします
その日は夜になると「ボヤイモチ」という行事をおこないます。「ボヤイモチ」とは、はやり病を追い出す行事で、6尺位のたいまつ棒を持った村人たちが村はずれに集まり、火を焚いてその火をたいまつにつけ、法螺貝を吹く法円の先達でたいまつ行列をつくり、騒ぎたてながら田の畔道を水口から水口へと歩きまわります。これが虫おくり祭りのフィナーレです。
葉山蝗除御札(故A氏蔵) 葉山本社作神御札守木版(故A氏蔵)
バクチ祭り(年越祭)
旧10月8日の葉山大円院の秋の大護摩を俗に博打祭りと呼んでいます。地域により「おろがむ祭り」とか「お山参りと」も言われています。岩野地区では「葉山参り」と言われていましたが、現在はその風習は残っていません。尾花沢にはその風習の名残りをとどめています。葉山参拝の前日まで七日間は白装束に身を固め、神棚を飾り燈明を点け、神々の名を唱え続けました。百神くらいの神々の名を唱えたそうです。七日明けの夜に出発し、葉山に向かいます。そして、大円院内で囲炉裏を囲みバクチを打ちました。遠く舟形、延沢、鳴子、正厳、玉野方面、谷地近郷から参拝があったといいます。そして、この葉山祭りが終わると里の岩野にも雪が降るとされていました。豊作感謝祭の性格が強く、それと同時に来年の作神を迎える行事でもあるようです。岩野の風習以外のところでは、参詣人が祓川で喫斎し籠堂に籠るところまでは7月の虫おくり祭と同じですが、修験僧に柴灯護摩祈祷をおこなってもらう際に、参詣者は護摩木を身体にこすりつけて身体に宿る悪霊をうつして護摩壇で燃してもらったり、護摩の煙を浴びたりして身につく悪霊を除く習わしがありました。その護符は五穀成就、家内安全、作神葉山大権現祈祷読であり、病気平癒、諸災防止とされている角大師護符でした。
しかしながらなんといっても葉山大円院の秋の大護摩を有名にしていたのは、江戸時代の奉行や後世の警官でさえ取り締まる事ができなかったほど盛んにバクチが行なわれた祭りであったことです。収穫を喜ぶ人々の心がそうさせたのでしょうか。以前は神に感謝する葉山の夜祭りか火祭りであったのではないかと思われます。
葉山民間信仰
葉山山麓に住む人達は、春になると蔵王の残雪は狛犬の伏す姿に、葉山の残雪は鳥居の形になぞらえました。この時節の水で田植えをすると五穀豊作になると伝えられている。岩野地区に最近まで葉山山中に入る山人達の間に馬を引きながら唄われた歌があります。
♪一で一の滝、二で二の滝、三で三の滝、もっと登れば葉山寺、葉山の寺のすぐそばに昔弁慶の泣き岩で、流れも清き千座川、♪
この歌は2月15日の「コッピキ」行事で歌われていました。節は馬子唄調のもので、素朴な唄であるが庶民の葉山に対する理屈抜きの信仰があるような気がします。 農村には、春になると、豊作の願いを込めて山々の残雪を神聖な形になぞらえているところが多くあります。蔵王の残雪は狛犬の伏す姿に、葉山の残雪は鳥居の形に似るといわれています。この時節の水で田植えをすると豊作になると言い伝えられています。
御行様(お山参り、おろがむ祭り)
今日尾花沢市に、御行様ともお山参りとも、おろがむ祭りともいわれている行事が残っています。12月7日から1週問白装束で別当の家に集まり泊り込み、祭壇を設け精進喫斎する行事です。昔は遠く先達付きで宮城県から軽井沢、銀山を越えて集まったことが、江戸後期の記録に残っています。また行者杖等も残っています。この祭りは年越祭り、三山祭の性格がみられますが、かつて、葉山と同様夜の礼拝後、バクチが行なわれたと伝えています。集まる行者姿の礼拝者は御ギョウ様と呼ばれている。女人は近よれないとされたり、昔は法円による火伏せ行事があったと伝えたりしている所をみると、昔は行者により験競べがなされ、この祭りの本質には山伏による護法懸けの儀式が昔は伝わっていた事を物語っているのだと思います。おろがむ祭りの三山拝詞では、斎主が三山拝詞を奏上したあと、「あやに、あやに、奇しく尊、月山、月山の御山の神のみ前をおろかみまする」と唱和し、以下同様に湯殿、出羽、蜂子、各末社の鎮座する地名と神号を三回ずつ唱和して拝みます。葉山では山伏による護摩経文のあと、「南無帰命頂礼慙愧慙愧六根罪障、御注連、御注連に八大金剛童子の一時礼拝」と唱え、以下葉山の神仏の名号を唱和しながら拝みます。
千座川のしめ縄かけ
最近まで岩野地区の青年達には、千座川の一の滝にしめ縄をかける風習がありました。「ヌサカケ」といって、川の上を雪が覆っているうちに、不動尊を祀る滝の前の川の両岸のブナの大木にしめ縄を張る行事です。この日はあらかじめ用意してある餅・酒・魚・米を年男が滝に持っていき、(葉山神の使者と考えられている)鳥にお供えをついばませます。残った餅は持ち帰り、この時伐ってきた新木で焼いて食べるのです。また、この新木は一本づつ各家に配られ、5月の田植時の食事をつくる時の付け薪とされました。
また8月9日になると、春先にかけた千座川一の滝の梵天替えをやって山の精霊を迎えました。これは春の神迎えだけでなく必要に応じて何度となく葉山の神迎えをしていた事を物語っています。このお盆の行事は、葉山は単に作神の座す山というだけにとどまらず、祖霊の座す山とも考えられてた事を思わせるものです。
これと似た行事として、湯野沢では10月8日に山頂参道のブナの木にしめ縄を掛ける風習があります。
葉山講
葉山講とは、葉山神を拝するとともに地区の一年の色々な契約が行われる厳粛な儀式です。「トウマエ渡し」などとよばれ、村の地区単位で行われていました。その時期は大体春秋の2回であったようです。葉山大円院の薬師様の祭日に関連して初庚申の日が重視され、小正月の17日から20日迄の期間に講を開くことが多かったようです。村の境内に見ざる聞かざるもの云わざるの三猿と蛇などを連れた金剛像や薬師像を祀り、夜に羽織袴で集まり、一年の役を勤めた順に着座し、神酒飲食の儀を執り行うものです。その後徹夜で念仏を唱えた後、朝に解散します。尾花沢市延沢の葉山講は「トウマエ渡し」といって、1月20日の夜に開かれています。この席上で、この年の田植終了後に田の水口に迎える葉山の虫おくり護符を取りに行く2人の当番が選ばれます。又各戸でその家の持つ田の枚数や水口数によっていただく護符の数や出資金の割当が決められ、葉山参詣の2人の旅費や村の行事の役割が決められます。昔はこうした準備を経て葉山の虫おくり祭に参詣していたのです。
5月になって、選ばれた年男達が、葉山の苗代祭から虫よけのおふだをもらってくると、農家の人たちは、自分の田の水口の数だけお札をもらってきて、お礼を葦や茅にはさんで田の水口に立てました。そして、虫おくりの行事をして、葉山石碑にお参りをして、秋の豊作を祈りました。
葉山火伏せの行事
火伏せの行事は、地区共同の山神(作神)祭で、おろがむ祭りとも呼ばれます。地区の神社や別当の家に御籠りをして白幣又は燈明を持し、羽黒・月山・湯殿・葉山の権現の神号を唱え拝む祭りです。延沢の「御ギョウ様の火祭り(御行様ともお山参りとも、おろがむ祭りともいわれている)」を例にとると、12月7日から一週間、村人の中から選ばれた籠人が白装束で延沢の八幡神社の別当金剛院にお籠りをし、室内には斎壇を設け精進喫斎し、斎主に憑依(神懸り)する祈祷をします。神がる者は延沢では白衣に鉢巻きをし白幣を持つ斎主ですが、昔の言い伝えでは白幣を持つノリクラであるとしています。おろがむ祭りの三山拝詞では、斎主が三山拝詞を奏上したあと、「あやに、あやに、奇しく尊、月山、月山の御山の神のみ前をおろかみまする」と唱和し、以下同様に湯殿、出羽、蜂子、各末社の鎮座する地名と神号を三回ずつ唱和して拝みます。
江戸後期の記録や金剛院に残る行者杖等から、昔は先達付きで遠く宮城県から軽井沢、銀山を越えて集まったことを示しています。この祭りは年越祭り、三山祭の性格がみられるが、葉山の祭りと同様、夜、神々の礼拝後にバクチが行なわれていたと伝えられています。集まる行者姿の礼拝者は御ギョウ様と呼ばれていました。また女人は近よれないとされたり、昔は法円による火伏せ行事があったと伝えたりしている所をみると、昔は行者により験競べがなされ、山伏による護法懸けの儀式が伝わっていた事が推測されます。
葉山講の石碑
久保地区の三山碑
久保の三山碑(通称ごんげんさま)湯野沢久保的場鎮座。神体自然石高さ130センチ幅90センチ。村山市文化財
「ごんげんさま」とは湯殿山権現、月山権現、葉山権現の三権現を総称して呼んだ神きまの名です。ごんげんさまという名前は、仏や菩薩が人々を救うためにかりに日本の神さまの姿として現れた神さまを「ごんげんさま」と呼ぶことに由来します。また、仁徳の人や社会ために尽くした人を、仏や菩薩になぞらえて「権現様」として神さまにまつりました。徳川家康を東照権現さまと呼ぶのがその例です。ごんげんさまに祀られている葉山はここの葉山ではなというお年寄りもいますが。葉山は端山で村里に近い高い山という意味があり、これらの「高い山」は葉山の麓の里山であって、麓の高い山も奥にある葉山の両方を指して「葉山」と呼んでいるためです。昔男子が15才になると必ず行った湯殿山参りの時、参詣者は行者と呼ばれ女性に近づくことを厳しく禁じられました。こうしたことから、ごんげんさまは、あらい神様で男の神様であるといわれいます。春の例祭は旧暦4月8日、秋の例祭は旧暦8月8日(昔は7月8日)でした。柴燈祭は現在は旧暦12月7日の日に下久保地区の講中で祭が行われています。ごんげんさまの祭日には修験者が祓い詞を唱え、真言文殊般若経・湯殿山拝詞・護身法呪文を唱え、豊作吉凶の易占い・八卦け占いをして、ごんげん様のお告げを聞いていたようです。12月7日のお柴燈祭は、無病息災・攘災招福を祈りました。
毎年12月になると村々では三山(湯殿山)講がおこなわれました。女人禁制で白装束でお籠もりをし、囲炉裏にホオドを立て、床の間に三山神を祭り、法円の三山拝詞に唱和して、灯明を1本1本ともしていきました。外には出店も出て賑わったそうです。参加者は水垢離を取り素足で雪の上を石仏の葉山〜月山〜湯殿山碑と回って参拝した、と地元の古老は伝えています。文化2年7月、杉原惣助という人と、湯殿山講中の人たちが建てた石碑です。
ごんげん様境内の供養塔
二十六夜供養塔(写真向かって右端)
陰暦の正月と7月の26日の夜半に月の出を待つて拝むと、月光に阿弥陀三尊が現れて病苦や貧苦から救い、先祖の霊を極楽へ導いてくださると言われています。二十六夜様は夜ごもり行事で夜明かしをするので、翌早朝にはお日待ちになります。お日待ち講は、毎年正月に大久保北口地区で行っています。豊作と悪病災難除けのため、天照大御神を拝み厄歳払いをしたり、虫除け札をよしに挟んで地区内の家々の門にたてたりしました。地区内の安全祈願だと言われています。
三界万霊(写真向かって右から2番目)
仏教の三界とは、俗界・色界・無色界を言います。三界万霊供養塔は、三界すなわち全世界の一切の生きものの精霊を供養した塔です。
南無阿弥陀仏(写真向かって右から3番目)
夜念仏講・百万遍供養
夜念仏と月待ち・日待ち講は、どちらも鉦を打ち鳴らし、阿弥陀の六字名号を唱える行事です。念仏講は数珠まわしをする点が月待ちと異なるようで、念仏踊りなども行われていたようです。ごんげん様境内にある供養塔と念仏塔は、数珠まわしの方で、病苦・貧苦の救済を祈願し、祖霊の成仏を祈った行事です。鉦を打ち鳴らしながらの念仏踊りは、天神鹿の子踊りに通じるものがあります。何年かかけて百万回を唱え終わると、その記念に百万遍供養塔を建てました。講は、講中の輪番制で、当家(当番の家)で共食して念仏踊りや唄を唄い親交を深める娯楽の意味もありました。
二十三夜供養塔(写真向かって左端)
陰暦の3日・13日・17日・23日の夜に、月の出を待って月を拝む行事です。23日は熊野山の祭日で、春分と秋分が例祭日です。子供の心身ともに健全な愛育と円満な家庭を祈った月待ちです。おくまんさまに参詣したあと、その夜は、親類や友達を呼び集めて、唄や踊りをおこない、バクチなどもあったと言われております。
十八夜供養塔 (写真奥)
おじゅうや様と親しまれた、月待ちで一番建碑の多い月待供養塔です。六根清浄・病苦の救い・現世のご利益を祈った行事の供養塔です。十八夜さまには、塩飯・赤飯・豆飯・胡麻飯・くるみ飯・粟飯の六根(種)のご飯を供えるといわれています。「子供の頃、おじゅうや様の祭りの日、供物のおにぎりをもらいに行くのが楽しみだった。」と話すお年寄りもいます。
日本回国放捨宿供養塔(写真手前)
回国とは、全国を巡礼すること、放捨宿(ほうしゃやど)とは、神仏へお礼参りのために巡り歩く修行者や巡礼者・お蔭げ参りの人や一般の旅人に無料で貸す宿のことです。天明8年、天明の飢饉で亡くなった人々の往生を願って、四国まで巡礼した時、巡礼の一行の人々の旅の安全と無事を、村に残った人々が祈った供養塔です。