にしかたの昔語り
明治葉山地図
しめかけブナ参道探検記
明治時代末の葉山と樽石・岩野・湯野沢付近の地図です。すみませんがスマートフォン版には「戻る」ボタンなどで戻ってください。
国土地理院発行の50000分の1の地形図月山(大正2年発行)・尾花沢(明治36年発行)・左沢(大正2年発行)・楯岡(明治41年発行)から作製しました。
ほぼ原寸大表示です。赤い線は道路,水色は川です。線を入れたのは私ですので間違っているところもあると思います。ごめんなさい。ごらんのとおり,昔は葉山大円院と周辺の村々との山間にはたくさんの道路が走っていたことがわかります。なお,現在これらの山道は大変状態が悪く,車で入ることは不可能です。また道がなくなっている場所もあります。危険ですのでみだりに「探検」することはご遠慮ください。
しめ掛けブナ参道探検記(誇大表現?)
平成22年5月30日,しめかけ(注連掛け,シメかけ,七五三かけ,どれが本名かわかりませんが,)ブナ参道を湯野沢側から登り,葉山大円院まで往復してきました。今年は雪解けが遅く,5月8日岩野側から大円院に車で登ろうとしましたが,三の滝の少し上で残雪のため断念。このルートの積雪がこのくらいあるのならしめ掛けブナ参道も同じで登るのはとても無理だろう,ということになり,一緒に登る人と相談して5月30日の登山となりました。山に近いところに住んでいる人はお分かりかと思いますが,雪が融けて暖かくなり,一雨降れば山の緑は急激に深まります。6月に入るともう道はわからなくなるのではないかと思い,今年最後のチャンスかもしれないと思い,決行(またまた誇大表現?)しました。知り合いの人に声をかけたところ総勢5名+犬1匹の大部隊となり,とりあえず熊と単独遭難の可能性は低くなり一安心です。
登り初めは道がたがわかりましたが,数百mほど進んだところで早くも道がわからなくなり始め,ブッシュの中を地図と勘を頼りに進んでは道を確認しながらの登山となりました。とにかく灌木と藪の中の登山で,登山靴ではなくゴム長にすればよかったと思った次第。前を行く仲間の姿も見えなくなりがちで,「おーい,おーい」と声を掛け合いながら登り,時々集合しては「今どこら辺まで進んだかな?この尾根のあたりまできていると思うんだけど。」「いや,まだ一つ手前の尾根までだろう。」「この先が道がただと思うんだけど。」「いや,尾根筋に登っていくんじゃないか?」・・・こんな感じで地図を確かめながら複数の目で道を探しながら登っていきました。途中木々の間からは時々下界や尾花沢方面の山々が見え,奥山に迷い込んだのではないか,という不安を取り去ってくれました。道跡はこんな感じです。遊び気分で登るのは本当に危険なのでお止めくださいね。
フンフン言っているのは私です。うるさくってすみません。これでも楽なところだったのでビデオが回せたのです。多くの部分が完全に雑木林の藪の中です。
ところが,中間よりやや大円院よりの地点で思いもかけないものを発見しました。たぶん墓石です。最初は道標が倒れているのではないかと思ってみなが集まり,おこしてみると俗に言う芋墓の墓石です。断定はできませんが形からして多分そうだと思います。だとすればお坊さんのお墓,ということになります。苔むした部分があり,文字はよく読めませんでしたが,寛政という年号が読み取られました。父の書いたものの中に,「吹雪で遭難し凍死した山伏の碑・・・」という記述があり,ひょっとしたらその山伏のお墓なのかもしれません。でも,お坊さん(山伏)のお墓ならばなぜ大円院か麓の村に造らなかったのでしょう?不思議です。とりあえず倒れていた墓石?は起こしてあげて,みんなで丁重にお参りして大円院を目指しました。この墓石?についてご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。
しばらくいくと測量用のテープを発見。どうやら最近大円院側から途中までおりてきた人がいたようです。後で帰りによくみてみると湯野沢側からもしばらく入ったところまでは木に目印がつけてあったり新しく折られた木の枝があったりして,全区間約3qほどの内上下1キロくらいは人が入っているようです。山菜取りの人でしょうか?営林署の人でしょうか?でも,全区間のうち真ん中の部分は人が入った形跡はありませんでした。しめ掛けブナ参道全行程を通して踏破したのは多分我々が数十年ぶり,久々の登山だったのではないかと思っております。
葉山は初夏の色合いで,エゾハルゼミがさわやかに鳴いていました。おまけの映像に,帰りがけに撮影したエゾハルゼミの鳴き声を紹介します。感動のあまりうなっているのは私です。雑音をいれちゃってごめんなさい。