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にしかたの昔語り -葉山信仰と大円院-

葉山大円院の歴史



葉山信仰
         
                           「ひがしかた」より葉山を望む
 村山市の西方にそびえる葉山は国最上、村山郡の地主神、作神つまり、農業神として信仰されてきました。
 昔の出羽三山は、月山、羽黒山と葉山だったといわれています。室町時代になり西川町大井沢の道智上人が湯殿山を開いてから、現在の月山、羽黒山、湯殿山が出羽三山になったといわれています。
 葉山は古くは「羽山」で、村山平野の里近い端の山の意味で、神の来臨する山とされてきました。葉山の神が最初に文献に登場するのは平安時代の三代実録という書物で、「貞観13(870)年8月28日、出羽国白磐神須波神並に従五位下を授けらる」とあるのが最初である、とされています。しかし、出羽国風土略記という本には「貞観12年式外社白盤神従五位下ニ列セラル。祭神在所等詳ナラズ、今白岩ト称ス地カ。」と書かれており、白盤神の所在地を証明する記録は見あたりません。その後の古文書には「羽山」「葉山」と記されています。葉山古縁起校定という本によれば奈良時代の大宝2(702)年行玄という僧が葉山の峰に登り地主神の社殿を建立した、とされています。しかしいずれにしても、葉山神は貞観頃には勧請され、天台・真言の修験仏教が入っていたことは確かなようです。古い時代には岩手、宮城、福島にまで葉山信仰がひろまっていたようです。葉山といえばすなわち昭和30年まで葉山山中にあった天台宗の御山医王山又注連山大円院をさします。大円院は薬師像、不動尊を安置し、境内に雷神、三猿を祀り、開祖とする役行者像を安置する寺として知られていました。また、葉山修験道場の霊山でもありました。 大円院の歴史の基本的な資料である「葉山医王山古縁起見聞」を抄出意訳して紹介します。
 「葉山大円院は59世住職栄西禅師が、入唐の折天台山に於て瑞夢を蒙って、帰朝後当山に入り中獄を医王山と号したと伝えられる。葉山は役行者を開基とし、出羽国村山郡葉山三山五獄の濫觴者は天地草味の昔、霹靂の斧を運らして、これを削りて山を開きなさった。雷神は七山を截ち八沢を塞ぎ平正にし、如掌と是に雷神の力を以って社寺殿堂を造り、その偉力は七峰八沢に及んだとある。更に三観一心の旨を示し、三密同理を顕す円満なる実想として三猿の像を安置するという。
 二世僧正行玄は、大宝2壬寅年、金色の三鈷を持し空に向って投じると蓬か雲中に紫雲がたなびいた。彼は瑞雲に従って当峰に入り地主権現を拝して、踊躍歓喜し緑苔を踏み無双の霊場とした。そして金剛、薬師如来の尊像を安置し、葉山修験の一定の方式を執り行ったという。又慈覚大師が諸国巡遊の時葉山に入り、山上の大岩に不動明王の尊像を彫刻して柴燈護摩の秘法を行い、座をもうけ仏に祈ること一千座であった。その不動岩足下より東流する川は千座川となり、その智水に触れる者は生死煩脳を除き、垢穢者は菩提の彼岸に到る。西流する川は祓川となり、滝水があり、菩提の宝泉にして、これに浴するものは無垢無明邪悪を滅し諸願望がかなえられるとされている。」
 葉山は原始的な信仰としての農業神に神祗信仰、仏教や陰陽道を主軸とする信仰が習合し、葉山修験という独特な教義作法が複雑に分化し、やがて葉山修験という独自の教団が形成され、発展していきました。湯野沢の坊ヶ峯一帯には弘法寺、大乗坊、熊野堂、長松坊など八坊があった伝えられてます。岩野の坊ヶ峯には11坊の宿坊があったと伝えられています。明治初年の調査によると葉山は最上郡42ヶ寺、西村山郡9ヶ寺の末寺を持っていたとされています。葉山大円院から出された末寺に対する坊院号免許状等の江戸時代の免状が今日も残っています。これら葉山大円院の末寺の修験者たちが庶民を先達して葉山に参詣することによって葉山信仰を広めていきました。これら修験者たちによって村山、最上地方のみならず福島県相馬地方や宮城県牝鹿半島にまで葉山神の信仰が広められたといわれています。
 葉山修験が教団としての形を整えてくるのは、江戸時代に新庄藩の戸沢氏が葉山大円院を藩の祈願所などに指定して保護するようになってからのようです。これには葉山の麓である戸沢領谷地郷の農民を宣撫する意味もあったのではないかと推測されます。寛文から天和、元禄にかけての戸沢公による大円院堂宇の整備はその信仰の深さを示しています。慶安2年頃の湯野沢大照院が新庄公に武運長久の御守札を届けた時の交通手形などが残っています。その前の時代の最上氏も葉山大円院を保護したようです。葉山修験教団は各派修験の争いや領主の交替がくり返される中で、羽黒や慈恩寺、湯殿山修験に包括されながら発展していったものと思われます。
 しかし、6月1日の葉山の祭日に蝗除け札を葉山修験院より受けている以外、葉山山麓の村々には葉山信仰の伝承のかげはうすく、葉山講の名残りや葉山講の石仏は意外と残っていません。これに対して湯殿山の碑は多く残っており、多くは権現様として信仰されています。湯野沢を例にとってみると、湯殿山碑6基に対し葉山碑は1基です。葉山に代って湯殿山碑が多いということは、葉山の奥宮は湯殿山と考えていたためなのか、それとも自分たちの村は葉山神の鎮座する境内だから葉山講や石仏の建立は不要と考えたためなのでしょうか。それとも、羽黒、湯殿、慈恩寺修験に押されたのでしょうか。また葉山山麓の村々には山神の石仏が多く、これは各村の山の入り口、すなわち端山は葉山神が降臨すると考えたためだと思われます。その点からすると葉山山麓の村々に葉山信仰の伝承の名残が少ないのは、村人たちが端山に降臨する葉山神の奥宮が湯殿山・月山であると考えてきたためと思われます。
 江戸時代の人々は葉山、月山、湯殿参詣を記念し、各地に石碑を建てました。湯野沢地区には中央に湯殿山、右に月山、左に葉山と刻んだ碑が残っています。しかし全体的には湯殿山の碑が多いのですが、これは道路の発達にともない庶民の信仰が葉山からより奥山の湯殿山へと広がっていったことの現れと考えられます。しかし、不思議なことに羽黒山の碑は一つもありません。推測ですが、葉山は出羽の国の奥山(月山・湯殿山)の神々が降臨される東側の里近い端山、羽黒山は西側の里近い端山、という役割があったのではないでしょうか。言ってみれば葉山は村山地域の羽黒山の役割を果たしていたのではないかと思われるのです。湯野沢のN翁は、「江戸時代初期ごろは、村山や最上地方では鳥海山・月山・葉山が出羽三山で、その奥の院が湯殿山であった。庄内は葉山でなく羽黒山である。」と語っています。江戸中期ごろ湯殿山が三山に組み入れられ、鳥海山は三山からははずれたようです。その後江戸末期には葉山が衰微し三山からはずれたようです。
              
      葉山大円院本堂(昭和9年葉山大円院発行絵はがきより。絵はがきはデータ化されたものが村山市立図書館にあります。以下同)
(ここからは寒河江市立白岩小学校・寒河江市立白岩小学校発行「畑八軒」(昭和51年)より抜粋し、図表を付け加えた上文体も改めて紹介します。)
葉山信仰と大円院
 つい最近まで近郷の農民の間には「葉山の寺から虫札をもらい受け、境内からとってきた笹の葉と重ねて小枝にはさみ、田の水口に立てておくと、稲に虫がつかない」という信仰があり、農民達は6月朔日には大円院にお参りして、お札をもらい受けたものでした。 大円院のお札は年間最高30000枚も配布されたというから、当時の葉山信仰の深さを知ることができます。河北町のK家文書(「河北町誌編纂資料編」第48集)によれば、寛政年間(1790頃)に新庄領では「葉山大円院ヨリ五穀成就御祈疇ノ御札遣ワシ候間、御支配所村々へ御渡シ成サルベク候」という書状を各村の名主に廻しており、文政8年(1825)には7月13日付で、「此ノ度、葉山ニオイテ天気快晴五穀成就ノ御祈禧仰セ付ケラレ、右御札御渡申シ候間、御支配所村々へ御渡シ成サルベク候」という書状を出しています。
 葉山大円院は修験道の道場であり、羽黒派に属しながらも一時は「葉山派」と呼ばれる一派をなすまでに発展しました。大円院に残っていた寛政5年1793)の『出羽国村山郡葉山檀廻帳』によれば、葉山修験道は山形県だけでなく、遠く宮城県の太平洋沿岸の人たちにも信仰されていたことが明らかになっています。 山伏といわれる修験者たちは葉山に来て修行し、それぞれ大円院別当や大先達から補任状をもらい、村々に帰って葉山信仰の中心的役割を果たしていたのです。

大円院の創建
 このように栄えた葉山の大円院は、いつ頃建立されたのでしょうか。実はその確かな資料は見つかっていません。
 一般に大円院は文武天皇の時代(697~707)役行者によって開かれたと言われていますが、これは葉山が修験道として栄えたため、その道の祖ともいうべき役行者を開祖としたもので、事実とは認めがたいものです。また大円院に残っていた『医王山金剛日寺(大円院のこと)年要記』にも、これと同じようなことが書いてあるが、その記述内容もまた事実とは認めがたいものです。
 また、葉山と慈恩寺との関係ですが、慈恩寺に伝わる『出羽国村山郡瑞宝山伽藍記』には、「葉山と瑞宝山(慈恩寺)は元来一つの峰であって、葉山は慈恩寺の奥の院であった。」と記されており、このことは一般に認められております。だとすれば、葉山がいつ頃開かれたかを知るためには、慈恩寺のことも調べてみる必要がでてきます。
 大友義助氏の研究によれば、『慈恩寺縁起』には「天平18年(746)波羅門僧正が勅命を奉じて「寒江山慈恩律寺」を創立した。」とあるが、そのまま事実とは認めがたく、一山の堂掌が整ったのは、仁平元年(1151)摂関家藤原氏と平泉の藤原基衡の寄進を受けてからのことである。葉山は慈恩寺の奥の院であったことは確かで、天正年間(1573~1591)に何らかの理由で両者が分離Lた。」という研究結果がでています。今のところ、葉山の古い時代のことは、このようなことから推測する以外に方法はありませんが、極めて大まかな言い方をすれば、大円院には1000年に近い歴史がある、と言えるのではないでしょうか。

大円院の変遷
 地方の豪族達は、領民の心を集めて治安を維持するために、その地方の名のある神社仏閣を信仰し、領民の心の拠り所とするのが常でした。大円院もまた同様で、最上家や新庄の戸沢家から寄進を受け、一山の繁栄を保ってきました。
 『医王山金剛日寺年要記』によると、武藤義光公(最上の誤りと思われます)が文禄2年(1593)に金仏の尊像・大鰐口・金銀泥筆の巻経を寄進し、大江備前守(寒河江城主)は元和元年(1615)本堂を造営しています。また、慶安2年(1649)には幕府から社領地として、吉川村内に5石6斗の朱印地が与えられています。最上家改易後、大円院は新庄城主戸沢公の所領となり、以後幕末まで、戸沢公は大円院に対し手厚い保護を加えました。承応元年(1652)には本堂を修造し、万治2年(1659)には飯米100俵を下附し、寛文10年(1671)には本殿、延宝元年(1673)には奥の院を再興、同7年(1679)には本堂の屋根を修復するなど、大円院を新庄藩の祈願所とし、領民の信仰の的として庇護しました。万治元年(1658)には「橋本坊ヨリ天火出テ衆徒十ヶ寺焼失」という記事があり、この頃すでに12の宿坊があったことがわかります。また、寛文5年(1665)には「東叡山へ初メテ勤ム」と書かれており、延宝3年(1675)には「東叡山ヨリ葉山仕置定目明実二賜フ」とあり、この頃から東叡山(上野の寛永寺)の管轄下にはいり、末寺となってその地位を確保していったようです。寛文5年(1665)、新庄領と白岩領との葉山境界についての争いが起こり、江戸奉行の裁定によって大円院は新庄領と決定しました。そのため戸沢公はますます葉山信仰を強化したと考えられます。
              
                  薬師堂(寛文11年戸沢氏再建)昭和9年の大円院作製絵はがきより
 葉山の堂塔・仏像・法具等が最も整備されたのは、延宝元年(1673)に62代住職明実(後に名を舜誉と改める)が入山してからです。舜誉は自ら「葉山三山主中興」と称していますが、その名に恥じない活躍をしている名僧です。入山の翌年には別当屋敷をつくり、延宝4年(1676)には山王宮を建て、半鐘一口・鰐口三体を鋳造し、籠堂を建立、天和3年(1683)には弁天堂を建立、さらに元禄4年(1691)には撞鐘を京都で鋳造し、酒田から最上川を遡り大久保から2000余人の手によって葉山まで運んでいます。『葉山古縁起校定』は元禄2年(1689)に舜誉自ら校定したもので、この中には新しく寄進された堂舎や仏具が数多く記されています。

                 
 その後葉山の勢力は次第に衰え、万治元年(1658)には12あった宿坊が、安永5年(1776)になると6坊に半減してます。6坊に半減した正確な年月は不明ですが、当時、遠路から参拝に来た行者は、必ず宿坊に宿泊しなければならなかったわけで、かつては葉山派修験道場として栄えた大円院が、江戸中期から急速に衰えたことだけは明らかです。
 下記年表は父の講演資料「葉山と民間信仰」のレジュメに掲載のものです。本ページでも紹介している中里松蔵「葉山の歴史」昭和54年所載の「医王山金剛日寺年要記」に父が調べた年代記を追加したもののようです。このページはこれにさらに遅々の調べた年表を追記したものです。表には少し疑問点もあるのですがあえてそのまま掲載しました。
時代 西暦 年号 記事(関連記事) 出典など
奈良時代    701  大宝元年  大宝律令制定  
702 大宝2年  役小角の弟子行玄、葉山入峯修行し、地主神の示現を拝し社殿建立す。 葉山縁起
白岩小中学校「畑八軒」
 712  和銅5年   陸奥国最上置賜二郡を割き出羽国に隷せしむ。   
721 養老5年  行基、東根花岡に薬師寺を創建す。同御殿山を開削美田たらしむ。 北村山郡史
 724  神亀元年   最上慈恩寺 行基開基す。  慈恩寺縁起
746 天平18年  聖武天皇の勅を奉じ婆羅門僧正精舎建立開基 寒江山大慈恩律寺と名付け白山・八幡神を鎮守と為す。  慈恩寺縁起
 白岩小中学校「畑八軒」
   天平年間    釈行基薬師寺を花岡に創建す、東根字津河にあり。聖武帝の勅願所、最上義光之を山形に分祀す。師この地にあるや御殿山を開鑿して藻湖の渚水を排除して良田美田たらしめらる慈覚大師 山寺安養院を開き、最上川の三難所なる御殿山を開墾す。民大いに之れを喜び安養院を建立す。  
759 天平宝字3年  陸奥・出羽国駅舎を創定す。雄勝城成る。玉野・避翼等の駅を設置す。  
 772  宝亀10年  従五位下多治比真人乙安出羽守に任す。  
 780  宝亀11年   最上郡大室塞を修めて非常を警備す。野後に至る。  
平安時代  826 天長3年  瞽者元都出羽国村山郡寒川井の葉山に詣で、衣冠の神の至現を拝し汝の郷国真野村御山に勧請せよとの託宣あり、金像一体を授かる。 河北町史○○県真野村○○神社縁起
 833  承和4年   藤原良房・同七年藤原高房出羽按察使に任ぜらる。  
842 承和13年  上(岩)野村に慈覚大師円仁松尾大明神開基す。大円院配下修験雷雲院。 北村山郡史
 850 嘉祥3年    出羽国大地震  
 851 仁寿元年    坂上大宿祢常岑出羽守従二位に仁ず。  
860 貞観2年  慈覚大師円仁、山寺に宝珠山立石寺を創建す。比叡山根本中堂の宝燈を山寺に分火す。 山形市史
 869  貞観11年   巳丑正月 藤原基経 出羽按察使に仁ず。陸奥・出羽国大地震。  
870 貞観12年  8月出羽国白磐神・須波神に従五位下を授けらる。 三代実録
886 仁和2年  11月最上郡を最上・村山三郡に分割す。 三代実録
 887 仁和3年    坂上茂樹 出羽国井口の国府を最上郡大山郷保宝士野に移建を申請す。  
985~1012 寛和~
寛弘年間
 小田島荘成立?寒河江荘成立?天仁元(1108)年藤原忠実寒河江荘領主。 山形県史
1057頃 康平年間  鬼甲城主、源頼義の臣渡辺武剛、坂田金平に破る。 北村山郡史
1089 寛治年間  宮城県志田郡月山権現社伝に「源義家東征の時、鎌倉権五郎景政羽州三山権現に祈り、月山権現を本邑に、羽黒権現を千石邑に、葉山権現を次橋邑に勧進す」他天長・仁寿・貞観の創建多し。 河北町史
1151 仁平元年
 慈恩寺、摂関家藤原家・藤原基衡の寄進をうけて堂守整う。
白岩小中学校「畑八軒」
1187-1191 文治3年~建久2年  4月栄西禅師求法のため宋朝に入り天台山に登り瑞夢を蒙り建久2年4月帰朝鋳たし6月12日葉山に至り地主権現堂を建立す。当山中興開山は栄西禅師なり、すなわち葉上僧正是れなり。山踏み分けの元祖は役の行者なり。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
 1189  文治5年   平泉藤原泰衡滅亡す。  
鎌倉時代   1269  明応6年   羽州村山郡貝塩 論語集解抄 写本 鎌倉文庫  
 1295  永仁3年   北条時宗の後家尼潮音院殿「出羽国寒河江庄内工藤刑部左衛門入道知行分五箇郷」円覚寺に寄進す。  河北町史
南北朝時代     1360  延文5年   大般若並羅密多経写経 奥書 奉施入羽州村山郡小田島庄垂石郷羽黒  ○○堂文書
 1364  貞治3年   延文5年~貞治3年まで五点(ママ)  東根小田島庄白津ごう(ママ)
 1368 貞治7年
 
 山形市山家一明院板碑 月山行人百余人結衆 種子弥陀 本体観音・勢至  
 1369 正平24年    漆川の戦い 鎌倉氏満・斯波直持・最上兼頼 奥州宮方(南朝)を攻める。  
室町時代  1424 応永31年   樽石羽黒堂創建  
1457 長禄2年  甘糟大和守当山目代として本堂御修覆。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
 1498  明応7年   樽石 金覺寺 連如聖人判御文  ○○寺蔵
1528 享禄3年  3月当国守護先規に任せ吉川村に於て5石6斗の御墨付葉山権現社領として時の別当権大僧都法印承誉へ下し置かる。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
安土桃山時代 1592 文録2年  当国守護出羽侍従武藤(まま)義光公御祈祷の為め本堂十二神堂御建立並峯中柴灯護摩壇御寄附。同2年大明国朝鮮陳(まま)の御願望に依て金佛の尊像大鰐口並紺紙金銀泥筆の巻経二軸御名乗書きまて御添へ御寄進其の上地主権現御供米として最上一円永代配札御免許。 白岩小中学校「畑八軒」ほか
1615 元和元年  大江備前守本堂御造営。 1625寛永寺創立。このころより大名の山林占有始まる。
江戸時代  1622 元和8年   戸沢氏入部   
1649 慶安2年  大猷院様先規に任せ御朱印を別当宗明頂戴す。 1636日光東照宮造替。この頃より江戸の人口急増。1641江戸大火。
1650 同3年  葉山境内殺生を禁す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1651 同4年  将軍家御尊牌道場に安置す。  医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1652 承応元年  新庄御城主戸沢能登守忠義公本堂御修造。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1653 承応2年  戸沢能登守殿御頼に付き御祈願相勤む。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1654 承応3年  新庄御城主へ鉄炮証文書き上る。 1657江戸明暦の大火
1658 万治元年  9月10日橋本坊より天火出て衆徒10ヶ寺焼失。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1659 万治2年  正月15日の夜本舎(ママ)鳴動す。新庄御城主より飯米100俵葉山へ下し置かる。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1665 寛文4年  新庄領と白岩領の境争いの結果、大円院は新庄領と決定。
白岩小中学校「畑八軒」
1666 寛文5年  東叡山へ初めて勤む。別当同衆徒書付を指し上る。宗明代の事なり。葉山境内論争起こる。白岩谷地郷水論 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1667 同7年  正月8日日光山に於て万部御経衆に御召加への御回章到来す。同日夜半頃天火下て本堂尊像霊宝並末社5宇焼失。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1670 同10年  長坂道注連掛松の所並注連掛松と大森との中頃本堂より35、6丁先きに地堺の印し土中に埋め置く、西の方は小兀に境の印し是れ有り。 東廻り航路開設
1671 同11年  戸沢能登守殿本堂御再興、材木は社内の木を伐り用るなり。明実十二神堂再建す。10月23、4、5大風吹き堂社坊屋顛倒し大杉6本中より折る。境内の材木にて堂坊修造す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1672 同12年  山中出銭致し行者堂を建ッ4月別当の名字を大円坊と衆徒と相争ふ。 西廻り航路開設
1673 延宝元年  2月20日明実住職仰を蒙る。戸沢能登守殿奥の院御再興衆徒連判して門前畑在家8軒に孫佛賽銭を許す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1674 同2年  明実別当屋室を造る。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1675 同3年  2月15日東叡山より葉山仕置定目明実に賜ふ。同万部御経衆に御召加への御回章到来す。葉山に於て三季講を始む。明実大円坊を大円院と改む。葉山院主執行別当学頭を兼ぬ。6月雷落て大杉折る。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1676 同4年  西の原に山王宮一宇建立す。4月半鐘一鰐口3鉢2鋳立る。7月18日16体の勧進を始む。明実篭堂を建立す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1677 同5年  明実奉加にて丈け3尺の金色の脇士日光月光京都に於て建立し6月8日本社に安置す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1678 同6年  明実丈け3尺余の不動尊多聞天京都に於て建立し6月朔日本堂へ納む。11月3日門前在家一切魚鳥殺生を禁す。明実本坊寺内屋敷を拵へ直す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1679 同7年  6月十二神の内4体再興し本社に安置す。戸沢能登守本堂屋根替へ成し下さる。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1680 同8年  3月28日本堂の常香盤自ら焼る。5月8日家網公御他界厳有院殿と号し奉る。同16日御尊骸東叡山に入る。同日一品親王御入滅。6月十二神の内4体本社に納む。明実大佛器を山形より調ひ納む。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1681 天和元年  5月東叡山に於て万部御経衆に召し加らる。天下御代々の御尊牌道場に安置す。12月朔日篭堂風にて破る。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1682 同2年  4月明実篭堂を再建す。 1682天和の大火
1683 同3年  5月明実弁天堂を建立す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1684 貞享元年  正月明実名を舜誉と改む。6月公儀へ御朱印写を指上る。10月7日山門に於て大会竪義相勤め伝灯大法師位に任す。京都に於て地蔵尊を建立し寺内に安置す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1685 同2年  本堂御前道造り替へる。8月(まま)法華部自読供養石を立。舜誉稲荷堂を建立す。4月本坊檀那場羽州の内衆徒12人に合力す。5月孫仏鳴動すること2度。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1686 同3年  3月綱吉公御厄前仰を蒙り御祈薦護摩百座修行す。5月東叡山万部御経衆に召加へらる。6月舜誉大佛器14護摩4面器大小12輪灯常灯笠燭台鐃鉢を本社へ納む。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1687 同4年  正月綱吉公御厄年仰を蒙り御祈疇護摩百座執行す。9月29日御朱印頂戴長瀞にて松平清3郎殿より受取る。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1688 同5年  4月24日東は千座川仁田沢注連掛まて本道は大森嶺まて長坂道は大楢十禅師祓川注連掛松まて西は畑小兀嶺まての5道本社よりの丁数を先例に依て舜誉改め記す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1689 元禄2年  正月東叡山の厳命を蒙り葉山派諸山伏結裟袈を紫紋白に改む。5月峯中山篭り30日を15日に執行す。6月より在々に年行事を置く。舜誉葉山縁起入峯執行法則を写し直し並に流派結衆帳を改む。
 S家文書-助惣.八蔵・平十郎・彦左衛門は新庄領境守、大円院の寺人。
白岩小中学校「畑八軒」
1690 同3年  4月戸沢能登守殿本堂葺替へ成し下さる。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1691 同4年  6月6日より撞鐘を登す。人足都合2000人程本願主は舜誉なり。銘意趣書き等自製す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1692 同5年  8月2日戸沢政條公より奥の院御再興の材木登る。14日普請竟り15日遷宮。9月舜誉衆徒助力して鐘堂を建立す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1694 同7年  2月18日明純羽黒山東光院に為る。9月18日明純羽黒年行事に為る。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1695 同8年  9月18日明純羽黒山年行事を止む。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1696 同9年  東叡山に於て厳有院様御法事万部御経衆に召加へられ舜誉4月2日発足致す。明純も御経衆に召加へられ羽黒山惣代として同日発足す。舜誉持佛堂の不動尊を再興す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1697 同10年  5月奥の院御拝の戸再興す。6月29日御城主より御尋につき葉山三山の号同寺号秘密たりといへとも御披露に及ふ。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1698 同11年  衆徒助力して鐘の鉤鍵同撞木の鉤鎖5筋附入す。立石原に舜誉下屋敷を構ふ。 1698寛永寺中堂落慶するもまもなく焼失
1699 同12年  4月立石原の下屋敷に舜誉第屋を営む。5月舜誉東叡山へ隠居の願指し上る。6月25日願の通隠居御免後住明純へ仰せ付らる。8月17日7ッ時河口坊より出火致し橋本坊掛作坊田沢坊並に材木小屋に火移り材木100本程其外杉板青木まて残らす焼失。 閏9月23目明純江戸発足。同27(まま)日当山へ到着。同日什物等引渡し相済む。10月15日明純始めて戸沢下野守殿へ拝謁す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1700 同13年  正月明純病気に依て新庄年礼不参同。20日日光山に於て万部御経衆に御召加へ並に御朱印境内寺務衆徒末派檀方等不残書き出すへき由の御回章東叡山より到来。3月16日明純葉山出立22日日光山へ着26日御門主へ御目見へ仰せ付らる。4月6日万部御経始まる。15日御法会終る。16、17御祭礼。18日日光山発足。20日江戸着。2625(まま)日万部御経始まる。27日万部終る。28日戸沢上総介殿へ拝謁す。5月23日江府出立。6月3日山形へ着。宝光院に4日逗留。7日登山。此年旱りにて4月より10月まて参詣の道者3000人。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1701 同14年  正月28日明純戸沢上総介殿へ謁す。2月7日橋本坊忠実隠居す。松厳寺観海橋本坊に為る。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1702 同15年  正月28日明純戸沢下野守殿へ拝謁す。4月石坂30間明純造る。20間は衆徒作る。5月18日寺建立の為め新庄御城主より米100俵御拝借。6月朔日明純上総殿(介入)へ拝謁す。峯中御札差上る。御挨拶の由にて晒2端拝領す。使者は山田助左衛門と申す者。同月河口坊の舎出来同。12日石坂成就す。7月掛作坊の舎小屋掛けの如に造る。6月より別当屋敷築地を造る。9月18日杣入。10月3日地祭。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1703 同16年  7月秀如葉山住職仰を蒙る。 1703元禄の大火。南関東大地震。
1704 宝永元年  3月15日秀如戸沢上総介殿へ拝謁す。秀如葉山縁起並に境内記録添削を加ふ。右は古年代記破損に依て後来の為め沙門圓隆書写し置く者なり。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1705 同5年  諦実住職す。 1709寛永寺中堂再建
1726 享保10年  存順住職す。 1724大坂大火
1729 同13年  4月16日出火古来よりの諸書き物まて不残焼失。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1735 同19年  智海住職す。 1732全国的に大凶作。
1743 寛保3年  畑の戸数15軒(地区に残存する供養塔)。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1764 宝暦13年  秀孟住職す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1767 明和4年  9月11日秀孟遷化同年昌寛住職す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1776 安永5年  「寺中二六坊御座候」(分限書上帳)。 白岩小中学校「畑八軒」
1783 天明3年  大飢饅のため畑の戸数7、8軒に減少(Kさん談)。 白岩小中学校「畑八軒」
1785 天明4年  9月23日昌寿遷化但し東叡山へ継目無之同年昌寛再住す。 1772明和の大火。1781天明の大地震。
1789 寛政3年  10月10日昌寛遷化。 1787東北・関東大干ばつ。1788京都大火
1793 同4年  昌賢住職す。 1791江戸大水害。
1817 文化13年  3月27日昌賢遷化。同年昌賢弟子昌順奥州二本松領日和田村西方寺より当山へ転住す。 1806文化の大火
1823 文政5年  昌順蔵増村へ隠居す。 医王山金剛日寺年要記(葉山の歴史 中里松蔵より)
1826 同8年  7月25日昌順蔵増村隠宅に於て遷化。 1836天保の大飢饉。
1835頃 天保年間  畑の戸数6軒となる(K氏談)。 白岩小中学校「畑八軒」
1861 文久元年  戸沢上総の介平朝臣正実葉山奥の院建て替え。奉行吉高勘解由光謙 1837大塩平八郎の乱
1855安政の大地震
1863大坂大火
1871 明治4年  土地制度改正により、大円院境内の大半官有地に編入。 白岩小中学校「畑八軒」
1877 明治10年  畑から「官有地御拝借願」を提出、地区民7名連署。 白岩小中学校「畑八軒」
1913 大正2年  葉山大円院より「境内編入願」を内務大臣・農商務大臣に提出。 白岩小中学校「畑八軒」
1955 昭和30年  葉山開拓南麓道路、畑まで完成。大円院、村山市岩野に移転。 白岩小中学校「畑八軒」
1975 昭和50年  畑地区から寒河江市内の袋に八戸集団移転。 白岩小中学校「畑八軒」
1976 昭和51年  畑地区から寒河江市仲田に八戸集団移転。 白岩小中学校「畑八軒」


大円院の現状
 葉山大円院は衰微したとはいえ、太平洋戦争中までは17間に7間の大伽藍が永い歴史を物語り、参道両側の杉の大木と周囲の堂宇や礎石が昔の面影をしのばせていました。ところが、戦後大高根地区がアメリカ軍の射撃訓練場となり、大円院は弾着地の危険区域に入ったため、参詣の登山が禁止されました。大円院の本堂は戦時中の物資の不足から屋根の損傷がひどかったところへ、アメリカ軍が「葉山入山禁止」を命令したため村山市からの参詣人が全く途絶え、本堂の維持が不可能となり、昭和29年の冬にやむを得ず本堂を解体し、縮小して村山市岩野に移転しました。
 当時の大円院住職は「移転先については畑・岩野・白岩の3つの案を考えたが、諸般の事情から最終的に岩野に決定した。」とおっしゃっています。岩野に移るにしても、その境内に必要な土地約500坪を住職個人で3人の所有者から譲り受け、昭和29年5月30日に天台宗本山延暦寺に移転申請書を提出し、同年冬本堂を解体して昭和30年に移転を完了しました。
 今、大円院の跡地は、生い茂った雑木と新しく植えられた杉木立で見るかげもなく荒れ果てています。その昔、葉山派修験場として多くの修験者を集め、東叡山末寺としての地位を誇って12坊が建ち並び、戦争直後までは、うっそうとした杉並木の奥に、偉大なたたずまいを見せていた大円院の面影はありません。

               戦前の大円院
                            葉山大円院(昭和10年)

  -関連する写真2題-
  その1 この文字はなんと書いてある?
 上の写真はあるお寺に保存されているものです。楯岡の方が昭和10年、大円院の本堂に10日ほど泊まり込んで測量作業(何のための測量だったのかは不明ですが、別項の境内地払い下げ作業に関わるものだったのでしょうか。)をしたときに撮影されたものだそうです。原本写真を良くみると門の両方の柱に何やら看板がかけてあり、文字が見えます。なんと読めるでしょうか?写真をトリミングしてみます。
               
 中里松蔵著「葉山の歴史」(昭和54年)という本に、このような記述があります(一部抜粋、また漢数字は英数字に置き換えています)。
 「・・・第91代住職に就任した清原乗田師は、衰微の山、葉山大円院を復興した傑僧として特筆しなければならない方である。乗田師は・・・後三宝岡風立寺の住職となった。葉山を兼務するようになったのは、大正8、9年の頃かと推定される。葉山住職となってからの師は、鋭意その復興に尽瘁し、・・・また堂宇の修理整備にも力をつくし、信者の登拝を勧募する種々の方策を講ずるなど、百方奔走するところがあった。散逸した葉山の宝物・什器等を回収して、堂内に宝物陳列室を設け、数多くの資料を展示して、参詣者の関心と理解を深め、また天狗豆・葉山羊蘂・絵はがき(霊峯葉山)などの土産ものをつくって、お札と並べて売店を開くなど、当時としては極めて斬新な観光面にも着目して宣伝につとめた。・・・そのほか、青年団や処女会の講習会場に寺を開放したり、夏季学生たちの宿泊研修を受入れたり、よく山の自然環境と信仰・歴史の両面をふまえて、幅広い活動を展開した。・・・次の第92代伊藤良田師は、師乗田師が本務寺風立寺をもつほかに、葉山復興のために日もこれ足りぬ程の活躍で、山を離れることが多かった充ろうが、その間良田師は若年ながら一人で寺を守り、師の意を体してよく葉山を護持した功労はまことに大きいといわなけれぽならない。・・・」(前掲書171~172ページ)
 この資料を踏まえて両方の看板を良く見てみると、右側の看板は「寳物拝観所」、左側の看板には「葉山水?(曜?嶺?)會事務所」と読むことができると思います。寳物拝観所とは前掲書中の宝物陳列室のことと思われます。また、葉山水?會事務所とは、前掲書にある青年団や処女会の講習会に何か関係があるのではないかと思います。この会について何かご存じの方がいらっしゃいましたらご教示いただければ幸いです。また、お坊さんの右横の柱にも何か標識のようなものが見え、「火の用心○○○○○」と書いてあるようですが、残念ながら不明です。
 この写真のネガがあればもっとはっきり文字が読めるかもしれません。もしひょっとしてお持ちの方がもしいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 その2 この人たちは誰?
               
 この写真は父の書斎を整理していたとき出てきたもので、出所不明です。父が撮影したものなのか、父がどこからか手に入れてきたものなのかわかりません。一体なんの写真だろう?と思いまずはよく見てみました。
 まず背景の建物ですが、これは他の写真と見比べてみれば大円院であると推定できます。大円院は門の向かって右側につっかえ棒のようなものが2本あり、屋根の茅も軒先がそろっておらずかなり痛んでいるような印象です。ということはこの写真は大円院に参拝にきた団体の記念写真だと思われます。次に人物に注目してみます。最前列左右と最後列の人物は大人のようですが、他は皆若い女性のようです。最後列の人物のみ男性のようで、その服装を見ると背広姿に混じって戦時中の国民服または軍服姿も見えます。たぶん学校の先生方ではないでしょうか?女子大学生であれば引率の人はこんなにいないと思いますし、中学生であれば女子のみの登山というのも変です。で、当時葉山近辺の女子高校となれば、谷地高校か楯岡高校しかないと思うのですが、いかがでしょうか。そうしますと・・・。
 この写真は太平洋戦争前後(たぶん戦後まもなくではないかと思うのですが)の谷地または楯岡高校生徒の大円院参拝の記念写真だと推定します。ひょっとしたら葉山登山の際の記念写真なのかもしれません。この写真について何かご存じの方がいらっしゃいましたらよろしくご教示のほどをお願い申し上げます。

参考 葉山古縁起校定原文
 葉山古縁起校定は、現在残っているほとんど唯一の葉山大円院の基礎資料として知られています。原本は山寺に近い三宝岡風立寺に所蔵されているようです。中里松蔵「葉山の歴史」昭和55年に原文を活字化したものが載っておりますので紹介します。いわゆる孫引きとなりますことをお断りしておきます。活字化しても難字で難解な文章ですが資料として紹介させていただきます。

(表紙) 葉山古縁起校定一巻
葉山三山五嶽縁起校定門伝舜燈誉沙
(原文は漢文体、送り仮名は原文にしたがつた)
抑も出羽の国村山の郡葉山三山五嶽の濫觴は 夫れ天地草昧の時 神霹靂の斧を運び 之を削り天を開き造化之を炉陶す 陰陽の精氣積て自然に葉山有るをや 八山を截り七山を塞き平正にして掌の如く 晴天の時霞衣を曳き 陰雨の時雲裳を移す 源と阿字の大空より出でて三観一心の旨を示す 峯は円頓実相を冥し三密同体の理を顕す 田里前に続き国邑聚富を呈し 長山後に連て松柏枝葉の栄を為せり 高嶺白雲を帯ひ 天台四明の洞を模し 巌窟左右に峙て 華頂仏滝の嶮に似たり 伝ひ聞く昔し天地開闢の始め 天神第一の皇子国常立尊高嶽に開く五色の華是れ則妙法蓮華経の五字なり 故に天より降て垂迹す 葉山地主権現と云云本地東ぜ方浄瑠璃世界の教主医王善逝の霊場 像法転時の導師也 依正冥に乾坤に契り感応ある者をや 東に聖天山は一石の霊像在す聖天明王化現の勝窟也 是れ則ち富智円満の天神 七珍万徳の明王也 効験神徳正に明々たり 利生尊像傷た巍々たり 謂は所る本地十一面観自在尊 濁末応化の為めに此の石像と顕れ 十種の勝理を施し 六趣の含識を化す 一子の慈悲を垂れ 修羅の闘諍を誘く 大悲抜苦の華は 匂を十方の衆生に吐き 普門示現の月は 光を六趣の群類に耀す 本地垂迹効験新なる者をや 西に立石山とは二石の霊像在す 是れ則ち唯識土沙竭羅竜王 跋難陀竜王 狗楼孫仏と観音薩埵とを勧請し奉ると 謂は所る此の内証を尋ね奉るに七仏薬師 濁末済度の為めに 無始終の石尊と顕れ玉ふ 一石の塔婆般若流通分と顕書し 一石の塔婆一乗妙法華と現書す 其の像三摩地門にして 含蔵虚空の阿字 不生不滅の妙体也
孫仏とは添くも唯仏微妙の浄刹をて 出羽の国嶮嶺に垂迹の霜瀝々たり 過去久遠の誓願に答て 最上川の水底に和光の月明々たり 之に依て誓風国家を扇き 夭蘗を乾坤の外に攘ひ慈雲一天に靆き 甘雨を四海の内に雨す 観自在尊とは妙法同体の薩埵 濁末利益の大士也 能く施無畏の盟誓海よりも深く 普門示現の潤卓霜よりも滋し 之を仰く者は災難を攘ひ之を念する輩は所望を満す云云 風に聞く 人王の元祖神武皇帝自ら叡観あッて 此の霊窟に在して 詔して葉山と号し 叡信の輪言に答え 王候卿相信心の誠を為す 茲に因り貴賎道俗之を崇め 田夫庶民踵を継く 尓自り以降 星霜稍奮り霊徳猶を新なる者をや 恵日弥明かに照用倍明なり 中ん就く当峯とは 人王四拾二世文武帝の御宇 役の小角冨士禅定に在て 生仏一躰凡身即極の秘行を 附弟行玄沙門に口伝附属し 金色の三鈷を加持して 艮に向ひ之を投すれは 遙に雲中に入りて飛ひ紫雲靆く 茲に因て大宝二壬寅の歳 行玄沙門瑞雲に随て 創て当峯に入り 親しく地主権現を拝し 踊躍歓喜しき 故に緑苔を藪つて 三所和光の権扉を排き 刹柱を建てて 日域無雙の霊場と崇む云云 猶を奥の峯に到て観見眺望あるに 峯は崢コウ(山へんに営と書く。変換できません。)として 谷トウ(山へんに唐と書く。変換できません。)屹たり 風音鏗々として霊鳥転々たり 金色の三鈷光を放て 儼然として高峯の老松に懸れり 歓喜の心を催し 修法相応の地なることを知り 三鈷の峯と称し 紫摩金剛の大日如来の尊像を安置す 仰けは夫れ六大無碍の月明にして 五智金剛の正躰巍々たり 四曼相即の華鮮にして 五分法身の尊容妙々たり 尓自り以来師資伝来断絶無く 今に至て当峯執行の法式は 他峯に異り 葉山のろ伝に在りと云云 寔に是威徳巍々として 霊光堂々たり 精舎南に向ひ 南面の宝祚を護り 奥の院北に崇め 北辰の政徳を相る 之に依て春の華の朝には山洞の塵に交り 秋の月の夕には 草露に光を和け 参詣の道俗崇敬し 遠近の貴賎仰信する者をや 肆に慈覚大師諸国の名嶽頭陀遊覧し玉ふ時 当山に入り高嶽の大石に不動明王の尊像を刻彫し 巖窟に止住在て柴灯護摩を執行せられ訖んぬ 謂は所る一干座と 抑も法華三昧とは 恵思禅師の先蹤を尋ね 智者大師の旧文を慣ひ しかのみならず 三昧不退の勤行 妙法の丹華を開く要津也 故に朝々九乳の鍾を鳴して 煩悩の眠を驚し 夕々大法螺を吹て 魔怨の軍を却く 実に是鎮護家国の冥神 法命相続の霊嶽也 東に洪流在り 千座河と号す 大師彫牘の不動盤石の下より涌出し 砌下蕩々として 碧浪鎮に如々の智水を湛え 之に触るる者は生死煩悩の垢穢を除き 菩提涅槃の彼岸に到る 西に滝泉在り 御祓河と称す 菩提宝泉の波の響冷々として 之に臨む輩は 旡始無明の邪悪を滅し 現当の願望速に満足す 寔に是尊地相応の正渡 所求円満の霊窟也 爰に葉上僧正栄西入唐の時 天台山に到り 瑞夢を蒙り帰朝の後当山に入り 中嶽を医王山と号す云云 中ん就く遊観眺望するに 峯は八葉に聳へ 華蔵四鏡を観し 山は三嶮を兼ね 霊徳の石壁を呈し 三山と雖も内証は是れ一也 浮木に乗らすして銀河に至り 妙薬を嘗めすして仙窟に入り 日月地より出てて煙霞眼前に尽く 実に是仏法興隆の旧基 群類利生の勝窟なり 中ん就く聖天湲の源とに 秘所形箱と号する在り 昼は幽谷従り瑞雲建て 峨々たる峯を埋み 夜は北辰自より霊光降て 深々たる溪に輝き 此所に至て霊曜を観見あるに 光雲の中に親く化神忽然として示現して曰く 天形星王也と云云 神勅を蒙て 則ち尊容を模写し 自ら之を刻彫し 牛王に印して 末世に至て信仰して断せしむること莫れと 誠に是霊神の冥助応跡の加被ならく而巳

縁起校合訖 


伏して惟れは興廃時に随ふ者か 竭来漸次に風流頽廃し 僧俗姦驕にして昏妖を為し 辺侶朋を誘き 山徒を毒乱せしめんと欲する者 雑然として山に出没す 其の数を記すへき莫し 旹 延宝三載乙卯仲春 忝も前の天台座主一品守澄法親王の宣命を蒙り 御令旨を賜ひ 予苟も葉嶽三山の統領と為り 移住せしめ訖んぬ 抑も愚身か勤功に非す 併なから神明仏陀の冥助に依て也 恐くは神恩を報せすんはあるへからす 然りと雖も凡愚陋鈍の身にして 聊か神慮を計り難し 側に聞く 断へ為るを継き 廃れたるを興すの謂 耳に在る者をや 故に二十余歳の涼燠を送りて 身命財を惜します 筋力を励し 仏法僧を択はす 興隆せしめ訖んぬ しかのみならす 往古の縁起 師資相伝の口訣等 損壊たるに依て 所々に愚案を加接し 錯乱たりと雖も 文理之を綴書し葉山中嶽医王山金日寺宝閣に附入し 末代の亀鏡に備んと欲す 
 嗟呼 眼前に有て楢其の拙きことを慙つる 況んや後見に於てをや 伏して乞ふ 後賢取捨して 冝しく正理に順せしめ 来葉を利せしむへき而己
旹 元禄二屠維大荒落文月 葉山三山主中興医王山金日寺大円院現住伝灯大法師舜誉謹誌


おまけ  葉山年記から考えた葉山繁栄の原因(私の勝手な推論)
江戸時代の葉山大円院の財源は何か
 上記表中「医王山金剛日寺年要記」の元禄12(1699)年に「8月17日7ッ時河口坊より出火致し橋本坊掛作坊田沢坊並に材木小屋に火移り材木100本程其外杉板青木まて残らす焼失。」という記述があります。なぜお寺に材木小屋があるのでしょうか?増改築の予定があったのでしょうか?立石原の舜誉下屋敷は完成済みです。また周辺の記述に大円院の増改築の記録はありません。だとすればこれらの材木はどこかに売るためのものではなかったでしょうか?ではどこに売っていたのでしょうか?私は江戸方面に出荷していたではないかと推測しています。大円院周辺の豊かな森林資源に対して、おそらくは安土桃山時代の築城ブームの辺りから木材の需要が増してきていたのではないでしょうか?しかし安土桃山時代はまだ国情が安定しなかった時代だったので需要は安定せず、江戸時代、戦乱が納まって全国的に木材を安全に運搬できるようになり需要が急増したのではないかと思っています。特に江戸時代初期の江戸に建築ブームが発生したことはよく知られており、また江戸時代に大都市において多発した大火災の後の建築ブームも葉山の木材に対する需要を産み、その結果葉山大円院に富がもたらされたのではないかと推測します。
 では標高800メートルの高地から木材を搬出したルートはどこだったのでしょうか?そのヒントは2つあります。一つは下表中「医王山金剛日寺年要記」の元禄4年の記述です。この年6月6日人足都合2000人程を使って大円院まで梵鐘を運び上げた、という記載です。もう一つは岩野在住の人から聞いた昭和30年大円院が岩野に遷座したときの話です。その人は当時大円院の引っ越しに加わったのですが、本堂部分の柱などを橇に乗せて雪の上を運び下ろしたとのことです。つまりすでに江戸時代には千座川ぞいに鐘や建築部材を上下できるだけの重量に耐えられるルートが存在していたということになります。私はこの千座川沿いの登攀路が木材の積み出しルートだったのではないかと推測しています。そして大久保か大槙から最上川-酒田経由で京都大坂江戸方面に運搬していたのではないかと思います。ただし千座川は水の流量が少なく、運び下ろした材木を千座川を使って最上川まで流すのは難しそうです。でも大久保か大槙まで人馬で運搬するのは手間がかかりすぎるような気がします。何か効率的な運搬方法はないでしょうか?このヒントは昭和30年の大円院の遷座のときの運搬方法にヒントがあると思います。夏の間に木材を伐採しておき、降雪時に橇を使って積雪を利用して最上川まで木材を下げ降ろしたのではないでしょうか?樽石神社に古い橇が残っているという話を聞いたことがあります。これはその名残なのではないでしょうか?関連する話葉山の参道と道標 幾代橋
日光・寛永寺との関係
 また良質な木材を産出する葉山は時の権力者にとっても藩の財源等の面において優遇すべき存在だったのではないでしょうか?江戸時代の大円院は日光や東叡山寛永寺との関わりが深いようです。医王山金剛日寺年要記の東叡山(寛永寺)の記述を抜き出してみますと、
 寛文5(1666)年「東叡山へ初めて勤む。」
 延宝3(1675)年「2月15日東叡山より葉山仕置定目明実に賜ふ。同万部御経衆に御召加への御回章到来す。」
 天和元(1681)年「5月東叡山に於て万部御経衆に召し加らる。」
 元禄2(1689)年「正月東叡山の厳命を蒙り葉山派諸山伏結裟袈を紫紋白に改む。」
 元禄9(1696)年「東叡山に於て厳有院様御法事万部御経衆に召加へられ舜誉4月2日発足致す。明純も御経衆に召加へられ羽黒山惣代として同日発足す。」
 元禄12(1699)年「5月舜誉東叡山へ隠居の願指し上る。6月25日願の通隠居御免後住明純へ仰せ付らる。」
 元禄13(1700)年「20日日光山に於て万部御経衆に御召加へ並に御朱印境内寺務衆徒末派檀方等不残書き出すへき由の御回章東叡山より到来。3月16日明純葉山出立22日日光山へ着26日御門主へ御目見へ仰せ付らる。4月6日万部御経始まる。15日御法会終る。16、17御祭礼。18日日光山発足。20日江戸着。2625(まま)日万部御経始まる。27日万部終る。」
 天命4(1785)年「9月23日昌寿遷化但し東叡山へ継目無之同年昌寛再住す。」
 寛永寺中堂は創建から約70年かかりましたが、大火後の再建には約10年で再建しています。多くの材木が短期間に集中的に江戸に運ばれ、葉山の木材も寛永寺の建設に使われたのではないでしょうか?その貢献に対して上記のような待遇があたえられたのではないかと推測します。江戸時代の寺院などを建築した際の材料の入荷先を記した資料はないものでしょうか?もう少し詳しく調べていきたいものであります。
なぜ江戸時代中期以降葉山は衰退したのか
 しかし江戸時代中期以降葉山が衰退するのはなぜでしょうか?それはやはり葉山の材木は江戸などの大きな需要がある地域に販売するためには費用がかかりすぎたからだと思います。江戸時代初期の大建築ブームのときは金に糸目をつけず全国から木材をとりよせたものの、江戸後期になると木材の需要を見込んで大都市周辺の山林が整備され、山に囲まれた山形の葉山の材木はコスト的に対抗できなくなっていったのではないでしょうか?さらに幕藩体制が整備されるに従い東北は日本の経済の中で米の供給地域に位置づけられ、東北は米の生産地に特化させられていったときに、天災や飢饉に見舞われ、米経済にシフトしていた葉山近隣の農村が疲弊したため、山麓の農村からの支援を受けられなくなり葉山は衰退していったのではないかと推測します。