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にしかたの昔語り

葉山の参道と道標



         

 父が実地調査て作成した葉山の参道の地図です。母の話では朝早くからでて夜遅く帰ることもしばしばあり,大分心配したそうです。絵図のようなものですが,実際に歩いたものだけが作成できる実感のこもった地図であると思います。

  葉山の道標の建立者
 葉山に至る登山道には,いくつかの道標があります。深沢地区と湯野沢の田代口,葉山大円院近くには葉山への道標が残っています。ほかに戸沢村古口角川口,鮭川村(戸沢村?)津谷入口,尾花沢市の屶切り峠にも見られるますが,他にもまだ存在するものと思われます。いずれも江戸時代安政年間に具足屋甚蔵という人が建立したものです。具足とは頭巾・合羽・脛当て・脚絆・草蛙などをさす言葉です。具足屋甚蔵は本名を小林甚蔵といい,ある番所の役人でした。戸沢村のKさんの先祖です。Kさんの母親は,「K家は近年まで造り酒屋を営んでいた。江戸時代から明治初期にかけてのK家は新庄藩四番所の一つを勤め,旅人や輸送荷物の監視・川舟の積み降ろしや旅の諸用具の販売をする具足問屋を営んでいた。江戸時代後半の先祖は、飢饅の年に村人に米を分け与え、村から一人の死人も出さなかったことで、藩主から書付と裃の褒美を戴いた。世話人の福島林助は、新庄のある商店の祖先であると思う。」と語っています。
 江戸時代、各藩の国ざかいには番所がおかれ,藩内に出入りする通行人や荷物を監視していました。新庄藩では、及位・笹森・舟形・古口の四番所が置かれていました。この公的な番所の他に藩境の間道には道標を建てて番人を置いて、道案内や不審者の取り締まりを行っていました。さらに番所の総本署として、新庄町会所が置かれていました。世話人の福島林助は町会所の藩御用の役人であったと思われます。福島林蔵は、具足屋甚蔵が藩主の祈願所である葉山に道標を建碑するにあたって人夫や諸荷物の搬出などの便宜を図ってくれた役人であったと思われます。葉山の道標建碑地の番人は地元の山守が務めました。深沢地区では三郎兵衛そばさんの先祖,岩木では法師川山中の山守が務めていました。
 当時,繁栄していた葉山は塩釜や福島・山形・山辺方面など県内外からの参詣者で賑わい、春秋の祭りを初めとして賑わいを見せていました。しかし秋祭り(バクチ祭り)の参詣者の中には悪人・犯罪者などもいて,恐喝や喧嘩,窃盗もあったと思われます。葉山の道標が建てられた場所は,参詣者の道案内と悪人を取り締まる番所も置かれていた場所でした。それを示すように葉山の道標近くには同心平、御平の地名が残っています。また、深沢には三山講や葉山講があり,岩木葉山参道口には、葉山講の石仏の碑があります。
 葉山の道標に刻まれた南無阿弥陀仏の名号は、具足屋甚蔵が飢饅の死者の極楽往生と現世の人々の安楽を作神と祖霊の山葉山に祈ったもので,庶民の葉山阿弥陀信仰を語るものの一つだと思います。。法師川の4道標は安政3(1856)年辰春(陰暦2月8日)建立、千座川三の滝の道標は同年3月の建立、富並の道標は1年後の建立です。千座川と法師川しめ掛け前の道標には南無阿弥陀仏の名号はありません。

  葉山の参道
 現在葉山の参道は,キャンプ場への道路として,寒河江市田代と村山市岩野からのルートが自動車でも登られるルートとして整備されています。登山道として整備されているのは,樽石からの社務コース,山ノ内からのコース等です。「明治葉山地図」で紹介したとおり太平洋戦争前まではいろいろなルートがあったようなのですが,現在は上記のルート以外はほとんど廃道となっています。では,葉山の参道の基礎資料として,中里松蔵「葉山の歴史」昭和55年,151~154ページより一部抜粋し,紹介させていただきます。

 「古縁起校定」の「葉山五嶽境内山林並殺生禁制処」の文中に出てくる参道として,⑴千座川内道、⑵仁田沢道、⑶本道、⑷長坂道、⑸嶽道などがある。⑴と⑵は岩野からの道、但しその路線の詳しいちがいはわからない。⑶の本道は田代からの尾根道で、これは慈恩寺からの古道であったと考えられる。⑷の長坂は畑からの道で、幸生・白岩へ通ずる。⑸の嶽道は奥の院への道であると考えられる。このほか奥の院へは諸方の口からの参道があった。樽石からの道は樽石川の奥、右沢(うさわ)からシャムを通り、黄伯(きわだ)岳に登り、岩野からの山の神道と合流して、やがてお花畠に出て大円院からの道と一緒になり奥の院にいたる道である。次に山の内からは富並川沿いに登る道で、これには大石田、富並方面からと、新庄・堀内・次年子方面からの行者が入ってきて利用したという。最上郡大蔵村側からは、肘折から祓川沿いに登る道である。岩野I氏の話によれば、この参拝道は先達料も祈禱料もいらなかったので、「盗み山」といわれ、正式の参道としては認められていなかったという。なおもう一つ、月山から十部一峠を越し、峰づたいに葉山の峯にいたる道があり、峯のぼりとよんだということである。
 それらの中で、葉山の開山と結びつく古道はどのルートであろうか。
 葉山の地形と修験道の本拠となった医王山金剛日寺大円院の位置等からみて、実沢川と千座川あるいは法師川づたいのルート、すなわち慈恩寺あるいは白岩から田代を経て大円院に至る道と、次には千座川か法師川づたいに岩野か湯野沢から、それも始めは安全な尾根道が開拓されたものであろうと考えるのである。村山平野から秀麗な葉山にあこがれて登るとすれば、いきおいこのどちらかの登り口にとりつくことになるであろうと思うからである。近世に入って葉山は新庄領となり、その尊信と庇護を受けるようになってからは、村山市側の岩野・湯野沢口がますます表参道として発展した。それにもいろいろと変遷があって、古くは嶽山道が開かれ、次に元禄ごろ、葉山参詣が隆盛となって道者道(どうしゃみち)が開発された。
                      
                                  一の滝
この道は現在のメガネ橋(幾代橋)を経て、一の滝の手前で千座川を渡り、急な谷を登る道である。その後千座川浴いの参道ができて、現在の道路になったのである。なお湯野沢から法師川沿いに登り、掘切を経てぶなの木のところで岩野道と合流する参道も古く開発されたものと考えられる。また湯野沢方面からは岩野に出てそこから登ることも多かったとみえ、峯山頂上の土壇は葉山を遙拝するための祭壇であったといわれる。表参道にあたる岩野口からの道すじには、一の滝・二の滝              
                                  三の滝
・三の滝のなどの禊場(みそぎば)・拝所があり、三の滝の少し先方に具足屋甚蔵の建てた「道しるべ」が2基あり、さらに綱取には「殺生禁断碑」その数百メートル先に「牛馬禁制碑」などがあって、いかにも神域に足を踏み入れていく者に神聖感をもたせるのに役立っている。次に大久保から湯野沢に入って行くと、その入口にあたる久保の通称「マトバ」というところに、他の数基の碑と並んで、次のような碑がある。湯殿(大日)・月山(弥陀)・葉山(薬師)三山碑で、この地域の人々が、いかに深く葉山を信仰してきたかを知る上で、貴重な文化財であると考える。

 ここからは父の記述です。

七五三(しめ)掛けぶな道
  葉山五口と口伝される山道の一つに、七五三掛けぶな道がある。西村山郡と北村山郡の郡境、村山市湯野沢と河北町岩木境を東流し最上川に注ぐ法師川沿いの山道である。葉山山道でも古い表山道と伝えてきた山道です。谷地,湯野沢,岩野方面よりの参道で,距離的には最も近く,大円院一帯の地形からみて,葉山の表参道です。参道頂上附近にあるぶな道のぶなの大木に,10月8日の縁日に標縄をかけた事から,その名があるといわれています。
                    
                    (たぶん)注連掛けブナ。注連掛けブナ表参道道標の現地説明書
                    きには現在はないと書いてありますが,上記の記述からすると位
                    置的にはこのブナの木ではないかと思うのですが・・・。

湯野沢からは法師川に沿って,岩野からは獄山山頂を通って登り,七五三掛けぶな道,御池尻を経て葉山大円院山門に入る道です。早くから開かれた参道であったようで,湯野沢地内の参道には「鬼甲の隠れ道」の名をとどめていたり,一杯清水というところには吹雪にあい凍死した山伏の碑や,杉の平の翁と娘の言い伝えがあります。また桂木沢の不動尊の伝えや,吹腰宿,権平宿,吉原宿,荊蕪宿等の宿坊の地名が伝わっていたり,他にも参道周辺には修験道場の地名を残す山々が並んでいます。注連(しめ)掛けブナのコースは未整備ですが,葉山の参道と道標で紹介する道標や謎のお墓などが残されており,ぜひ整備してほしい登山道であります。

道者道
 葉山が隆盛をみた元録時代に,道者(修験僧)が開いた道といわれています。葉山大円院までの最短経路ですが,きつい登りの道でした。湯野沢や岩野方面から旧岩野獄山下の平林地区を通り,岩野のメガネ橋(幾代橋)を経て,一の滝手前より左折し千座川を渡り,葉山に登っていく道です。

千座川沿道
 現在の登山道で,200年前の江戸時代に開かれました。岩野より千座川に沿って一の滝御平,同心平,綱取,馬立,馬止,大円院と登る最も平坦な道です。戸沢藩主が馬で参詣した道とされ,幕を張り休息した場所や,綱取,馬止等その名残りをとどめています。太平洋戦争中まであった葉山の梵鐘は,元禄年間に大久保からこの道を通って大円院へと運ばれました。

奥の院道
 また途中より,右折して葉山奥ノ院に至る山道があります。「葉山の歴史」では山の神道と紹介されている参道だと思います。

樽石三山道
 古老の言い伝えによれば,富並,樽石山を通り葉山山頂を経て月山・湯殿山に至る参道で,樽石奥には社務所を設けて往復の便宜を計った参道のあったことが伝えられています。葉山・月山・湯殿の三山信仰の形を思わせる道です。現在この参道は,樽石の人々によってシャムコースとして整備されています。

富並深沢向坂三叉路角柱
                       深沢向坂道標

                                    右 や満  石工 銀吉
向         世話 福嶋林助
   左 白とり 施主 具足屋甚蔵
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南無阿弥陀仏                          
                        
 右の山道は,深沢湯の入り道で鬼甲の隠れ道とも呼ばれ,やがてはおくまん様(熊野堂)に至ります。 深沢地区では12月に三山講を行っていました。女人禁制で白装束で籠もり、囲炉裏にホオドを立て、床の間に三山神を祭り、法円の三山拝詞に唱和して、灯明を一本一本ともしました。出店も出て賑わったといいます。水垢離を取り素足で雪の上を石仏の葉山~月山~湯殿山碑と回って参拝した,と地元の古老は伝えています。昔の山守,三郎兵衛そば屋さん近くにあります。

千座川三の滝上三叉路の道標

   右 やま
表 向 
   左 は山

  安政三辰三月
裏 施主 具足や甚蔵
  世話人 福嶋林助

 左の山道は,桑の沢から急峻な大倉(タイグラ)に出る道です。大倉を上るとしめ掛けに出て,法師川沿い表参道の「しめ掛けブナ道」の道標を通り,しめ掛けを上がり尾根道を過ぎ竜神沼に出て,大円院に至ります。
 右側の千座川を渡った対岸の山の神道入口にも同様の碑があります。この道は,樽石葉山社務参道と合流して,社務屋敷から尾根づたいに葉山奥の院に至る道です。
               
                                山の神道入口道標
 葉山道は,綱取殺生禁断の碑から上り,馬立の碑から右横道を通り,湯野沢からのしめかけブナ道と合流して,女人禁制碑の前を通って大円院に至る道です。
 また,道標上の杉林平場に同心平があり,番所がおかれ通行人を監視したと伝えられています。

  一盃清水田代口三叉路道標
                       一杯清水田代口三叉路道標

                                            右 者や満
南無阿弥陀仏 向
            左 たしろ
         施主具足や甚蔵
         世話人福嶋林助
                            
 白岩・田代からの葉山登り口で,参詣人はここ一盃清水の地でで休憩しました。その名の通りここには今でも清水が湧き出ています。一杯清水には口留番所が置かれていました。清水の隣には,剛力をうたわれた湯野沢の三宅九兵衛という人が引龍沢から太綱で背負い上げたと伝えらる大石の金比羅権現が祀られています。剛力九兵衛は毎日牛と相撲を取り投げ倒していたので,ある日昼寝をしている時に恨みに思った牛から殺されたといわれています。この地から法師川上流は,星川と呼んでいます。
                      一杯清水金比羅大権現
                              一杯清水金比羅大権現
 この地の周辺には,ある皐舷の年,山伏が雨乞いをして葉山の龍を呼び降ろした引き龍堤の伝説や,桧戸の沢の白蛇の滝の伝説があります。かつてここは岩木・吉田と湯野沢の入会地の山野で,まぐさ場・ちらし等の草刈り場であり,水の利用権や山の境界争の絶えなかった所です。一盃清水手前には蛇穴・三宝荒神の地名が残り,一杯清水付近には薪山・留山・札立て場などの地名が残っています。大黒撫にはバクチ場などがあり,番所が置かれていたと伝えられ,左山中から流れる桧戸沢山奥には,悪戸縁(ヘリ)・化物沢・地獄谷・社峰などの地名が残っています。

  遅の沢口三叉路の道標
                       遅の沢口三叉路道標

                                        安政三辰春
         右やま
南無阿弥陀仏 向
         左 者やま
         施主具足や甚蔵
         世話人福嶋林助

 かつてこの地には権平宿と言う宿場がありました。山に向かって左の沢上の山は小字名を権平山といいます。右の遅の沢道の山は湯野沢一村の共同林です。遅の沢上流山中には滝があり,滝のそばには桂の大木がありました。そこには桂滝不動尊が祀られていましたが,現在は冨本小学校裏山に遷座されています。桂の木と清冽な水と不動尊の組み合わせは,大石田町黒滝の向川寺の桂の古木・山形平清水の桂・天童貫津の桂清水・東根岩崎の桂清水などにも例があります。また近くの山には,灯明をともしたと伝える油殿や神の坐す鉢森山があります。
桂滝不動御詠歌
みな人は参る心はいそがだき いかなるがんのすくいなりけり

  杉の平口の道標

   右 や満
表 南無阿弥陀仏 向
   左 者やま

  安政三辰春
裏 施主具足や甚蔵
  世話人福嶋林助

 沢道を左に折れ上ると山田があり,田の畦道を上ると梨の木平三叉路にでます。かつてここにも道標がありました。この道標は現在所在不明になっています。右山道は桜尾神の聖地に至り,左の葉山道をあがると杉の平の馬立に出ます。昔,杉の平には老人と娘が住んでいて,山稼ぎをして暮らしていました。ある吹雪の夜,娘は急用で村に下り,行き倒れになってしまいました。娘を葬った墓石が一盃清水の地に残ります。杉の平から小平,吉原宿を過ぎ,前坂を上るとしめ掛け山に至ります。また杉の平馬立より少し登り,左の新田道を法師川に降りて沢を渡り新田山(神殿山)と櫛ガ峰へとあがっていきます。法師川沿いの道の「鼻こすり」を過ぎた当りの櫛ケ峰下の沢岸は岩肌がむき出しになっており,岩壁には10畳敷の岩穴があります。昔,ここでバクチを打ったという言い伝えがあります。この辺の沢の上流の火打沢・あざみ撫・堀切には赤石,鉄・銀・銅などが産出したといわれています。櫛ガ峰を詠んだ歌が,戦後大円院を岩野の現在地に遷す際に見つかっています。
その歌
 櫛ケ峰 大岩のもと 生えのびし 松の根元に 黄金千両

  しめ掛け前の道標
                 
                                    安政三辰春
  右 者山
向
  左 や満

                                    (裏面)
施主具足や甚蔵
世話人福嶋林助

 右手岩野しめ掛け山の下は,桑の沢道を通り三の滝にでる道です。右正面の前坂上り口には注連掛け(しめかけ)のブナがある。掛けた注連縄は祭り終了後に家に持ち帰るとご利益があるといわれています。前坂から左に山道を降りて法師川沿いに上ると,火打ち石の出た火打ち沢を通り堀切に出ます。堀切は大円院のお池尻の下にあたり,法師川は,この堀切を源流としています。堀切には昔金が出たと伝える金採掘洞が残っています。この場所で江戸時代の寛文年間に白岩と湯野沢・岩木との間に水争いがおき,江戸寺社奉行に訴え裁断を仰いでいます。その結果,お池尻の水は白岩実沢川をせきとめて法師川に流し,その代わりに岩木と湯野沢の農民たちは米3俵の年貢を田代村に納める慣わしが,現在でも続いています。また。しめ掛け前の付近には,しめ掛け門杉や同心平の地名が残っています。

富並川の道標
               
 他に深沢桜清水・山の内入口の仏坂・大鳥居の各三叉路にも同様の道標が残っており,昔の間道の名残をとどめています。