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にしかたの昔語り

熊野豊年奴振り
−谷地奴の流れを組む奴振り−

      平成15年熊野豊年奴振り連中
                             平成15年熊野神社大祭にて
はじまり−天保時代
 最初の奴が振られたのはおそらく天保15年のことだと思われます。天保15年は前年までの飢饉がようやく終わり豊作がおとずれた年で、また熊野神社石段脇の灯籠と枝宮が建立されたのも天保15年で、これらのことを祝って奴を振ったのではないかと思われます。さらに新庄藩最後の藩主が熊野神社に参詣した際にも奴が振られたようです。湯野沢の奴は谷地の工藤小路奴(通称上九奴と呼ばれ、当時は沢畑地区も上九奴に参加していました。)です。庄屋の命令で、沢畑のA家の下男をしていて谷地で奴を振っていた荒敷のB家の人(通称「アパコシ」という人物。湯野沢村史では「アカオジ」となっている)が習い覚えてきたことを湯野沢の現在奴の師匠をしているC家のご先祖に伝えたものです。奴が伝わる前、熊野神社大祭の御輿行列はムカデ獅子が進行を司り、ムカデ獅子の後ろを神代神楽が進行しておりましたが、この神代神楽を舞っていたのがC家の先祖です。天保時代の奴は庄屋の家の辺りから現在の宝地区石井商店前にあった当時の熊野神社一の鳥居のところまで新庄藩主を先導して振ったもので、当時の奴は鳥居をくぐったり御輿の先導をして行宮に入ったりすることはありませんでした。また当時の奴の大鳥毛には毛ではなく稲穂がついており、周りには御札がついていました(いわゆる「梵天」です)。奴が腰に下げた福瓶(ふくべん)には豆や小豆を入れていました。そうすると、奴が練り歩くときには振った梵天(大鳥毛)からは稲穂が飛び散り、腰につけた福瓶からは五穀がこぼれ出た−こうして豊年満作を表現した−のです。一方谷地の奴は商売繁盛の奴で腰にそろばんをつけていて、谷地の奴が奴を振るときは腰につけたそろばんがザッザッとなりました。また現在奴の師匠は奴をうちわで扇ぎますが、当時の師匠は箕で扇いでおりました。熊野豊年奴振りは、五穀豊穣を祝う奴振りであったのです。

写真で見る熊野豊年奴振り

明治15年
 明治維新後の熊野神社最初の大祭は、本殿竣工後の明治15年、村山市川西地区の村長たちが参集の上行われています。

明治32年
 現在の奴振りの原型は明治32年に振られた奴のようです。明治32年の奴が東根の日野家から譲り受けた道具で振ったはじめての奴と思われます。熊野神社拝殿西側にかけてあった額に当時の奴行列の絵が描いてありました。しかし、この額は戦後冨本小学校を建築した時に校歌の額として使われ、絵は消されてしまいました。明治32年奴の大鳥毛は藁で作られていたという話もあります。

大正6年
           
 大正6年、大正天皇即位の御大典を祝い大祭を行いました。現在残っている奴の最古の写真は大正6年となっています。現在の奴の道具はこの写真から確認できますが、奴の道具は東根の日野家から譲り受けたものが貧弱であったので、当時の庄屋さんが明治32年か大正6年のお祭りのときに京都から奴の道具を購入したといわれています。当時の奴の法被・帯・前隠しはD家E家F家のご先祖のお婆さんが生地を取り寄せて3人で御紋の藍染めをしたもので、熊野神社の神紋である山桜紋がついていました。奴振りの道具(長尺物)は庄屋さんが保管していました。

昭和3年
              
                  左沢にD家の小作人がいた縁で昭和3年ころ左沢に奴振りが伝えられました。
               
                              昭和3年の左沢奴です。
昭和23年
 
現在の日本国憲法発布を祝い熊野神社大祭、楯岡で振ったようですが今のところ写真は発見できません。
昭和31年

              
                   昭和31年、村山市誕生の時かと思いますが、奴の写真が残っています。

昭和38年
               
 昭和38年まで鋏さ箱は白い布で紋を覆い隠して振っていました。菊のご紋は天皇家、桐のご紋は有柄川親王家のご紋であるからです。また乾燥を防ぎ、剥離を防止するためでもあります。昭和52年のときから白い布を外すようになりました。
奴の唄(昭和38年9月のものです。)

1.めでためでたの若松様よ 枝も栄える葉も繁る      
2.そろたそろたよ奴振りそろた 秋の出穂よりまだ良くそろた
3.朝の目覚めに東を見れば 黄金混じりの霧がおす     
4.奴などとは伊達には振らぬ 神のためとて空奉公     
5.箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川     
6.姉さ糸とる車が廻る 右と左から撚りかかる       
(7以下は都合により略します。)

唄の間に入る詞

−お稲荷様の御利益で 今年は豊年満作だ         
−財産(しんしょ)とぼた餅大っきいほどよい 姉さともち米白いほどよい
−荒し畑のやせ牛蒡(ごんぼ) 一昨年(おととし)掘ってから掘ったことない  

昭和50年
 昭和50年のお祭りの際、現在の奴の衣装を新調しました。新調するときに古い衣装を山形の染物屋に持っていき、これと同じものを作ってくれとお願いしたところ、現在はこのような見事な染め物はとても作れない、と断られたそうです。D家から出るときと熊野神社に到着したときには古い衣装で奴を振りました。同じ昭和52年に上山で山形県伝統芸能大会が開かれ、湯野沢奴も参加しましたが、その際湯野沢の奴は侍奴であるとして、槍持を加えました(本来奴行列に槍持はつきません)。昭和50年の奴はこの槍持の追加の他、奴が腰につける福瓶も瓢箪に変わり、帯・前隠しも派手な回しになるなど、奴のスタイルにいろいろと変化のあった年です。
平成元年、平成15年、平成25年
           
            平成元年           平成元年          平成15年        平成15年
 平成に入ってからは今上天皇ご即位の年と熊野神社の屋根替えをした15年に振られています。最近では平成25年熊野神社大祭時に振られました。
 このように湯野沢の熊野豊年奴振りは、天保15(1844)年頃から始まって、平成23(2011)年現在まで、さまざまな時代の変化を乗り越えながら約170年伝えられてきた伝統ある奴振りです。
(父のメモと聞き取りより構成)
奉納記録

江戸後期 鹿子踊は3〜5回位) 文久・嘉永年間
富並と深沢の鹿子踊が熊野神社大祭に参加の記録あり
 
明治2年旧3月25日 天満神社拝殿建立遷座大祭 天満神社拝殿は慶応4年着工、明治2年竣工。鹿子連中狛犬石蔵奉納。
明治15年10月22〜23日 第35回郷社熊野神社式年大祭
明治天皇巡幸記念
大毛槍2本が振られた
熊野神社本殿は旧谷地郷18ケ村の浄財により建立。 大祭には谷地細谷区長ほか18村村長と神官参加。
明治16年9月  天満神社大祭  天神鹿ノ子踊奉納
明治27年9月25日 現在の奴の始まり明治32年奉納の絵馬が作製された 冨本小学校新築。海老名徳太郎受勲公徳費建立。拝殿獅子頭(ママ)・奴・神輿・鹿子踊奉納。
明治41年9月 風祭 忠魂碑建立慰霊祭 相撲・剣道・鹿子踊奉納。
大正6年10月22〜25日 第36回郷社熊野神社式年大祭 大正天皇御大典記念。熊野神社境内神明鳥居奉納。奴、鹿子踊。
昭和3年10月24・25日 天満神社遷座大祭 昭和天皇御゙即位記念。天満神社石灯篭奉納。鹿子踊連中山寺参詣。鉞を賜わる。
昭和23年9月23日 第37回郷社熊野神社式年大祭  新憲法発布記念。奴・ 鹿子踊楯岡にて舞う。
昭和31年8月 村山市誕生記念参加 熊野神社参詣 鹿子踊連中仙台民族芸能大会参加。写真あり?
昭和38年9月22・23日 第38回郷社熊野神社式年大祭 鹿子踊連中山寺参詣。
昭和50年9月24・25日 天満神社本殿再建遷座大祭 昭和47年冬豪雪で倒壊。昭和50年4月着工、9月8日竣工。村浄財700万円。村職人建立。記念樹銀杏木。9月鹿子踊・奴山形伝統芸能大会参加。 鹿子踊連中山寺参詣 8ミリフイルムあり 
平成元年9月 9・10日 第39回郷社熊野神社式年大祭 今上天皇即位記念。冨本村誕生100年・小学校改築・ほ場整備竣工。岩野田植踊参加。鹿子踊連中山寺参詣。冨本大祭。ビデオ パンフ 写真あり。
平成15年9月13・14日 第40回熊野神社鎮座800年式年遷座大祭 屋根葺替。 鹿子踊連中山寺参詣、長瀞公演。12月奴連浅草公演。
 平成25年9月7・8日 第41回熊野神社大祭  宝くじ補助金で奴道具と鹿子踊用具を修理。神社予算により幣殿修理。鹿子踊6月21日山形市にてディステネーションキャンペーン 参加。11月23日奴・鹿子浅草にて奉納。

以上、明治より鹿子踊14回、奴振り10回の記録があり、8ミリフィルム、ビデオ パンフレット、 写真が多数残されています。