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にしかたの昔語り

沢畑風祭太鼓




                       
                             以下どんがまつりにて撮影
 沢畑の極楽院(O家)に代々保存されてきているお祭りです。風祭りは9月1日ですが、祭りは前日の8月31日の夕方から始まります。これは豊作祈願祭であり、また竜神祭でもあったと思われます。目じるしや幡には竜の絵が描かれ、大小八個の太鼓は葉山の雷神像の身につけた太鼓と同じ配置に並べて打ち鳴らされます。八太鼓は前述した雷神を意味するものと思われ、また太鼓のリズムは遠雷、怒雷、雷光の炸裂音のように聞こえます。これも葉山立石山や引竜の竜神信仰、不動尊信仰と関連したものであったと推測されます。祭りは法師による祈祷行事による竜引きにはじまり、竜神の昇天・八乙女の禊ぎ、天女の昇天といった一連の行事で構成されています。竜神雷神太鼓は葉山山麓の村々に生きてきた葉山の竜神への感謝の祭だと思われる。葉山竜神や水神への信仰は、人々の川の流れや水を神格化し仏格化したものであり、水に対する畏敬の念であったと思われるのです。
                沢畑の風祭太鼓
      ダダン!コ!、ダダン!コ!、ダダンコ、ダダンコダダンコ、ダダンコダダンコダダン、ダダダダダダダダダダダンコ、そりゃー!
  月山神社風祭太鼓保存会の由来と組織(Lさん談)
 ここからは山形県立谷地高校地域研究クラブ研究報告第3号「沢畑の風祭」1981年3月発行の記事の一部を紹介します。かれこれ30年以上前に地元高校生が当時の現地の人から生の声を取材した貴重な記録です(プライバシーの観点から一部省略した部分と、表現を変えた部分があります。)。ご一読ください。 「私達の若い頃迄は、下沢畑地区に村太鼓と呼んだ大小一組の太鼓があった。地区のものであってこれを地区の行事に使っておったのである。上沢畑地区も同じであったと思う。
 一つは葬式用に使った。地区の中に葬式が出れば、葬式の行列が出る少し前にこの太鼓を鳴らして行列に参加する通報をしたものである。太鼓は、そのまま行列に加わり行列の先頭にあって太鼓を打ち鳴らしつつ行列を賑わしてくれたものである。
 第二には虫送りの行事に使ったものである。地区では農家が除草を終わるとそのたびごとに定められた日時に村の地蔵堂の前に各人各戸たいまつを手にして集合しこの村太鼓を若衆がたたき、地蔵堂に虫の発生しないよう祈願した。それより隊を整え、各人たいまつに点火し、太鼓を打ち鳴らし、村端まで行進したのである。実に壮観であった。村端で池にたいまつを捨て解散する行事である。地区の楽しみの一つであった。これが一番除草、二番除草、三番除草と各終了後三回行ったものであった。
 第三は風祭行事に使った。昔の人は暴風は風の神が暴れ出すと思っておったらしい。で、風の神の気を鎮めるために、この行事をどこでも行ったといわれている。風祭は年一回二百十日の前夜、村人はまず夕方から村の地蔵堂前に集合し各人各戸提灯を手にし有志は高張提灯を高くかざし集結す。集合終わるや若衆は村太鼓を鳴らし寄せを打って地蔵尊に祈願し奉納をします。続いて行列を作って、弥富子地蔵堂(円福寺の地蔵尊)に奉納す。終了するや月山神社に向かって行進を続けるのである。上沢畑地蔵堂の前に至るや上沢畑地区の若衆隊と合同し、一隊となって提灯を高く掲げにぎやかに太鼓を打ち鳴らして月山神社に行進した。実に壮観である。社前に至るや両隊は勇ましくにぎやかに寄せを奉納し、充分風の神をお鎮め奉り終わって解散するのである。
 以上の三行事に村太鼓は使われておったのである。
 しかるに大正時代になり、世の変遷に伴い、前二者の行事は自然消滅し、村太鼓も風祭の行事にのみ使用されるようになったのである。名称もいつしか風祭太鼓と呼ぶようになり、風祭の行事も提灯の数も減って何となく淋しさを増してきたのである。しかし、この行事だけは存続しておったのである。
 太平洋戦争後、(中略)若衆方はしばしば太鼓の修理を要求された。そのたびごとに山形市の太鼓屋に命じて修理してもらった。一度大太鼓は新しく購入してあげたこともあった。ただ、風祭に要する経費はその都度若衆方が地区の人から花もらいと称して、そのたびごとに寄付金をまかなっておったのである。(中略)風祭のみは年々高張提灯も減少し、個人の提灯の数も参詣人も減ずる一方で何とか昔の賑かしさ(ママ)に戻したいものと思っていました。
 たまたま昭和47年の夏(中略)地区の若衆方から、風祭太鼓の保存会を作ってもらえぬものかとお願いを受けましたが、(中略)私は何とかしてあげたいものと考えておった矢先でしたので、(中略)合同会議を開催し保存会づくりに専念してもらった。
 昔の伝統を充分生かし、若い人の考えも入れ、村人の負担も考慮して将来若衆が運営できるようにとの基本の考えで作ったのである。(中略)
 時に昭和48年8月であった。
               沢畑の風祭太鼓
                    はっぴは昭和48年保存会発足のとき新調されたのが始まりです。
  村太鼓について(Lさん談)
 (ほとんどの部分は前の章と重なるため省略します。)保存会ができてから賑やかになった。山形からも頼まれるようになった。小学生までやるようになった。
 しかし、沢畑の風祭は名前をあげたり、宣伝するためのものではない。若い衆の楽しみ、村の楽しみであって、よそに出て祝いをもらってくるのは間違っている。村の行事なのだから、悪用せず、なくさないでもらいたい。
  月山神社と風祭について
                      沢畑の月山神社
                               沢畑の月山神社
(昭和55年取材、当時のQ宮司さんに20項目にわたる質疑応答より)
(1〜3省略)
4.月山神社に祀られている祭神はなんですか?
   月読命(つくよみのみこと)
5.月山神社はいつごろ建てられたのですか?
   起源はわからない。沢畑地区は谷地より古くできたことは確かだ。例えば定林寺は沢畑から谷地に下がって行ったる話。縄文時代の原住民が住み着いた村だ   。このお月山の丘に原住民がいて住民が住み着いて氏神様を祀った。
(6〜11省略)
12.風祭と神社の関係について教えてください。
    密接な関係がある。集落ができるとそこに氏神様を祀った。現代と違って昔は人間の力でかなわない時は氏神様にお頼りする他なかった。風祭の本質を考   えてみて昔は今と違って農薬もなかったし、稲の品種も悪かった。米をとるにしても、技術から農薬から品種からすべてずっと劣っていた。だから今のよう   な収穫はとても望めなかった。私が覚えているのでも1反(当たりの収穫が)6俵のときもあった。今ではとる人は12俵もとる。(私の若い)当時、平均   反収は8俵がいい方で、生きているうちに9俵とれるといいなあといったこともあった。6俵が相場で、本当によくないと3俵のこともあったから昔などは   1〜2俵のこともあった。そういう時代だから風祭の時期がくると風の被害と虫の被害で大変農民は泣かされた。今なら一度消毒すれば虫でどおさまるし、   いもち病なども消毒すれば治められる技術も自信があるが、昔などはどうしようもなかった。人の力ではどうにもならなかった。風を防ぐとか虫を防ぐとか   いう場合、人の力で及ばないところは神様に願うほかに方法がなかった。その当時の知恵として虫を防ぐにはチヨンマ(ママ)を殺せばよいということで、   昔など油で明かりをつけて虫を誘った。夜外に火をたいた。そして村中、たいまつをつけて、全部田を歩こうということになった。それが虫送りの始まりだ   。虫送りでは、神社から祈祷した除蝗札をもらって、竹に付けて、村外れからたいまつをつけて、札を先頭にして、村の上から村はずれまでもっていって立   てる。隣の地区の村の人がそれを引き継いで持っていく。だから、その札は、虫を除く神が宿っていると考え願いを込めたものだ。その札で虫を隣村へ送っ   てやるという意味を持っていた。除蝗札は、月山神社で出した。祈願して御札に神を託してやった。今、子供の風祭で上沢畑の子供たちが下沢畑の子供たち   に虫送りの札をバトンタッチするのは、この伝統だろう。昔はたいまつを燃やしたり、村衆が全部出るように、人寄せの合図として先頭に太鼓がついた。拍   子木、鉦等も鳴らしたろう。だから、日によって、ニカメイ虫を退治するという行事は昔からあった。そうでもしなければ退治のしようがなかった。
    風祭当時、台風が来た。 一晩一朝で稲がのめされた。台風がこないようにという意味と合わせて村内安全、家内安全を願った。風祭にしても、元は太鼓   がなかった。最初は個人でお参りしていたが、みんなでお参りするようになった。虫送りの太鼓が風祭の太鼓になったのではない。風祭太鼓−太鼓はすべて   のものに使われた。村のすべての行事に利用された。風祭太鼓は世の移り変わりと共に、リズムを付けるようになった。太鼓の数も1個から2個、3個と増   えた。上沢畑、下沢畑別々にお参りにきていたのが一緒になって、太鼓のリズムが出てきた。若い衆の競争になった。たたき方も荒くなった。上、下でたた   き方が違うといわれた。風祭の太鼓のたたき方は荒い。競り合いの太鼓だ。これがなければ風祭の太鼓の意味がない。沢畑の風祭が有名になって、よそに招   かれて出て行くようになって、リズムを合わせるようになったが、昔はそうではなかった。リズムはあったが、(相手の地区の太鼓に)負けていられないと   いうので、酒を飲みながら無茶苦茶にたたいた。勇壮な太鼓だった。(相手の地区の太鼓に)負けていられないというので、やいやいやった。今は割合おと   なしいが、区切りに気勢をあげた。気勢と競り合いがなくなってしまっては伝統の価値が半減する。風祭太鼓は文化の進んだ今とはまるきり違う。昔は命懸   けの太鼓だった。米が出なければ餓死しなければならなかった。だから、神に対する切実な願い、命懸けの願いがあった。ただ太鼓をたたくのではない。真   剣そのものだった。米がとれるかとれないかわからなかった。田のひどいときなど、見ると白穂(稲が白く見える)の時があった。それは虫だった。雨風が   来ると田はべたっとのめって実が入らない。
(13〜16省略)
17.現在の風祭をどう思いますか?
    昔からの伝統で貴重なものだから、大事に伝承していかなければと思う。
(18〜20省略)