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にしかたの昔語り

熊野三郎にまつわる話



  熊野三郎のこと
 湯野沢地区を戦国時代まで治めた領主熊野三郎の祖は、鎌倉御家人地頭紀の三郎平朝臣友康という人で、伝える系図は「友康(建久2年入部、承元元年6月23日熊野宝殿建立。)−数代不明−長盛(北朝明徳2年熊野宝殿再建)−長景−満盛(満山道賢良居士)−頼重(谷内ニ有リ)−満重−師重-天文20年10月為白鳥冠者被殺害)−友重(天正12年6月山形城内ニテ討死ス。女「たへ」白鳥十郎内室。)−僧證専(友重子息弘法寺證誠院法流始祖)と口承されています。鎌倉時代から戦国時代まで、湯野沢の村を治めた領主です。熊野三郎という名前は代々名乗った名前で、1人の人の名前ではありません。そのうち3名の言い伝えを紹介します。
  平友忠
 源平合戦時、平家が西国に都落ちしようとしているとき、平知盛の末子に友忠という3才になったばかりの子供がいました。知盛は幼い友忠の将来を思い悲しんでいました。
 その時友忠の乳母の子供で紀の三郎師重という山伏がやってきて、友忠をつれて逃げることになりました。そして知盛は「安心して源氏と戦い死ぬことができる。」といって都から西国へと去っていきました。
 友忠を背おった紀の三郎師重は源氏の目を逃れて伊賀国(三重県)から紀伊国(和歌山県)熊野山中に逃れ、ここで何年か隠れ住むことにしました。
 その頃、出羽国(山形県)の葉山に平真平という山伏がいました。真平は師重の祖父にあたる人で、出羽の葉山と紀伊の熊野山とを行ったり来たりしていたのだそうです。真平は師重の祖父にあたる人で、出羽国守に反乱を起こして敗れ、山伏の姿で湯野沢に逃げて隠れ住んでいたのでした。当時の湯野沢は湯の入や中村などのいくつかの集落があって、天神堂の本屋敷に砦(おやなぎ城)を構え、時々襲撃してくる敵と戦いながら生活していました。
 源平合戦の後、熊野山中に隠れ住んでいた紀伊の三郎師重は、10才になった友忠を連れ、山伏姿でふところ手には熊野山の神土を持ち、湯野沢熊野山中の院内山にあった弘法寺の僧となっていた平真平をたよって湯野沢に逃れてきました。弘法寺に入ると師重はお池に神鏡を投じ、院内山中腹の楯桶山に紀伊の熊野より持参した神土を埋め、守護神として熊野大神を祀ったのです。そして師重は真平の跡を継いで名を證誠院真雅大僧都と名乗り熊野神社の別当をつとめました。建久年間のことでした。弘法寺跡は院内溜池の西側山中に名前だけを伝えています。
                弘法寺跡
                                  弘法寺跡
 一方、友忠は真雅に仏典を習い、成長して院内山に城を築き現在の楯地区に楯を構え周辺住民を楯周辺に移住させて領主になり、平朝臣友康と名乗りました。そして承元元年に熊野神社を建立したと伝えられています。また友忠は湯野入に八幡神社、熊野山中に弘法寺、楯地区に證誠院を建立したといわれています。
 一説には、平友康という人は源頼政が挙兵した時の円城寺合戦で破れ湯野沢に逃れてきた平知康(鼓判官)だともいわれています。知康は鼓の名人だったので、熊野山中からは鼓をうつような枯木到しの音がきこえてくるといわれています。
  平長盛
 平長盛は南北朝時代の領主で北朝方に味方した人で、溝延の中条家と関係があった人のようで、当時湯野沢は小田島庄に入っていたようです。明徳2(1394)年6月に熊野神杜宝殿を建立しました。時代が下り延徳元(1489)年6月、證誠院覚雅の代に拝殿を建立しています。
  平友重
 平友重は白鳥十郎の家臣だった人です。
 白鳥十郎の娘は最上義光の嫡男の義康の妻でした。しかし白鳥十郎と最上義光は互いにいつかは出羽国の国司になろうと争っていました。天正6(1576)年頃、義光は白鳥十郎をだまし討ちにしようと思い、家臣の志村伊豆守を白鳥十郎のところに使いにやり「私は死の病にたおれてしまった。死後のことを子の義康の娘婿であるあなたに頼みたいので見舞にきてほしい。」と手紙を渡しました。
 十郎は天下をとるチャンスとばかり、だましうちだとわかっていながらも、重臣をしたがえて籠に乗り行列を作って出発しました。
 ちょうど田井村の最上川の渡し場に来て、舟に乗ろうと休んでいますと、烏が鳴きながら飛んできて乗り籠の上に糞をおとして、湯野沢の方へ飛びさりました。
                田井橋跡のながめ
                                 田井橋跡
 それを見た熊野三郎は、「殿、烏は不吉だ。今日はとりやめた方がよい。」といって山形に行くのをとめました。
 しかし、白鳥十郎は「馬鹿なことをいうな、朝廷が出羽国の国司であることを証明した系図を私にあずけて、後のことを頼むといっているのだ。だましうちとはわかっている。それを承知で行くのだ。」と叱りつけ山形城に行ったといわれています。
 義光の病床で十郎が低頭してお見舞のことばをのベ、頭を上げたところを、義光は枕元に隠しておいた刀で袈沙斬りに切り殺しました。この時、白鳥十郎の血が、庭の桜の木に飛び散ったそうです。それを血ぞめの桜と呼んでいます。
 隣室でひかえていた家臣たちは主人の白鳥十郎が切られたことを知り、自分たちも戦いましたが、熊野三郎友重をはじめ全員が壮烈な最期を遂げたといわれています。
 白鳥十郎の身の危険を知らせるために乗り籠の上に糞をした鳥は、熊野神社の八咫烏だったのだそうです。
 比与織の鎧と白鳥十郎
  白滝城
 熊野山北奥の院に終戦直前まで、熊野三郎のつぼ松という松の木がありました。熊野山北奥の院は昔砦があった所で、。戦いの時には大石を敵めがけて落し、敵は石につぷされて死んだそうです。
 その姿を楯岡方面からながめると、杉の密林に流れおちる白滝のようにみえたため、熊野山北奥の院は白滝城といわれていました。
  熊野三郎の城館
 熊野三郎の築いた城は今の楯地区と下小路地区にありました。約20間四方に土手を作り、土手のまわりには堀がありました。今でも宝地区の横宿に、堀ばたの地名と堀の跡と土手の跡が残っています。この堀は内堀で、外堀は宝川と滝の沢が合流する前田関の所までの2つの川でした。この前田関で水をせきとめると水が川にたまって堀となったのです。
 楯城には屋形の他郷倉、證誠院という寺もありました。
 屋敷内には東西南北の門がありました。東門には尾形三重郎、南門に岡崎嘉兵衛、西門に秋場伝兵衛、釜神喜右衛門という熊野三郎の家臣が屋敷をかまえていたといいます。
              
                                 湯野沢楯
  熊野三郎の家老と刈り上げぼた餅
 白鳥十郎の奥方を案内して逃げ、弥勒寺で殺された熊野三郎の家老の家では刈り上げの日にはぼた餅をつくといわれています。
 白鳥十郎が最上義光に滅ぼされた時、熊野三郎の東門家老尾形三重郎は奥方を案内して逃げたが、弥勒寺で待ちぶせていた最上義光の家来と戦い、奥方を逃がしてから殺されました。その日は刈あげの餅と熊野神社例祭前日の9月22日でした。このため9月23日には餅をつかずに、ぼたもちをつくならわしとなっているといわれています。この熊野三郎の家老の子孫は、後年湯野沢から弥勒寺に移っていったとのことです。