にしかたの昔語り
湯野沢楯と熊野山楯
はじめにおことわりします。
以下に紹介する湯野沢楯は、私有地となっており、立ち入ることはできません。また山城については城までの道はなく、急斜面かつ熊なども出没する区域内となっておりますので、危険ですので立ち入らないでください。財宝が埋まっている可能性もありません。
湯野沢には湯野沢中央部にある居楯と、湯野沢地区から西に2キロの山中にある山城の2つの楯があります。
鎌倉時代、源頼朝は奥州藤原氏を滅すと奥州に地頭を置きました。湯野沢にも建久2(1191)年、平友康という武士が地頭としてやってきて、初めは今の富本鉱泉付近に住んだと伝えられています。その後平友康は今の楯地区に館を建て、館近くに周辺の住民を移住させたと伝えられています。そして現在熊野神社がある山の上に楯を築きました。
湯野沢楯
初め湯の入に居住した平友康(後に熊野三郎と名乗るようになりました。)は、湯野沢地区の土地開発をしました。開発は10年後の正治年間(1200年前後)頃に完成し、熊野三郎は開発した村の中央にある楯に入りました。湯の入川と院内川から村の中に水路を引き、村内の各屋敷に流れるようにしました。熊野三郎の館は土塁と水堀に囲まれた約100m四方の大きさで、館内には郷倉があります。楯内の道はT字路が多く館正面に直進する道はありません。他村からくる道は谷地からの道は楯の東にそれて白鳥方面へ、岩木からの道は西山中へそれて岩野へ、大久保からの道は楯の南側を通って西山中へとそれている、という具合に楯内に直接入る道はありません。楯内に入るには楯の南側を東西に通る矢木沢からの道を通って北に折れて南門から入るようになっています。
外堀
楯をはさむように流れる湯の入川、滝の入川、院内川の三河川は外堀の役割をしています。非常時には各出口の橋を取り除き外敵を防御したと伝えられています。江戸時代の古文書には湯の入川と滝の入川が合流する地点(前田堰)に高さ約2mの土畳があり、川を塞き止めて大の沢、中の沢、下の沢の三つの溜池があったと伝えられています。前田堰からは東南の台地に水路が引かれ周辺の田畑を潤しています。
内濠
内濠は館を取り巻く土塁の下3〜5mに巡らされ、幅約5〜10m、長さは約150mあります。水は院内川と湯の入川から堰を引いて流し、更に楯内の用水路にも流しています。
土塁
現在の楯地区中心部には幅約2m・高さ約1.5mの土塁が残っています。土塁の北側はL字に外へ食い違いに空間を造り、土橋を前面下の水堀に渡して対岸の横宿に出る虎口となっています。終戦直前まで土塁には樹齢700年を越える杉が数本ありました。
楯内の屋敷
江戸時代、湯野沢楯中央には代官屋敷と郷蔵がありました。郷蔵は三棟の板蔵で、熊野神の祟りを恐れて土蔵は建てませんでした。代官屋敷東側の下小路地区は元は約100m四方の屋敷で、古老は僧兵屋敷と伝えています。後述の南門には、岡崎喜右衛門、岡崎嘉兵衛という熊野三郎の家老が屋敷を構えたと伝えられています。東門には尾方三重郎、西門には秋場伝兵衛、釜神喜右衛門という家老が屋敷を構えていたと伝えられています。
楯内の門
貞享元年の湯野沢村本畑検地帳には南門・東門・西門の地名が載っています。門の付近には何らかの防衛施設があったものと考えられます。門付近は川底に向かって降りていくようになっており、川底より1〜2mの高さに木橋が渡されていました。橋に通じる坂道両側の平場は敵の攻撃を防ぐ腰曲輪であったと思われます。
南 門
岩木・谷地・大久保方面に出る湯野沢楯の大手門です。川両岸の土手を削って、川底から約1mの高さの所まで降りる、幅4mの坂道を造って木橋を渡していました。坂道の両側の中間に、段違いにした30〜40坪の削平地があり、ここに櫓門を建てたと伝えられています。
東 門
前田堰がある重要な門で、門の手前には僧兵屋敷がありました。出口には土橋跡があります。東門下の南側には水車小屋跡があり、水車小屋上の台地には水神堂があります。門の東には春日様が祀られています。楯の外側方向に右に2段・左に1段の平場があります。
門からは坂道を下りて川を渡り対岸を上がって、矢木沢に出て谷地・岩木・方面に出る道があります。また門付近からは湯の入道と久保・天神堂から長善寺・白鳥方面に至る日陰道、笹の崎〜洞の口〜平野〜一騎の森〜碁点へとつながる道を伝えています。後者二つの道は合戦道と伝えられています。ほかに作場道として、河原前・宝橋・前田堰方面への出入口が見られます。
北 門
郷蔵を守る重要な門であったと思われます。郷蔵と旧證誠院屋敷に挟まれた東西10m・南北50m・深さ2mの空堀があり、馬出口と思われます。坂道を堀に下り堀の土橋を渡り、横宿道を約20m左折、さらに右折して20mの所に北櫓門(搦手門)址があります。門下には右に1つ左に2段の曲輪があります。
門から坂道を湯野入り川の谷に架る源六橋を渡り、対岸を上がり、元屋敷・中村を通って長善寺・白鳥方面に出る道があります。また、堀の土橋を渡り右折すれば河原前の出口に出ます。
西 門
院内山城に出る門です。他村からの古道で楯内入口の門に直接通じるのはこの門だけです。門の右脇の内堀上には横30m・縦20m・深さ2mの馬出しと門内側近くに出る土橋が確認できます。直径約2mの門柱台石が1つ残っています。左側方形の曲輪下は院内川の深い谷となっています。対岸には八幡様が守護神として祀られています。西門の遺構を現在確認することはできませんが、明治初期の字切図では確認することができます。西門からは院内山城に通じる院内道と岩野道が、院内川を挟んで対面しながら山裾を通っています。
楯周辺の地名
今の墓地に、平時は法螺貝で時刻を知らせ、外敵の来襲を知らせる物見台・狼煙台があった場所「貝立場」、弓矢製造者の居住地区「矢作(木)沢」、弓矢の練習場久保の「的場」、大工、鍛冶屋敷「番匠面」、中世の領主の開拓田「前田・宝」、楯の病門の守護神「八幡堂」。北方に、元屋敷、鬼柳城、天神、観音、春日の御堂、中村、宇津保木、前見田、源六橋、お仏、宝、桜橋の名が残っています。院内山城に通じる院内道途中には水走り、大石の柵、卯の月の柵、比久尼寺、弘法寺などの中世の地名が残っています。
熊野山城
山城の概要
山城は標高308mの院内山頂上にあります。山頂からは村内・大久保・戸沢・河北町岩木・吉田・谷地を眼下にみおろし、北は楯岡・尾花沢・南東は山形市まで、村山平野と蛇行する最上河を一望することができます。南楯・中楯・北楯の三楯からなる連郭式の城です。
南楯
南楯上り口付近
熊野神社の裏にある通称楯樋山の山頂にあります。およそ外回り110m、東西・南北約50m、面積約300坪の卵形の曲輪です。戦後まもなくの頃まで愛后堂がありました。北東に深さ幅とも約1mの浅い濠跡があり北角より曲輪に下りています。東側は北楯まで約30〜50mの急斜面になっています。また、北東角からは幅
南楯
4mのV字形の薬研堀が約60m下まで掘られていて、堀の下には井戸跡があります。井戸下には、三つの腰曲輪が熊野神社裏まで下りています。井戸からは上の曲輪に上る犬走り道が通っています。井戸下の三つの曲輪を下りると、熊野神社南参道に下る土橋があります。付近に駒沢屋敷と呼ぶ場所があり、そこが馬出しであったと思われます。土橋上から南にそれながら上ると下からの楯樋道に合流します。道は両側の腰曲輪の間を縫って登り、頂上南堀切通路から湯の入に降りることができます。
頂上南堀切通路
東斜面を北へ斜めに登ると虎口にでます。虎口は前面を大岩で塞ぎ、南隣の山を内側へ食い違いに堀切って弗(カザシ)にして通路を通しています。虎口下付近から南へ山を越えて降りると急斜面に囲まれた平場があります。馬隠し場といっています。北楯側は深さ7mに削り取られ、南側には浅い土塁があります。土塁との問に長さ12m、幅2mの空堀があります。この空堀に沿った幅4mの通路が西に10m進んで、西側25mの腰曲輪に下りています。平場の周囲には一段低く細い平場が帯状に取り巻いています。
虎口付近
中楯
中楯は南楯と北楯に挾まれた通称牛ケ首山山頂にあります。戦後まもなくまで熊野神社奥の院がありました。西側中央に約4畳敷の大杉、神木の切り株が残っています。
谷地・楯岡・東根・天童、遠くは山形市の街並みが遠望できます。北西には岩野と葉山の尾根続き、西真下に湯の入り温泉・南西は河北町寒河江市の山並みが眺望できます。
中楯
南楯からの上がり口は、南の主楯を下りた所にあります。両側とも高さ1m・長さ9mの土手に挟まれた幅3mの浅い通路があります。東側降り口には大石が数個横に喰い違いに並べられています。その2m下に平場があり、その下には急斜面をつづら折りに下りて野神社境内北側に出る中奥の院道があります。また縦濠も掘られています。
北楯からの上がり口にも通路東口に大岩を配置して塞ぎ、西端に堅堀を落としています。北楯へは西端から北へ折れて、斜面を直接上る構造になっています。
北楯
北楯付近
北楯は通称牛ケ首山山頂にある南北径40m、東西径20mの楕円形の曲輪です。終戦の頃まで熊野三郎を祀る祠がありました。熊野三郎の館城だと伝えられています。中央南北線上に直径2mほどの大岩が並んでおり、熊野三郎のつぼ石といわれています。他に熊野三郎のつぼ松と呼ばれた松の木が終戦直後までありました
熊野三郎のつぼ石
が、今は切り株しか残っていません。山上の平場から敵を弓矢や鉄砲で撃ったと伝えられています。北東角にある虎口は内側をL字形に削り石垣を作り、外側を外食い違いに削平して弗を作っています。虎口下には段状の平場があります。また北西角の虎口下には御前清水があり、湯の入り温泉道に通じています。曲輪周囲は一段低くなった幅約2mの削平地に取り囲まれています。
熊野神杜周辺の遺構と伝え
熊野神社境内の周囲は楯在家、おくまんさまの屋敷と呼ばれ、無数の大小の削平地が残っており、戦乱時の臨時の居館であったと思われます。また境内入り口の烏居手前から、楯に登る道と山裾を回って北楯に上る北奥の院道があり、この両側にも多くの腰輪や平場が見られます。参道側の境内付近には終戦頃まで、畝形塞や馬出しと思われる空堀がありました。
参道入口鳥居前を北に進み、西に折れて曲輪を三段上り、北楯山裾を西に降りて、枝郷吹き上げ村に出る吹き上げ道があります。この道は熊野三郎の馬場道と呼ばれ、乗馬の練習場だったと伝えられています。馬場道東側の湿地帯には三つの溜井の存在が伝えられており、そのさらに東の山裾を岩野への道が通っています。
湯の入周辺の地名と道
現在の湯の入に行く道上の台地には吹き上げ、長松院、八幡社の地名が残っています。湯の入温泉付近の台地には館跡・猿楽殿の地名が残り、山中には後蔵の礎石が残っていたと伝えられています。湯の入温泉の西山中には奇兵城(キヘシロ)と呼ぶ武士の駐屯地?の古名が残っています。山城の裾には水路が流れ、水路上の山裾には番所や屋敷跡と思われる台地が所々に点在しています。
湯の入からは、西の山中、七曲り・十平沢道を山越えして一杯清水・引竜・田代・幸生.白岩へと抜ける山越えの道と、坊ヶ峰・白石山・岩野・樽石・白鳥・富並と抜ける山際の道があったと伝えられています。また岩野から東にむかって峯山の北を通り、長善寺・大横・大淀・名取・湯沢へ抜ける白山道という道が伝えられています。ほかに湯野沢方面に下る楯樋道、また坊ヶ峯下から北山地区の洞の口・平野・一騎の森・碁点と通じる洞の口道があります。