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にしかたの昔語り

天正最上軍記



  天正最上軍記とは
 最上義光時代の東北地方の歴史を記した書物としては「奥羽永慶軍記」「奥羽軍談」「最上義光物語」などがあげられますが、父が調べたものの中に「天正最上軍記」という本、というよりは冊子のコピーがありましたので紹介します。原本は見つけることができません。父がコピーをとって持ち主に返したものと思われます。コピーには2種類あり、片方の末尾には安永2(1773)年、湯野沢の証あるお寺のお坊さんが先代の住職が書いたものをさらに書き写したもの、という記載があります。もう片方には明治21年に西村山郡内の人が書いた旨の署名があります。安永2年の書を明治に流用したか、あるいは両方が一つの本を元にして書かれているか、それとも日付の誤りか・・・。個人的には父の写の方にはどのような原本をいつ写したのかという記述がなくいま一つ信憑性に欠けるものと思っております。また読み進んでいけばわかる通り天正最上軍記は史実と異なる点が多々あり、そのまま信じることはできませんが、歴史を考えるヒントとなるものだと思います。
 物語の中では熊野三郎が山形城内で大太刀周りを演じたり、谷地城帰城後は大将となって最上の軍勢を迎え撃っていること、楯持ち家老とクローズアップされ紹介されていることなどからすると、どうも原本は湯野沢地区の誰かが書いたものなのではないかという気がします。また、東根の故後藤局長さんからお伺いした話なのですが、明治時代に「祭文語り」と呼ばれる人たちがいて、地方に伝わる古文書をもとに講談話を作り、町や村の神社やお寺の縁日の祭礼などで一席設けて木戸銭を取っていたそうです。ですからやはり湯野沢近辺のどこかに原本が伝わっていて、それをもとに明治時代に祭文語りの原本が複数作られ、それらが現存しているのではないか、という気がしています。祭文語りの人が地域の伝承を元に天正最上軍記を創作した、という考え方もあると思いますが、前段として安西鬼九郎の物語があり、次に突然白鳥十郎の話が始まる等、文章が不自然であること等からすると、祭文語りの人が原本から必要な部分だけを取り出して天正最上軍記を書いたのではないかと推測しています。また人物名や地名などにリアルな記述部分もあり、全くの創作とも思われません。やはり何らかの原本があるのではないでしょうか?その原本が発見され、記述された年代が判明すれば大発見だと思います。天正最上軍記は数冊伝わっておりどうも原本は明治時代冨本村役場にあったようです。個人的にいろいろと探索していますが今のところ手がかりはありません。どなたかお心当たりの方がいらっしゃいましたら投書箱までご一報ください。
 ここでは安永時代の方を父が読みくだしたものを、原文をそのまま、本文のみを紹介します。本文は明治21年のものも安永2年のものもほとんど同じです。原書は毛筆縦書きのものをです。括弧内は父が補ったものです。例によって一部人名や住所などは伏せております。

  登場人物について
白鳥十郎
  長久公未タ廿五才ニテ無妻
 天正4年で25歳ということは、白鳥十郎は天文の終わりか弘治のはじめ、天文20年(1551年)ころの生まれの人ということになります。上杉謙信と武田信玄が川中島の合戦を繰り返していたころです。
  鬼麻毛龍馬ト言ふ名馬ヲ献上シテ
  多くの資料では白鳥十郎が献上した馬の名前は白雲雀となっています。現代にいたるまで情報戦を征するものが有利となるのは軍事の常識。インターネットも電話も郵便もない時代いち早く織田信長につながりを持とうとした白鳥十郎は優れた情報収集力を持つ人だったことは確かです。また同様に本能寺の変と前後して白鳥十郎が殺されてしまうのも情報戦の結果だと思います。
 また、主従のとったコースは北陸廻りであり、江戸が出てこないことからも、この文書の出来事が江戸時代以前であるという推測を助けるものと思います。
 あとは不在の間の所領の安堵、道中の安全の確保など、この時代に信長に会いに行くのはよほどの大事業だったでしょう。

最上義光
 多分NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の影響だと思うのですが、レーザー光線に照らされで光り輝く政宗に対して、出てくるたびに暗い顔で一人酒を飲む最上義光のイメージが刷り込まれている人が多いと思います。しかし、公平に見て戦国の世において多数の人命を奪う戦闘を最小限にするためにだまし討ちをすることは許される戦略だと思います。

布姫
 湯野沢熊野神社の境内に谷地布宮という場所があります。布姫に関係のある場所なのでしょうか?相手を倒すために娘を使う、という発想は現代では考えられないことですが、信長の妹お市の方やその娘の淀殿の運命を考えれば戦国時代においてはそれは異常な発想ではなかったのかもしれません。大名の奥方でも名前すら伝わっていない人が多い時代のことです。 奥方のその後、 白鳥十郎の子孫の行方はこちら

安西鬼九郎平盛澄
 平盛安は平家の武将。鬼九郎は新庄藩の祖戸澤盛安がその勇猛さから鬼九郎と呼ばれていたとのことですが、関連は不明です。高湯とは蔵王温泉のことか。ただ、安西鬼九郎に関する記述は奥州藤原氏の治世を理想化したもののように感じられます。あるいは山寺の伝説で有名な磐司磐三郎のことを理想化したものかもしれません。

羽柴美濃守義信ー不明。

志村伊豆守
 志村伊豆守高安は関が原の合戦の際長谷堂城で直江兼次率いる上杉軍と戦った最上軍の智将。その策謀に白鳥十郎も陥れられてしまう。

  白鳥十郎はなぜだまし討ちとわかっていて山形に行ったのか
 白鳥十郎派の人なら誰でも感じる疑問があります。「なぜ白鳥十郎はのこのことわずかな家来と共に山形城に行ったのか?」白鳥十郎はだまし討ちが見抜けないほどの暗君であったとは思えません。殺されるとは思わなかったか、行かざるを得なかったか、ということでしょう。
 天正最上軍記によれば、白鳥十郎は560人の軍勢と鉄砲、大砲(これは口径の大きな火縄銃のことだと思います。)まで持って行っています。わずかな家来と共に山形城に見舞いに行った、のではないという記述はなるほどと思います。加えて豪勇な白鳥十郎はまさか殺されるとは思わなかったのでしょう。でも結果的にそれは一生の不覚となりました。また白鳥十郎が山形に行った理由は見舞いではなかったのではないかと推測します。大病の見舞いに鎧をつけていったり、酔って落とし穴に落ちたりするのは不自然です。山形には「婿よばい」という風習があります。嫁をもらった男が嫁の家に泊まりに行き、同じ釜の飯を食って擬似的に嫁の家族になる風習です。その風習が当時あったのかは不明ですが、家族の一員として招待したい、今後のことも相談したい、といわれればであれば断ることもできなかったのではないかと思います。それでも用心として、また自分の勢力を誇示するために精鋭部隊を率いて行ったのではないでしょうか?実際に主人が討たれた後、家来たちは戦闘を繰りひろげつつ谷地まで引き上げることに成功しています。嫁をもらった白鳥十郎が結婚後まもなく舅のところに挨拶に行き、結局だまし討ちにされたのではないか。これが私の推測です。





   天正最上軍記  實録

 谷地ノ城主白鳥十郎長久公ノ奥方布姫君ハ山形霞ノ城主最上義光君息女也
 義光謀計ヲ以テ十郎長久公ヲ討ツノ事

 爰出羽国村山郡冨並鬼甲ノ城主ハ桓武天王ノ後胤鬼馬場ノ入道森近江守豊原保廣公(也其保廣公)与十三代ノ後胤白鳥十郎長久公ハ同国白鳥ノ城主也。又谷地ノ古城主ハ中条備前守藤原信保二代目ハ中条駿河守信重、三代目ハ中条又五郎信忠、四代目中条又十郎信国、五代目ハ中条又左衛門信澄ナリ。此御殿ノ代ニ至テ御子無之ニ依テ白鳥十郎長久ハ中条家ニ縁有ルニ依テ中条家ヲ続ク
 然ルニ延文年中ノ頃、当国高湯ニ安西鬼九郎平盛澄と言ふ鎌倉北条時政ノ末孫(有り)此人盗賊ト相成、高湯追手トシテ龍山ニ屋形を構へ後ハ蔵王山ニテ前ハ二拾丈程の源澤也。向ふノ土手ハ二拾丈程ノ石垣ヲ積ミ上ケ百二拾問高キ橋を掛け要害厳重ニシテ鳥モ及ハさる場所也。村山郡二拾万石余押領地也。百姓与御年貢ハ十ケ年ニ一度ノ取立ニテ、又ハ百姓壱人別に金子壱両ツツ三年ニ一度与へ二拾石ノ百姓ハ大ニ豊也。安西有座ノ大名与金子ヲ備り。何不足ナキ暮シケル。政事ハ宜敷百姓へ慈悲憐愍アルニ依テ安西殿様ノ御領分ニ末代成タイト神願シテ居りケル。又ハ他領ノ百姓モ安西様ノ御領分成りたく成りたくト願ケル。
政道方役人ト有之候共。
家老職      家老
北条刑部     里見蔵人
鳥山大善     古田外記
篠源主水     荒川七郎右衛門
藤島虎之助    三浦筑後
杉沢養蔵     石田梅隠
公事方
豊島平左衛門   杉沼源治右衛門
武田孝之進    内藤多膳
御例用掛り
岡田仙左衛門   森田右馬之助
青山殿助     熊澤丹波
萬善寺頼母    早坂出雲
滝沢弥左(衛)門 松山龍吾
例係役人
雷寛人      平塚十左工門
御用人
熊坂大八郎
鳶崎九郎兵衛   鷲左衛門
鬼田権九郎    鷲塚九郎兵衛
他手下三千人有り
 安西鬼九郎ハ手下三千人余有り高二十万石横領地有り。金銀日本中有福之御大名又ハ有福ノ町人与借リ受テ又困窮ノ御大名殿へ及返済ニ困窮ノ町人ヘハ及返済貸備りハ娑婆ノ習成。別ニ世ニ望ミナシト。栄花ニ誇リ天子之妃ノ内松金ト言ふ妃ヲ内裏へ忍ヒ入、松金ヲ奪へ取り我カ本妻に致シ三拾人妻ヲ抱へ、又藝者ヲ抱へ歌琴三味線ニテ日々ノ游妻ヲナシ楽ミケル。抑都ニテ妃ノ松金ヲ奪レし王々ヲ尋ねシ処出羽盗賊安西仕業也。
 文保二年之頃、奥州宮城郡ノ利府野武士ニ羽柴美濃守義信ト言者有り。義信ハ武勇世ニ勝レシ者ニテ、出羽石高湯ニ住ム盗賊安西鬼九郎征伐、天子与御頼ニ依テ義信軍勢三千人引具シテ出羽ノ高湯ニ赴きケル。夏崎ニ野陣ヲ張り、先ツ安西カ屋形の様子ヲ見る処カ、龍山ト言ふ高山ニ屋形を構イ後ハ蔵王山ト言ふ名高キ高山也。前は二拾丈程ノ深沢也。向ふノ土手ハ二拾丈程ノ石垣積ミ上ケ石之大門也。澤ニ百二拾間ノかさ橋ヲ掛ケ要害厳重ニシテ鳥モ及さる処也。義信ハ夜討シテ龍山ニ野火ヲ附焼討ニ責シト。安西カ屋形へ押寄せシカ安西カ高湯ニ伏勢シテ、義信カ軍勢ヲ待懸ケタリ。黒威しノ鎧ヲ着シ黒麻毛ノ馬ニ内乗リ大兵也。若武者五拾貫目ノ鉄棒ヲ振り回シ我ハ安西カ家臣鷲塚九郎兵衛ト申す者也。乍不及相手ニナラント言イケレバ我ハ儀信カ家臣塩沢左近也ト。貮間柄ノ大身ノ鑓ヲ指立向ヘケレハ、鷲塚九郎兵衛心へタリト鷲塚九郎兵衛ハ背ノ高サ六尺三寸力七拾五人力アリ。五拾〆目ノ鉄棒ヲ持チ立向ヘケレハ塩沢鷲塚ヲ一ト突ニせント突きケレバ、鷲塚鉄棒ヲ持テ鑓ノ柄ノ中程打ケレバ、鑓ハ中程与ホツシリト折レ鉄棒ニテ一ト打打テハ何条溜ルヘキヤなれ共、慈悲深ギ鷲塚ニテ、アレハ塩澤助ケル。安西カ屋形ハ歌琴三味線ニテ酒宴ナシ義信カ軍勢三千人棹寄せシヲ安西者共セヅ、義信カ豆カ崎江陣引イテ休戦シケル。処カ如何なる事ニ候哉、安西与義信へ兵糧送りケル故、義信感心シテ辿モ叶ヌ事也。安西方ニハ強勇ノ者三千人ノ内貳百人モ有之、又ハ安西ハ内福ニテ金銀ハ沢山ナリ。兵糧ハ又沢山ナリ。有徳大名与金銀ヲ借り難儀ノ大名ヲ救イ又ハ百姓ヲ大切ニシテ子供同様ニ心へ、百姓ハ大名之足也。足ラナケレハ上ハ足ラヌ者也。良持不戦共勝也。安西ハ人を殺ス事嫌ヘナリ。義信何万騎ノ勢ヲ以テ安西ヲ責ルト錐モ迚モ不相叶。義信ハ天子与征伐ノ御頼ニ有テ奥州与軍勢ヲ引連レ、出張ニ及我レ屋形ヲ引退ヘテ義信ニ切明サセント、安西ハ義信ト和睦シテ申様、我レ世ニ望ミナシ、天子十ニノ后ヲ奪へ取り我カ妻トシテ又ナク美女ヲ妾トナシ一生ノ楽ミナシ、我屋形ヲ退クテ、是与ゑそ国へ落ツ行クト奥州荒濱ニテ大船ヲはき宿り三千人ノ家ヲ引連レ、天正年中四月ゑぞ国ヘト落行クニ付安西カ貯へ置タル兵糧籾拾万石ニ金銀四十万石一ト大前二十万石ノ百姓へ配分シテ与ヘケレハ百姓ノえヒ大方ナラツ百姓ハ安西を神化佛ト敬い、安西カ名残り惜ミケル。義信ハ我カ家来一人モ痛マズ。是ハ安西カ仁心ノ程思わさるハなし。義信感心シケル。弥以安西ハ三千人ノ手下共遥カゑぞふヘト落行キケル。義信ハ豆ケ崎ニ野陣トシテ居ル処カ、義信カ乗替ノ馬離シテ遥カニ馳り行、霞カ原ト景残ニ馬止り豆ケ崎テ見るト馬ノ荷鞍カ山ノ形チニ見ゆるニ依テ夫与山形ト名ぞかへ、霞ケ原ニ馬止ドマルニ依テ城ハ霞ケ城ト名言ふ也。又馬ノ放レシ処ヲ豆ケ崎ニテ見ルニ依リテ馬見ケ崎ト今々唱ヘケル。然ルニ義信ハ安西ヲ追放シテ其切ニ依テ安西カ押領地二十万石天子与被下置レシ頃ハ永正元年丙申八月十五日義信カ山形へ入部シテ出羽ノ国探題トナル。義信ハ安西カ慈悲ヲ以テ武十万石ノ主相成り、安西ノ跡ニ貳千石ニテ安西豊前ト被宛置候処、山形義光ノ代ニ家没落シテ、其時安西ノ子孫ハ奥州仙臺河原ニ引越シ、家繁栄シテ只今ニ安西屋六右衛門迚有之ケリ

  白鳥十郎長久公武勇之事竝布姫君婚礼之事

 然ルニ白鳥十郎藤原ノ長久公中条家ヲ續キテ谷地城ニ入部シテ頃ハ、天正年中尾州清(淵)洲之城主織田信長公ハ日本半国之ノ将軍也。谷地城主白鳥十郎長久公ハ織将軍ハ鬼麻毛龍馬ト言ふ名馬ヲ献上シテ織田ノ幕下トならんト、尾州清洲城主へ出張致さんト、共勢三百五拾人又例肱勤ノ輩ハ家老職和田六郎左衛門秀友・大久保大善介信秀・熊野三郎友重・四五修理介重則・長谷寺右馬之介国光・仁藤大学信盛・森大之進藤高・仁集四郎左衛門盛高・八鍬太郎左衛門重種・槙結城家貞・森谷大善高友・長沼玄蕃保秀・伊藤将監重村右十三人家老職ナリ。他六百人ノ共勢、天正二年寅(戌)ノ三月十五日(六年戊寅か)出立、白鳥十郎長久外十三人馬乗りニテ、家老用人数多ノ共勢引連レ越後通り越中・加賀・越前通り四月廿二日尾州清洲城へ着シテ、家老和田六郎左衛門秀友使者トシテ信長公へ奉言上候ハ、私共主人羽州村山郡ノ野武士白鳥十郎長久乍恐當将軍家へ御目見奉御申上度家老和田六郎左衛門秀友ヲ以テ奉申上御献上トシテ鬼麻毛龍馬壱疋奉献上度奉申上候処、木下藤吉郎秀吉執成ニテ二ノ丸ニ於テ御目見ト被仰テ、白鳥十郎長久公竝家老輩共十三人目見相叶、織田献上ニ預リ参受納致、将軍家於麗敷毛思召大ニ悦ヒ致秀吉ヲ以御挨拶アリ長久公家臣共十三人不残本丸お廣ニ於テ饗應不浅。又外共勢人数三百人ハ二ノ丸ニテ饗応ニ預り、是与白鳥十郎長久公ハ信長将軍ノ幕下ト相成り出羽探題職ト相成り、長久公帰国致シ信長公ノ幕下ト也出羽十二郡探題職ト相成り長久公ハ帰国後テハ威勢強ク相成り出羽十二郡ハ長久ノ領分ノ様ニ相成り、依テ山形霞城主義光長久公ヲ憎ミ没(滅)サント工夫ニ及家老志村伊豆守ヲ呼びテ申様、白鳥十郎長久ハ尾州清洲ノ城主織田信長へ名馬献上シテ信長ノ幕下ト也出羽一ケ国探題職ト相成り長久公ハ才智深ク強勇ノ武士ニテ中々容易ニハ没ス事不能・如何シテ亡ス手段ハ無キ哉ト申シケレハ志村伊豆守申様ヨキ手段撃チ亡ス工夫アリト言ふ。長久公未タ廿五才ニテ無妻ナリ。依テ君ノ御姫君長久公ノ奥方ニ抱持ナシ君ノ御聟君ニシテ亡ス所存也ト申ケル。義光手ヲ打テ、夫ハヨキ手段也ト志村其方ヨキニ計ふベシト有ケレバ志村伊豆守ハ長久へ進物杯ヲ懐中シテ布姫君長久公へ御取持トシテ谷地ノ白へ越ケル。布姫君ハ未タ十六才ニテ世ニ稀ナル美女也。白鳥十郎長久ヲ案内シテ申入ケルハ私事ハ山形義光家来志村伊豆ト者ニ候間、御君へ御目見申上度越候。乍恐御取次ノ程御頼申入候処、取次之役人主人長久公へ右之段言上シケル処、山形使者ノ者二ノ丸御廣問ニ罷ベク旨被仰。其段志村伊豆守へ申聞ケセ候処、長久公家老職大久保大善介秀角・和田六郎左衛門秀友・熊野三郎友重三人主人名代トシテ二ノ丸大広間へ列席ノ処へ義光家来志村伊豆守罷出申上ルハ此度私参上仕候ハ余ノ義ニ非ス。私主人義光息女布姫君殿様の奥方へ御取持乍恐奉言上候処、和田六郎左衛門主人長久公へ言上シ御奥方御取持ニ志村伊豆参上ト奉申上候処主人長久公殊ノ外大ニ悦ヒ麗敷被思召返事之義を使者ヲ以テ申上旨挨拶ニ及候趣ニテ、志村伊豆守ハ二ノ丸御殿ニテ饗応ニ預かり伊豆守ハ霞ケ城江帰城致シ姫君様御縁談ノ趣、家老職大久保大善介秀角ヲ以挨拶ニ及候趣、主人義光へ申上候処義光大ニ悦ヒ谷地城与家老大久保大膳介沙汰伝ニケリ。然ルニ主人長久公へ大膳介申上候様ハ、義光息女御縁談ノ義伊豆御取持ノギハ義光ナニカ謀計ノ禍イアリ。君ニ於テモ御量有テ御縁談ハ御見合可被置ト申上ケレハ、長久公強勇無双ノ君ニテ高カシレタル義光ナニカ何恐也何レニシテモ縁談早クモ取極メ可申ト。山形へ使者ハ大久保大膳介・熊野三郎山形へ使者トシテ両人へ被仰付、両人ハ馬乗ニテ、主命蒙霞ケ城へ出張ス義光ハ谷地ノ使者待兼シ処へ大膳介・熊野三郎両人使者ト相成り出張致セス処、取次案内ニテ霞ケ城本丸へ請シ饗応不浅弥々布姫君縁談取極メ相成り吉日選ミ婚礼ト相成り候趣、具ニ申上候処長久公大ニ悦び、婚礼ハ天正四年四月十五日ト相一寸一息ついて定メ、弥々山形与布姫君江附添ふ。御供侍ニハ赤沼左膳高景・牧野六郎太・藤田孝之進、今泉伊七郎・伊藤多膳・青山兵部、熊沢大助・塩沢右京・都合八人布姫君ノ供侍媒人ハ志村伊豆守ハ馬乗ニテ四月十五日布姫君ハ駕篭ニテ谷地城ニ御入ケル。然ルニ天正六年三月義光ハ兼テ謀計ヲ以テタグナミ、何卒長久ヲ亡サント義光俄ニ大病ト相成り御聟君長久公へ義光存命中大切之密談有之ニ依テ不取置急段御出張可有之旨早馬飛脚ヲ以テ勇至来ニ依テ、家老大久保秀角申上ケルハ義光謀計ニテ俄ニ大病トハ偽りト相見へ、御見舞トシテ御名代御遣ハシ候テハイカガテ御座喉哉ト申上ケレハ、長久公強勇ニテ義光ハ何程知謀深キト雛可恐ヤト無御聞入究竟ノ家臣共五百六拾人ノ供勢ニテ山形霞け城へ出張ス。
長久公
和田六郎左エ門 大久保大膳介
熊野三郎    長沼玄番
長谷寺右馬正  井澤寅之助
塩村熊之助   森谷大膳
鉄砲百丁    大砲拾梃
 白鳥十郎藤原ノ長久公ハ緋綴鎧ヲ着シ黒麻毛ノ馬ニ打乗り外八人モ馬乗りニテ繰出シケル処、浄土宗誓願寺門前先ニ差懸り候処カ、長久公ノ陣笠ニ烏飛来シテフンヲ引懸シ故、和田六郎左衛門甚タ不吉ト思へ君ニ申上ルハ、只今君ノ陣笠へ南ノ方与烏カ飛来シテフンヲ懸ケシ事不思議ノ事ト奉存何レニシテモ今日ハ御見合ニ可被遊ト申上候処、君申ケルハ、何程危キ事有之候迚可恐也ト強勇無双ノ大将ナルハ事共セズ、又途申与引戻ルモ畢寛ナルト無聞入霞ケ城ヘト急キケル程ナク山形宮町ニ差懸リシ処、霞ケ城与御例衆ハ二ノ丸ニ扣ヘル様ト又本丸迄舅義光大切ナル聟君ト密談アリ弥々霞ケ城ニ着仕リシ処カ奏者役案内ニテ長久公、只御壱人御本丸ニ御入リ御例衆八人五百人供勢ハ御本陣ニ入り長久公強勇無双ノ御方ナル共殊外酒ニ酔へ舅君義光申ケルハ、貴君ニ大切ノ密談アリ奥ノ間へ請シニ依テ長久公ハ無油断承知居り候へ共、舅義光ノ実ト心へ、何心無ク奥ノ間ニ行キ候処、深キヲドシ穴拵へ置ケ長久公ハ酒ニ酔へ穴ニ這クシ処ヲ両方与切懸ケラレ何程強勇ノ長久公ナル共、義光謀計ヲ以テ聟十郎ヲ害ス候故、又八人家臣ハ胸サハキ悪ルキニ依テ、主人御身ノ上ニ何カ禍へ有ルカト八人一同ニ本丸ニ走り行キ見レハ、主人長久公ハ空敷義光ニ討レ南無三宝ト見へ、夫与義光ヲ討ントサガシ見レバ、本丸二百人計リ伏勢アリ。八人ノ者ヲ討サント切り懸ケ向ふハ百人ノ伏勢ナリ。熊野三郎五尺八寸ノ太刀ニテ切テ散シ、続テ長沼玄蕃・井沢寅之助都合八人シテ切散シ三・四十人切倒シケル処、又大手与二・三千人押込八人者ヲ討サン下切懸ケシ処ヲ、谷地軍勢本陣ニ控居タルカ、大手之騒動聞ト直ニ大砲拾挺打散シ義光勢多分人数痛ミ其ノ内ハ谷地ノ軍勢ハ天童差シテ行シ処ヲ天童伏勢有ルニ依テ原町村へ行キ候処、又原町へ伏勢有。萩戸原ニ抜ケ萩戸原ニテ山形勢ヲ引受未三日戦江アリ、山形勢千人程討シ死骸ハ山ニ積ミ、谷地ノ勢ハ無恙天童阿だこ山ノ陰与抜ケ谷地ニ帰城シテ熊野三郎大将トシテ山形討っ手引受ケ合戦ス。谷地勢ト大合戦ト相成リ、然ルニ布姫君ハ夫ノ長久、親義光ニ討レ残念ニ思召、夫トノ敵討サント長刀抱込ミ馳セ出ケルヲ、老臣伊藤将監布姫君ヲ取押へ、心ヲナダメ、夫トノ敵ハ親ナレバ先御扣へ可被游ト、時ヲ御待ち致ヘト。先桜ノ御殿へ御供仕奉守護為御移テ谷地後ノ城主ハ白鳥十郎藤原ノ長久公ノ奥方布姫桜ノ御殿ニテ詠哥
古の毛し久月見る薮の盧可那
 長久公ノ奥方御殿ハ桜町ニ有久シカラ須。未七拾年以前迄、今桜町ニ有ル。松ノ南ニ壱丁四方の芝空地有り。松ハ並木ト見ヘテ、此松ハ白鳥十郎長久公ノ奥方布姫君方カ遺身なれかしと松ト桜ヲ植、此桜ハ能前迚年々三度咲く桜ナリ。年久シケレバ桜ハ枯レ失せスカ。松ハ残り、其松ニ懸志一句ヲ侍ル
伊久年世もい路毛松山か王らぬ布姫まヅ
白鳥十郎長久ノ家臣          お守護死反玉
伊藤将監重村      ○○○○○○○○○ノ先祖ノ由なり
森谷大善高友      ○○○○ノ先祖なり
槙三郎左衛門国光    ○○○○○○ノ先祖なり
和田六郎左衛門秀友   ○○○○○○○○祖なり
森大太郎藤高      ○○○○○○ノ祖なり
阿部兵蔵盛重      ○○○○○○ノ先祖なり
宇井半左衛門芳村    ○○○○○○○○○先祖ナり
槙結城家貞       ○○村ニ跡アリ
井沢寅之助吉忠     ○○ニ跡アリ
細谷大蒸信安      ○○○○○○○○○祖なり
大場八郎左衛門義忠   ○○○○○○元ハ大場三郎ト云ふ
岡崎七郎右衛門重行   ○○○○○○○祖也

後藤善孝芳実(サ子)  ○○村跡アリ
八鍬五郎左衛門重種   同村ニ跡アリ
仁藤大学信盛      ○○○○○○○ノ先祖也
仁藤四郎左衛門秀重   同村ニ跡アリ
大久保内膳助秀角    ○○○舘持家老ナリ
湯野沢村熊野権現ト祭也
熊野三郎友重      ○○○村舘持家老ナリ
塩野熊之助重則     ○村舘持家老職也
長善寺右馬一(カツ)国 是モ舘持家老ナリ
石川右膳正利佐定    ○○○○○○ノ祖ナリ
黒沼玄番保秀      是モ舘持家老職ナリ



あらきそば−紅花資料館案内図