にしかたの昔語り
白鳥十郎にまつわる話
大高根から宮下−白鳥山中−長善寺−峯山−岩野新田−坊ケ峯山中−湯の入−熊野山−滝の入り−長松院ウラ−山際−荒敷稲荷様裏−ガンジャ橋−岩木−沢畑弥勒寺の根岸街道−慈恩寺へ行く道は「鬼甲のかくれ道」といわれてきました。
この古い道は、どちらからきても湯野沢の楯内には入らないで通りすぎてしまう道で、熊野三郎が敵に攻められた時に逃げたカクレ道といわれています。
これに対して、岩枝から矢木沢−久保春日さま東−天神堂本屋敷−中村−長善寺道は南北の道、東西の道は大久保平野−北山グランド北方−洞らの口−本屋敷−湯の入に至る道と大久保大原橋−高欠け−金神−矢木沢に至る2道は古いオモテ道でした。
さて天正年間、最上義光が白鳥十郎をだましうちにした時、白鳥十郎の奥方は湯野沢の生まれだったので(熊野三郎の妹ともいわれています)湯野沢に帰っていました。そして熊野神社で夫の成功と無事を祈っていました。奥方は、夫白鳥十郎が山形城に行く時不吉に思い、夫の山形城行きをとどめたが、白鳥十郎は聞き入れなかったといわれています。
だが、その祈願のかいもなく、手にしていた白味の神鏡(守り鏡)に夫の死を伝える血が飛び散るのが写りました。そしてまもなく八咫烏が悲しく鳴くのをききました。「無念だ!悪党最上義光は残酷な人間だから、やがて谷地の領地の村々を攻めたて、おれの身内をつかまえて処刑するであろう。今すぐに沼の台へ逃げなさい。」と烏は悲しい声で鳴いたといわれています。それは熊野神のおつげでした。
岩木の熊野神社
夫の死を鏡と熊野烏の鳴き声で知らされた奥方は、熊野三郎の家臣をつれて本村のかれ道を通って岩木へと逃げました。
岩木の三里塚まで逃げて来たとき、待ちぶせしていた最上義光の家来たちに見つかり、奥方は岩木のおくまん様のところにあった家へ逃げ隠れました。家来が3人殺されましたが奥方は助かりました。奥方はこの家の人にかくまってくれたお礼にと、白味の鏡をおいていったそうです。この鏡をお祀りしたのが岩木の熊野神社であると伝えられています。他の家臣たちは更に逃げのび沢畑の四ツ塚で殺されたといわれています。
そして白鳥十郎の奥方は西里・慈恩寺・大谷へと逃げのびて、ゴゴウさまとして生活したということです。
奥方は待女たちをつれて村々をまわり、米を5合ずつもらい歩いて生活していましたからゴゴウさまというのだそうです。
あらきそば−紅花資料館案内図
白鳥長久の妻
白鳥十郎は湯野沢楯主熊野三郎の娘おたえの君を娶ることで熊野三郎を家臣にしたと伝えられています。
「熊野三郎平長盛の兄は大崎にいたそうだ。また、いつ頃の熊野三郎の子供だか分からないが、子供の長男は戦死して、三男熊野三郎の姉は白鳥に嫁さ行って、夫はええ男だが悪者で、嫁いじめひどくて、苦労し、でもどりして家さ帰ってくる時、北山で行き倒れで死んだけど、夫は山形の殿様に殺された。妹は白岩の殿様に嫁さ行って幸せだったそうだ。」
という話があります。北山高盛頂上にその尼御前の墓があります。嫁いじめする夫は、この尼に殺されると伝えられています。
白鳥氏は、陸中国胆沢郡白鳥村の安倍頼時・行任の後胤で、出羽国葉山に落ち延びて潜伏したといわれています。中世には葉山修験者と結びつき、勢力を拡大し故郷に似た地形の白鳥を領地として白鳥氏を名のったと伝えられています。新庄藩村鑑の富並村の項に「白鳥十郎築き立の城有り。」とあることや、天正最上軍記に「桓武天皇の御胤鬼馬場の入道森近江守豊源保廣公より十三代の後胤・・・」などとあることを総合して考えてみると、白鳥氏の祖は鬼甲城主だったのではないでしょうか。
北山のながめ
円重寺の伝え
次年子村円重寺
次年子村円重寺に伝わる白鳥十郎の末裔にまつわる伝えです。
白鳥十郎の孫玄馬には先妻と後妻の娘がいました。
ある日、父は角盆を二人の娘の前に於いて、盆の上に皿を置き、その上に皿をひっくり返して置いて、その上に松を植えて、さらに塩を置き、これを歌に詠んでみなさいと命じました。先妻の娘は歌を詠んだが、後妻の娘は詠めなかったので、先妻の娘を円重寺のあととりにしたそうです。
その歌「ぼんだらやさらけが山に雪降りて雪を根としてそだつ松かや」
円重寺の墓地に三つの土饅頭があります。その一つの土饅頭の松の根元には「殿様」が埋まっていると伝えられています。老松は伐採され、今は土饅頭だけが残っています。「殿様」の命日は6月7日ですが、8月7日に赤飯を供えるならわしになっています。
「殿様」は最上義光の侍に追われて門松の陰に隠れましたが発見されて切り殺されました。このことを忌み嫌い、次年子では正月に門松は立てない習わしがあります。
白鳥十郎が最上義光に誘殺されたのが天正12年6月7日といわれていることからすれば、松の根元の土饅頭に眠る「殿様」は白鳥十郎長久であったと思われます。
平成5年頃、手前の土饅頭を発掘したとき180センチ程の人骨が出たそうです。人骨にはニケ所に刀傷がありました。
白鳥十郎の首と二人の子供
次年子には、他に次のような伝説があります。
1.照覚寺の伝えには、白鳥十郎が山形城で最上義光に殺害された時、当時最上家の家臣であった延沢能登守が白鳥十郎の重臣青柳隼人と槙清光に十郎の首級入りの葛籠と二頭の馬を準備して与え、山形城の裏門から逃がしてくれました。青柳と槙の二人の家臣は天童舞鶴山の東を通り抜けて大久保の船戸より舟を上がり、北山西側を通って次年子へ逃げたと伝えられています。この時長久の娘(日吉姫と布姫)と二人の男の子を大富藤助新田の白鳥家の重臣である槙家や沼の平の東海林隼人の家にかくまったと伝えられています。
また他の伝えによれば、青柳隼人は寒河江の幸生に家来一人を残し置いて、幸生銅山・烏川を通って次年子に逃げてきました。烏川幸生銅山の寺屋敷には、白鳥十郎の子供が住んでいたとか、十郎の首級が埋まっているとも伝えています。
2.善兵衛という侍が白鳥十郎の娘を連れて烏川を通り清水方面から逃げてきたといわれています。円重寺の檀家である山の手の娘は後で大石田町の駒込に移った檀家善兵衛の娘で殿様の後妻です。駒込の円重寺の檀家である七郎兵衛・次兵衛も烏川・清水の方から次年子にやって来たといわれています。
3.青柳隼人は白鳥十郎の首をもち、二人の男の子を連れて葉山に逃れました。白鳥十郎の首級は葉山の八聖山の境内の土手にある銀杏の木の下に埋まってあるといわれています。河北町史には、白鳥一族は松前や仙台方面へ逃げ去ったり水戸の山野辺氏に仕えた者もいたと記されています。
4.小谷部家系並びに八聖山伝では「長久に二人の遺児あり。共に逃れて縁者である沼の平の東海林隼人に一旦身を隠した後、八聖山に入って法印となり、兄は滝泉院を、弟は大聖院を開いたと伝えています。あらきそば−紅花資料館案内図
延沢能登守の土地証文
円重寺のある檀家に、殿様の後妻となった人の娘が住んでいました。娘のところに能登守がやってきて、十二沢の土地証文を与えて「江戸へ行ってくる。帰って来た後また来る。」といって去っていきました。
その後、一人の侍がやって来ました。その時、侍はその家の仏壇に安置されていた大きな位牌を見つけて「こんな立派な位牌を百姓家に置くものではない。」といって焼いてしまいました。この位牌は白鳥十郎の位牌であったのでしょう。位牌を焼かれてからその家ではよいことないと伝えています。
芦沢の種林寺
白鳥十郎の菩提寺である芦沢の種林寺にある位牌は名前だけの位牌で本物ではなく、この家の位牌が白鳥十郎の本物の位牌で、後妻の娘が守っていたのだと伝えられています。能登守の十二沢の永代土地証文は今も駒込のある円重寺の檀家に残るといわれています。
定林寺の境内−谷地城その後−
「定林寺の境内」は、井刈大応著「定林小史」(大正7年8月5日発行、発行者定林寺)に本文の付録として掲載のものです。本ホームページで紹介している「龍口山の龍」の話もこの本に載っている話を父が本に紹介したものです。
白鳥十郎が最上義光に滅ぼされるた後の谷地城のたどる運命を知ることができます。直江兼継(私にとっては兼継といえば宋版史記なのですが、最近は何というか、歴女とか戦国武将ブームだとかで、前田慶次ともどもすんごいキャラクターで雑誌などに紹介されていて、雑誌を見て思わず絶句してしまったことがあります。)が山形を攻めたときの挟み撃ちの片方のハサミが折れたときの模様が記されています。文章はほぼ原文そのままですが、読みやすくするため若干漢字をひらがなに改めたところがあります。また原文縦書きを横書きに記しましたので、数字はアラビア数字にしてあります。
定林寺の現今の境内は、自鳥十郎長久の谷地城の一部である。地形を見るも、門前及び側背の三方が田となっており、古えの堀の跡であることが分る。のみならず地名も既に中楯と言っているからには、西方の一郭内楯と共に、城地であったことが証明される。すなわち今より300年前戦国時代には、雄将の居住地であったのだ。それで境内は種々の歴史に富んでいる。今それらをつまびらかに述べることは、本書のような小史のよくするところでないから、ただ概略を語って見ましょう。
白鳥氏が谷地城を築いた年代については、種々議論もありますが、一般に長久の代になってから築いたものとせられている。すると永禄の末か元亀の初め頃とみるのが至当である。この長久という人は、織田信長などとも交際した人で、馬1頭を献じた返礼に、段子30局、縮羅30端、紅20斤、虎皮3枚、豹皮2枚、醒々皮など、あまた贈られて居るところを見ると、普通以上に頼もしき男として遇せられておったに相違ない。長久常に寒河江の大江太郎四郎隆基をたすけて、河西すなわち今の西村山一円を、泰山の安きに置いておった。ところがその頃山形には最上出羽守義光がいて、村山三郡はもちろん、最上郡までも食い込んでおったのだから、中に唯一つこの河西ばかりを独立させておくのが、誠に面白くないと思っておったのである。今義光物語や東国太平記などを読んでみると、不和であったことについて、種々理屈はつけてありますが、それは要するに外交的辞令であって、心底は依然限りのない欲から割り出されて来ているのに相違ない。それで義光は寒河江氏を滅ぼし、河西を奪おうとして幾度か考案している。けれども谷地に長久がいて、隆基の後押しをするので、いかがしてもうまくゆかない、このところにいっそのこと長久をなきものにしてからという、考えが湧いて来たのであったろう、こんなとき義光という人はよく姻を結び、相手方に油断をさしてしまう、相変わらず娘をもらうとか、伜をやろうとか言う相談を持ちかけて、首尾よく成功したのである。書物によっては既に結婚してしまったように書いてあるが、義光の長子修理大夫義康は、未だこの頃10歳位な少年である。同居したとは思われない、約束ばかりであったろうと思う。まづこれで表面はすこぶる隠かに収まった訳であるが、義光の心ではいよいよこれから仕事に執りかかろうとしたのである。それで氏家尾張守守棟や志村伊豆守光安といったような重臣を集めて、いかがしたら手軽に白鳥長久を討取ることが出来るかと相談せらるのである。その結果が仮病をつかって、長久を招くといふことに決定した。さすがは義光の事であるから、甘い文句を並べて招かれたったに相違ない、白鳥十郎長久は之を信じて山形へと出発した。この時長久がその情を知りながらも出かけたのであったというように、書いてある書物もあるが、戦国時代に左様な馬鹿物は一人もない、知らすに信じ切って行ったのである。すると溜の間には医師陰陽師といったような連中まで居並んで、いかにも業々しい騒である。やがて黒書院から白書院と、大長廊下を伝いて寝所へ入り、容体を伺い申すと、義光は態とも息苦しき風情で、伜の後見を頼まれ、一巻の系図書きを渡し、吾れなき後は力となるは御身のみなりと、懇ろに遺言せられたから、長久いよいよ本気になり、系図を一覧して居ると、義光は抜く手も見せず、一刀の下にこれを斬り棄てたのであるというのが、まづ諸書に書かれた筋書である。けれども義光素より仮病をつかったのであるから、この時対面せられたとは思えない。また臣下としてもたった一人の白鳥を殺すのに、態々御寝所の義光一人のところへ、遣らるるものではない。大方殿中溜の聞あたりで、大勢でオッ取巻き討取ったものであったろう。それを是では義光の腕の汚なえところも見えないし、また芝居気も足りないから、雑書本の作者共は、義光が手つから斬ったように作り上げたものに相違ない。この事変は実に天正12年6月7日の出来事で、今長久の霊は隣の東林寺に祀られてある。元は菩提所種林寺に葬ったものであったそうですが、同寺が廃寺になったので、現寺に遷されたのであるということです。実に惜しい人物を失ったものである。
義光の方ではまたかくして白鳥を討取ったからには、河西を滅ぼすなどは朝飯前であると思ったものか、十挺組の足軽大将熊沢主税助、高橋主計、志村藤右衛門等を先陣としてその勢3000許、中野原で大勝利を得、最上川を渡って来て大江隆基を攻め立てた、到頭隆基は寒河江を守り切れずして七軒村に走り、松田彦次耶俊高の家で、一族近臣15人と共に切腹してしまう。実に6月28日で、白鳥氏が殺されてから、いまだ20日ばかりしか経過して居ない、是を見ても白鳥氏は河西にとってどれ程重きをなしておったかが分るのであります。この時義光は矢張谷地城までも来られたらしく、今北口辺りに細谷高橋などの姓か沢山あるのは、当時出陣した義光の麾下、細矢内匠、細矢権左衛門、高橋瀬左衛門(この頃活版本の義光物語に細矢を畑谷と記すは原本の見誤り)などと因縁あるのではあるまいか、果してあるとしたならば義光がこの時残して行かれた部将である。
その後当城に変事があったのは16、7年も後のこと、慶長5年9月すなわち関ヶ原合戦の時である。上杉方の下知として、荘内大浦(今の大山)の鎮将で、下対馬守吉忠という人が庄内勢を率い六十里越から攻め寄せて来た。これを見たる谷地の番将齋藤伊予守(義光豊臣家よりの預人)谷地大学等は驚いて、城を棄てて蔵増高擶辺りまで逃げ走ったのである。実に情ない次第である。けれども当時の形勢を考いて見るに、義光がこの時の軍略として、領内各城の兵力をことごとく山形に集中し、その他の城へは、中以下の部将に僅の兵を付して、守らして置いたばかりであるから、逃げたものは当然である。犬死するばかりが武士でない、源頼朝は土肥の山中に逃げ隠れたから天下を取れたのである、そんな風で谷地城は、一旦上杉方に奪われてしまったが、やがて関ヶ原で徳川家康が大勝したこいう報知が、義光の手に入ると、最上勢は俄に活気付いて来て、退き初めた上杉勢を到るところになぎ立てる、9月晦日から10月朔日日暮までの戦がそれである。義光長谷堂ロで討取る首級1580余級、その他尾花沢、長崎、富並辺りで1500級ばかりを獲たというから、首実験にいとまがなかった程であったでしょう。この時いかがしたものか上杉の将直江山城守兼継は谷地に居った下吉忠にばかり、退却命令を伝達されない。取落したというならさすがの名将に傷が付くというものである。その他は皆9月30日に命令に接しているから、寒河江を守って居った志田修理亮義秀の如きも、朔日にはサッサと荘内へ退却してしまった。取残されたのは谷地の守将下対馬守吉忠ばかりである。全く心細い次第であるが、当人はそんな事は露知らないから平気であったに相違ない。すると翌2日になってこの状況を義光に注進した者がある。義光どうして黙って居りましょうか、長谷堂の守備で英名を天下に走ろうせた、志村伊豆守光安に7000ばかりの兵を付して、10月2日直ちに谷地に急行せしめたのである。この時谷地城にあった兵数は、10月13日義光から岩城の竹貫三河守に報じた書面によりますと、2500人としてある。2日3日と戦を交えたらしく、4日からは城中に丸薬一つもなくなり、戦うことが出来なくなったのである。けれども最上義光もさすがな名将である。決して急にこれを攻め立てさせない。ここに10月9日伊達政宗援軍の将、高森上野介政景から、政宗に宛てた書面を見ると、
「前略−谷地一城ばかり候、彼の地の事は、在地悉く御奉公にて、内舘ばかり荘内代官衆たて籠り、今に持合ひ候、併し荘内の助成も罷成らず候間、則ち落居仕るべく候」
とあって、双方唯睨みあっていたが分る。これ義光が下吉忠は凡人でないことを知ったばかりでなく、その士卒を利用しようとしたからであろう、義光志村伊豆に告げていうようには『吉忠は夙に武名あり、吾れ将に彼を誘致して味方となし、荘内を攻むるの先鋒となさんと欲す、汝之を謀れ』と、光安の曰く『我家臣に小沢伊豆守とて、下氏とは年来の入魂者あり、彼を遣わしてまず之を試みん』と、小沢和泉守を丸腰で城中に遣わし、吉忠に対面させたのであった。吉忠この時厚くその好意を謝し、言うようには『直江の吾を棄てたるは恨なきにあらず、されど上杉の恩は又叛くべからず、今一度は決戦して、之を報ぜん』と。和泉守の曰く『御意の如きは尤なり、なれども足下にして死せば、衆も亦之に殉ぜん、一人恥を忍びて衆を助く、亦君恩に報ゆる所以にあらずや』と。吉忠の日く『唯我が首を刎ねよ、死を君恩鑑ゆるのみ』と、従容として座に直り、最早自害しようとしたのである。家臣共がこれを留め、『請ふ一死を共にせん、焉んぞ主公を棄て帰るに忍びんや』と.、なかなか評議が決しない。それで和泉守はこの事を光安に報ずると、光安は『然らば衆と共に残らず国に還さん』と、城中よりは吉忠の一族下源六郎(後美作守)を質に取り、吉忠へは中山駿河守が一子を遣して、10月12日ここに講和談判が整ったのであった。この時下吉忠は城から出て、付近の山寺、今何処なるか分らないが、山ぎわの寺というなら、当定林寺へでもあったろうと思う、入寺して僧になってしまう決心であったそうである。けれども城を出ると捕われて、重臣30余人と共に、山形へ引かれて行ったので僧にはなれずにおわった。やがて山形で酒田攻撃先鋒の約定を強いられ略ぼ整うと、閏10月頃執れも大浦へ遣わされたのであつた。こうなると大将吉忠は兎に角、命を助けられた2500人の士卒は、深く義光の寛大なる処置に感激した。翌慶長6年4月24日、果して約束を履行して酒田城に逆襲したというのは、預つて士卒の方に力かあったのだと思う。この後谷地城は氏家尾張守守棟が一子左近之亟に、17000石の知行地として與えられる。元和8年8月最上家が改易になり、左近之亟及び同く小左衛門が、毛利長門守秀就に預けらるるまで、ほとんど23年間在城した。この時城池は幕府の命令で、政宗の家臣伊達相摸守宗直が来て、之を破壊してしまうのである。大方現今のように平坦にされたものであつたろう。
白鳥氏が築城してからわずかに60年ばかり、谷地城の持命が短かかったけれども、その事蹟は割合にすぐれている。これ当時殊に要害の城であつたからであろう。その後元和8年10月19日谷地の半分北方は、新荘藩主戸沢右京亮政盛の知行60000石中に編入せられ、当定林寺また90年ばかりの後、ここに転築せられたけれども之より天下は泰平にしてわずかの大事変がない。新荘藩はかくして明治戊辰まで継続せらるるのである。今定林寺の法類が最上郡に多いのは、この辺の関係が確に一因をなしている。
この記事境内の変遷として、本文中に出すべきものであったが、事蹟が錯綜して綴り切れぬから、趣昧ある読物として態とここに掲げたのである。
これほどの 事は浮世の 習いぞと 心に許す 罪ぞ恐ろし
事足れば 足るに任せて 事足らず 足らて事足る 身こそ安けれ
おしなべて 心一つを 知りぬれば 浮世にめぐる 道もまどわず