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にしかたの昔語り

深沢鹿子踊
−鬼兜城下の鹿子−



 深沢鹿子踊の伝わる深沢地区は、昔、白鳥十郎にも関係があるといわれる鬼兜城のあった地区です。ちなみに私の母の実家は深沢地区の鬼兜城の風呂炊きだったという由緒ある?家柄とのこと。平成20年10月、隼地区の橋の掛け替え工事完成を祝って橋上で舞われた深沢鹿子踊を見ることができました。
 5頭立ての鹿子踊で、牡鹿子、牝鹿子、役無し鹿子3頭と、ささら2、鐘ぶち2、笛方、唄方、旗持ち、太鼓2で構成されます。
 以下に、孫引きですが、保存会の出した「深沢獅子踊」という本から紹介させていただきます。
 「ロ伝ニハ当地区A(当主○○)ノ租先ノモノガ丙村山郡左沢在方面ヘ毎年屋根葺業出稼ヲ業トシタルモノガ当地区若衆ヘ伝習シタルモノト伝ヘラレAニハ古イ屋根葺鋏ハ今モ保存サレテイル。之ハ百数十年前の事ト思ハレル。踊り歌詞ヤ順序人名ナド昔ノ字デ書イタ和ツヅリノ極粗末ナ小冊子ガ今筆者方ニアリテ其ノ表紙ニハ文化元年トアル事ニヨリ見レバ之ハ百二三十年前ノ記事ニシテ其ノ以前教伝シタルモノト思ハル。
 最近ノロ伝二ヨレバA当主○○ヨリ五代前ノ祖ハ地区ヨリ西方二十町ノ湯ノ入ト称スル鉱泉沸カシ小屋ヲ営ミ居リ時ノ若人達ハ大挙シテ夜分ニ稽古ニ通ヒ習得シタルモノトシテ伝ヘラレテイル。・・・
 其ノ後月露戦争最中明治卅七年八月総員出演ニテ冨並村村社社八幡社ニ武運長久戦捷祈願ヲ行ヒ大正四年秋ハ大正天皇御即位記念ノ御大典ニ際シテ奉リ大高根運動場ニ深決地区「出シ物」トシテ熱演シタリ。・・・
 深沢鹿子踊はその唄に特徴があり、他の地区にはない文句があります。
「箒殿は萬の宝掃き集め、鹿に賜り末はご繁昌」
「舞へり来て貴方のお庭を眺むれば、たては十五里横七里、入りはをよくみて出入り迷うな」
「踊りが(の)仲だち都に生まれて伊勢育ち腰上げさしたる伊勢のおはらい」
「燕(つばくら)は舟の艫に巣をかけて、波にゆられてわんと飛び立ち(びえそう)」
「寺々で襖障子を引くときに、我の踊り子後に退かばや」
「これほどの花の都をふりすてて、国とて帰るは名残惜しさよ」
以上の唄からも、舞われた目的は先祖供養だと思うのですが、鹿子踊の舞のはじまりは長島鹿子踊同様、最上川舟運によって関西〜越後〜左沢経由で舞が伝えられたのではないかと推測します。

写真集(準備中)