本文へスキップ
 


にしかたの昔語り

天神湯野沢鹿子踊
−河西地区鹿子踊の集大成−

            
                            昭和38年の天神湯野沢鹿子踊
 天神湯野沢鹿子踊の「天神」とは、旧新庄藩時代の天神湯野沢のことで、村山市大字湯野沢に伝わる鹿子踊です。現在天神鹿の子踊り保存会が伝承しています。
 冨本村史(大正6年)によれば、「昔山寺地方ハ野獣多ク棲息セシ所ナリシヲ以テ猟師等多ク、同地方ニテ野獣ヲ捕ヘテ生活シ居レリト。然ルニ慈覚大師山寺開山ノ時、猟師バン三郎(番三郎カ猟師ノ頭タルモノ)等ニ殺生ノ憐哀ヲ説キ佛道ニ帰依セシメタリト。故ニ野獣ノ御礼参リノ貌ヲ像リタルモノノ踊りナリトイフ。当大字ノ鹿の子踊ハ、 〇〇ナルモノ、他の地方ノ鹿子踊ヲ参考トシテ、当大字独特ノ舞、即チ他地方ノ踊ト異ナリタルモノヲ案出セルモノナリトイフ。此ノ〇〇ハ大槙村(今ノ戸沢)ヨリ本村〇〇ノ養子トナリ、今ヨリ97年前、即チ文政3年死亡セリト云フ。各地方ノ鹿子踊山寺参詣ノ時ハ、舞ノ優劣ニヨリテ、参詣ノ順序ヲ定メ置ケリト。而シテ其ノ第一位ハ妙見寺、第二位ハ湯野沢ナリトイフ。」とあります。
 上記の由来によれば、大槙(驚滝〇〇家)より〇〇家の養子となった〇〇が案出したとされています。推測ですが、大正6(1917)年から97年前の文政3(1820)年に死亡した人で、江戸時代後期の全国平均寿命が44〜45才だったとして、30歳前後で鹿子踊を案出したとすれば、天神鹿子踊りの始まりは1805年前後すなわち江戸時代の享和〜文化年間ごろであったものと思われます。昔の平均寿命が短いのは乳幼児死亡率が高かったためですから実際にはもう少し前の寛政あたりまでさかのぼれるかもしれません。そして、妙見寺以下の山寺系に属する村山地区の鹿子踊であったこと、市内の稲下・長島・深沢の鹿子踊りと共にマサカリをいただく7月7日の山寺盤司祭に参詣していたこと、参詣順位は2番であったことが語られています。参考 古老Nさん談
 また、「天神湯野沢獅子(鹿の子)踊由来」という資料には
 「明治時代は山形村山地方に数多くの獅子舞があり、其の内特に天神(天神湯野沢)の獅子は有名にて山寺参詣するときには格式があり、一番に山形在の妙見寺の獅子、二番に天神湯野沢獅子といわれ、次々と奉納したと云う。
 その時は必ず天童の大橋にて足止め、待機し、山寺の使者がきて、許可があれば大橋にて橋仕舞を踊り、次々とお参りに上ったという。最初に山寺立石寺本堂前にて奉納致し、次に山中にある磐司、磐三郎の墓の前に参詣下山したと云われ、現在も山寺に行く毎に踊りを奉納して居ります。(古老の話より)」
と記されています。
(注・ 昔、山形の山寺地方には多くの動物が棲息しており、その動物の狩りをして暮らす猟師が多く住んでいました。 しかし、慈覚大師が山寺を開山された際に、慈覚大師は猟師の頭「磐司磐三郎」等を仏教に帰依させ、動物の殺生をやめさせました。その時動物たちが山寺に御礼参りをした様子を写したのが内陸地方に多く伝わる鹿子(猪子、獅子)踊りといわれています。)
構成と囃子
 村山市内唯一の七頭獅子で中央に大鹿子を置きます。大鹿子はマサカリを腰に着けますが、熊野(天満)神社大祭の時はマサカリの代わりに梵天を腰に着けます。他に旗持ち1人、女装のササラ摺り(早乙女)4人、陣笠少年の鉦打ち4人(陣笠には天満神社の梅鉢神紋があります。)、太鼓打ち1人、笛方4人以上、唄方で構成されます。曲目・構成には寒河江、左沢の鹿の子踊の影響が見られます。
 進行は、まず踊りの庭を定めて、踊に入ると三本舞・三拍子・尋ね一番〜三番不明の牝鹿探し・迷い牝鹿見つけ歓喜する・祝儀をいただきお礼をいって村への土産としていただく。以上の中に、岡崎、花見(だこらん)、つゆあみ(露浴)とひんひやリ(朝露払い)の演技が見られます。
 湯野沢のシシ頭は鹿であり,鎮守が天神様であることから天神鹿子踊と呼ばれるようになりました。
 全曲を演じると1時間ちかくかかります。
 (約10年ごとに開催。前回は平成25年に開催。)
役割
旗持1人 笛吹4人以上 太鼓打 1人 ササラスリ4人 鉦打4人 鹿子7人 内大鹿子 1人
踊ノ種類
道踊  橋ジマヒ  門ジマヒ  イリハ  サンボマリ(サンボン)マリ  クラヒ鹿子等ナリ
由ニ記ス 各地方ノ鹿子踊ハ左ノ如シト 参考ニ供ス。妙見寺、豊田(岡)、寒河江、左沢、田井、長瀞、稲下、富並、荻野」
と記されています。
曲目
 入羽、くずし、ヒヤヒヤトレ、タカダン、ヒヤヒヤロヒヤラロレ、デンガラカツカ、ザツコ、サンボマリ、ハナタマゲ、レーヒヤロヒヤロ、シホウカタメ
道踊(道行き)
門仕舞
橋仕舞
入羽 庭を定めこれより踊に入る
サンボマリ 三本舞・三拍子・尋ね一番〜三番不明の牝鹿探し
くるひ 「狂言」 迷い牝鹿見つけ歓喜する。
首踊 祝儀をいただき、お礼をいって、村への土産としていただく。
道踊
その他、 以上の中に、岡崎 花見(ダコラン) ツユアミ(露浴) トヒン
ヒヤリ(朝露払い)の演技が見られる。
奉納記録
江戸後期 鹿子踊は3〜5回位) 文久・嘉永年間
富並と深沢の鹿子踊が熊野神社大祭に参加の記録あり
 
明治2年旧3月25日 天満神社拝殿建立遷座大祭 天満神社拝殿は慶応4年着工、明治2年竣工。鹿子連中狛犬石蔵奉納。
明治15年10月22〜23日 第35回郷社熊野神社式年大祭
明治天皇巡幸記念
大毛槍2本が振られた
熊野神社本殿は旧谷地郷18ケ村の浄財により建立。 大祭には谷地細谷区長ほか18村村長と神官参加。
明治16年9月  天満神社大祭  天神鹿ノ子踊奉納
明治27年9月25日 現在の奴の始まり明治32年奉納の絵馬が作製された 冨本小学校新築。海老名徳太郎受勲公徳費建立。拝殿獅子頭(ママ)・奴・神輿・鹿子踊奉納。
明治41年9月 風祭 忠魂碑建立慰霊祭 相撲・剣道・鹿子踊奉納。
大正6年10月22〜25日 第36回郷社熊野神社式年大祭 大正天皇御大典記念。熊野神社境内神明鳥居奉納。奴、鹿子踊。
昭和3年10月24・25日 天満神社遷座大祭 昭和天皇御゙即位記念。天満神社石灯篭奉納。鹿子踊連中山寺参詣。鉞を賜わる。
昭和23年9月23日 第37回郷社熊野神社式年大祭  新憲法発布記念。奴・ 鹿子踊楯岡にて舞う。
昭和31年8月 村山市誕生記念参加 熊野神社参詣 鹿子踊連中仙台民族芸能大会参加。写真あり?
昭和38年9月22・23日 第38回郷社熊野神社式年大祭 鹿子踊連中山寺参詣。
昭和50年9月24・25日 天満神社本殿再建遷座大祭 昭和47年冬豪雪で倒壊。昭和50年4月着工、9月8日竣工。村浄財700万円。村職人建立。記念樹銀杏木。9月鹿子踊・奴山形伝統芸能大会参加。 鹿子踊連中山寺参詣 8ミリフイルムあり? 
平成元年9月 9・10日 第39回郷社熊野神社式年大祭 今上天皇即位記念。冨本村誕生100年・小学校改築・ほ場整備竣工。岩野田植踊参加。鹿子踊連中山寺参詣。冨本大祭。ビデオ パンフ 写真あり。
平成15年9月13・14日 第40回熊野神社鎮座800年式年遷座大祭 屋根葺替。 鹿子踊連中山寺参詣、長瀞公演。12月奴連浅草公演。
 平成25年9月7・8日 第41回熊野神社大祭  宝くじ補助金で奴道具と鹿子踊用具を修理。神社予算により幣殿修理。鹿子踊6月21日山形市にてディステネーションキャンペーン 参加。11月23日奴・鹿子浅草にて奉納。

以上、明治より鹿子踊13回、奴振り9回の記録があり、8ミリフィルム、ビデオ パンフレット、 写真が多数残されています。