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にしかたの昔語り

にしかたの鹿子(猪子)踊



  鹿子踊の起源と背景の推測
 現在村山市内には私の知る限り5つの鹿子踊が伝わっています。北から富並地区、深沢地区、長島地区、稲下地区、湯野沢地区の5カ所で、すべて最上川西岸に伝えられています。父の話によればにしかたの地に鹿子踊が始まったのは19世紀初めとのこと。この時期は天明の大飢饉がようやく終息に向かった時期です。飢饉が起きた当時、村人たちは神仏に気候の回復を祈願しました。そして神仏への祈りがようやく届き、生活が安定したと思ったとき、神仏への感謝と今後豊年豊作が続くよう願いを込めて社寺を修復し、鹿子踊や奴振りなどを奉納するようになったのではないでしょうか。たとえば湯野沢の熊野神社の石段が整備され、鹿子踊が奉納されたのもこの時期といわれています。私の推測ですが、新庄祭りが始まったころ、新庄藩領内の村々においてもであったにしかた地区においても同じ目的で鹿子踊が始められたのではないでしょうか。そして各村の人たちは飢饉における餓死者といわゆる間引きの犠牲者の霊を慰め、お祀りすることにより村の守り神となっていただく、という意味で鹿子踊を舞ったのではないでしょうか。村山市の5つの鹿子踊は、悲惨な過去の犠牲者を慰め、今後の豊作を願う舞であったのではないかと思っています。
 また村山市の、しかも河西地区だけに5つもの鹿子踊が伝えられているのはなぜでしょうか?私には村山葉山への信仰が関係していると思えてなりません。すなわち、葉山は作神であると同時に祖先の御霊達がとどまる山であり、各村々のお寺で供養された鹿子たちが、最後に神社に行って神となって葉山に登っていく、そういう過程を象徴しているのが村山市の5つの鹿子踊だと思います。
 近年次々に貴重な伝統行事である鹿子踊が復活しています。過疎と高齢化に悩む地域の人たちが数十年ぶりに舞を復活させることは並大抵のことではないと思います。また舞の復活はこれらの地域の人たちがいかに地域の習慣と行事を大切にしているかということの現れであると思います。今後は定期的にその優美な舞を地域の伝統行事として見ることができるように何らかの方法を考えていく必要があると思います。いつか村山市の5つの鹿子踊が一堂に会して踊る姿をこの目で見ていものです。
                   
 とある山神様の石碑に刻まれた鹿子。カモシカのようです。彫った部分を白線で強調してあります。