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にしかたの昔語り

稲下鹿子踊
−緑に映える鹿子−



   稲下鹿子踊
 平成21年8月9日、ようやく稲下鹿子踊を見ることができました。とてもうれしいです。ただ地元ではなく山寺の鹿子踊フェスティバルででの見学でしたので、いつか地元で見られればいいな、と思っております。今回稲下鹿子踊を見学でき、長島鹿子踊は写真だけは紹介できましたので、まだ見ぬ鹿子は富並上中原子踊だけになりました。
 稲下鹿子踊は村山市の五鹿子踊の中ではもっともよく記録が残されている獅子踊だと思います。これは早くから保存会を作り踊を維持してきた結果だと思います。
               
 稲下鹿子踊が奉納される神社、稲荷神社。「南出羽の城」(保角里志 高志書院 2006)には神社の周りに堀と土塁の跡があり土豪の館跡とみられる、と紹介されています。
  稲下鹿子踊の沿革
 この文章は「稲下鹿子踊」(昭和48年 稲下鹿子踊保存会発行)6〜8ページから紹介するものです。原文は縦書き文語体です。掲載にあたり若干手直しをし、口語体に改めています。
 稲下鹿子踊は、村山市大字稲下地区の稲荷神社に伝わる鹿子踊です。
 鹿子踊は、何百年もの永い間住民の手によって培われた古い芸術ですが、農民の歴史故にその記録は極めて少い。口碑によれば天保11年(西歴1841年)に鹿子踊が出されました。今(昭和48年)から130年前のことで、当時北日本一帯には旱抜、冷害、水害、また野鼠の大発生等の天災が相次ぎ、農民の生活が貧困のどん底にあった時代でした。そこで、悪魔を祓い豊作を神に祈ったのがきっかけで鹿子踊が出されました。それ以前の文化・文政年間には、全国的に獅子踊が踊られた記録があります。その後、江戸時代末期から明治2〜3年頃までは、倒幕運動の嵐となり社会不安と凶作により経済的裏付けが無く鹿子踊を踊る余裕がありませんでした。ようやく明治5年Iさん等が世話方となり、33年ぶりで踊が出されましたが、前回(天保11年)の踊手の物故者が多く、踊の伝承に支障をきたし
一部については、長嶋鹿子踊に習ったとも伝えられています。
 その後は、度々踊が出され、いわゆる明治の全盛期に入ります。
 第二期は明治11年に出されました。この時の情景は、河島の住人、Yさんによって画かれ、稲荷神社奉納の偏額になっています。現在ではもっとも貴重な資料の一つです。
 第三期は明治18、19、20年に出され、19年は稲下小学校の落成に、また翌20年は新道路(現県道)開通を祝して踊られ、同年秋、関山トンネル開通祝賀式に招待されました。
 第四期は、明治24年、豊作を祈願して出され、翌25年、碁点橋の竣工式に踊られています。
 第五期は、明治34年、若衆組主催により豊作を祝って踊られました。(注この時の踊手Sさん(鉦打)、Tさん(鹿子)および部外者、Tさんの話をもとに、明治時代の鹿子踊を記録しました。)
 第六期は、大正4、5年青年団主催となって出され、山形共進会への招待を始め、稲下全戸を華々しく踊りまくったといわれています。
 第七期は、昭和4、5年に豊作を祈願して出されました。
 第八期は、終戦の暗い世相にようやく光が見だされた昭和22年、豊作と稲下水利組合隧道の竣工を祝して踊が出されました。当時、終戦直後の極端な物資不足時代で、道具、衣装の準備は思うにまかせませんでした。
 第九期は、昭和30年村山市合併一週年記念祭に出され、市内全域にわたって踊が展開されました。昭和30年夏から冬にかけて、Iさん、Sさんらを中心にスライド「稲下鹿子踊」を製作し「山形県自作スライドコンクール」に第一位入賞を果たしました。その披露をかねて昭和31年2月26日稲下公民館に於て稲下鹿子踊保存会結成の集いが催されました。その主旨は、鹿子踊が時代の流れと共に消滅の危険性があり、今後、踊りが安全に子孫に受け継がれ末永く踊り伝えられる基盤としました。
 同年8月、稲荷神社の大祭があり、9月5日花納めが行われた。
 第十期、この頃より全国的な過疎現象と住民の職業が多岐にわたり、従って人的資源が乏しくなり、時代の流れを考慮の上、保存会規約を一部改正しました。その主な点は、踊り手は常に整備しておき、欠員を生じた時は補充を行う点です。この改正により第九期の踊手を中心に欠員を補充して昭和36年8月、村山祭りに招待を受け踊が出されました。
 第十一期は、昭和39年稲荷神社社殿大改装事業を祝し8月18日庭開き、翌19日の大祭には神興の先導をつとめ村まわりを行いました。25日には戸沢小学校体操場において戸沢地区民に踊を公開しました。9月6日恒例により山寺へ踊を奉納し、27日には「うたごえ東北大会」(県民会館)に出演し、喝采を博しました。翌40年2月フジテレビより招待され、出演者を12名に縮少して初めてテレビに出演し全国に放映されました。
  古文書について
 稲下鹿子踊の解明に参考となる数少ない資料の一つとして古文書写一巻が残されています。(S氏所蔵)
 当時の関係者、I・S両氏が鹿子踊の発祥を探らんと、現在の山形市妙見寺におもむき、伝授されたものと思われます。
 この資料も「稲下鹿子踊」(昭和48年 稲下鹿子踊保存会発行)から紹介するものです。ただし個人名は伏せさせていただきました。

      伝授
三頭は三種の神器なり
五頭はこじの如来を表す
七つは七やらを表す
九つは九やらを表す
男體流は裾を軽く切幕なり
女體流は裾を長く長幕なり
沼が平と申す処より大蛇壱つ出来
さばね山にて押ふさぎ
此洞を入海になさんとせし所に
もリ岩より不思議や
ほこ壱つ出来しと見た給たば
大蛇の頭に乗り難なく鎮め給へ
年の頃十四ばかりの女性と顕れ
我を誰と思ふらん
かたじけなく妙見大菩薩なり
氏子不便と思ひたれがしふみ鎮めたり
吉日と撰み七つのすゝめ
頭を揃た辰の一天に
旭に向いて祝ふならば
末は目出度くあるべしとなり
さるによりて朝日踊とは申すなり

享保拾年九月九日
(裏書)
大正五年拾月四日に
南村山郡東沢村字妙見寺
○○○○○氏より伝授されたり
○○○○印
○○○○印