にしかたの昔語り
長島鹿子踊
−最上川三難所三ヵの瀬に舞う鹿子−
村山市内を南から北に流れる最上川は、碁点から大槙をへて大淀に至ると大きく西に蛇行します。この蛇行した部分は昔最上川舟運が盛んだったころは難所として知られました。有名な奥の細道でも「・・・碁点、隼などいう恐ろしき難所あり・・・」と記されています。現在はこの蛇行した部分を国道が南北に縦断し、北と南の2カ所に橋がかけられております。これらの橋のうち、南側の橋の付近の集落が三ケ瀬地区です。ここに昔から鹿子踊が伝わっております。
長島鹿子踊は稲下鹿子踊と同じく6頭立ての鹿子踊で、鹿子頭の名称は2頭のみ「日天」「月天」の名がついています。
構成は太鼓2、鉦ぶち2、笛方複数名、ササラ2、謡複数名からなっています。
曲目は「道踊」「門(橋)始舞」「入始(いれは)」「花見(だこらん)」「露浴(つゆあみ)」「露払(とんひゃり)」「三拍子」「うたぎり」「尋ね一番」「三拍子」「尋ね二番」「三拍子」「尋ね三番」「三拍子」「狂言(くるい)」「三拍子」「首踊」「後の狂言」「三拍子」「花のお庭」「道踊」。
長島鹿子踊の由来は、その昔桓武天皇が京都平安京に都を移す際、鹿たちが別れを惜しんで舞った舞にもとづくといわれ、また慈覚大師の山寺開山を祝って舞われた踊とも言われています。長島鹿の子踊も上中原鹿の子踊と同様に、日天獅子・月天獅子があり、桓武天皇の名を伝えるもので、県内では長島と左沢深沢獅子踊のみです。江戸時代にはすでに踊っていたといわれ、その背景には最初に述べたとおり最上川舟運で栄えたこの地は近隣地域の文化や京文化との交流があったと思われ、近隣地域の文化や京文化との交流から生まれた鹿子踊であることが推定されます。
(参考「山形県の獅子舞」佐藤源治、獅子玩具館1982)
以下に紹介する写真は平成17年新三ケ瀬橋開通の際に復活した長島鹿子踊の写真です。撮影者はたぶん父で、当日は早い初雪があったようです。